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第 1 章 MMK 諸注釈書における ABh の引用と位置付け

1.4 ABh と『青目註』に見られる MMK の伝承形態

1.4.4 BP、PP、PSP

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偈は、四縁一つ一つの語句説明に違いは見られるものの、この偈頌を直前の2つの偈頌で 説かれる「不生」に対するアビダルマからの批判と捉えている点はABhと同様である。

また、四縁について『青目註』は所縁縁(縁縁)と等無間縁(次第縁)の順序が他本と 逆になっているが、本来は『青目註』に示される順序の方が一般的である25。よってこれ はMMK述作の際にサンスクリットの韻律という制約上、所縁縁と等無間縁の順序が入れ 替えられて表記されたものと推察される。そしてチベット語訳ではそれが踏襲され、他方

『青目註』は漢訳の際に羅什によって通常の順序に入れ替えられたものと考えられる。

前述の通り『青目註』は ABh との類似が指摘される一方で、羅什による加筆・訂正が 行われたとも伝えられている。ここに挙げた第2偈、第3偈の注釈からはその両方の特徴 を確認することができる。

36 bdag gi dngos po yod min na/ /

gzhan gyi dngos po yod ma yin/ /[3]

'di la dngos po yod pa rnams gcig la gcig ltos (ltos D ; bltos P) nas gzhan nyid du 'gyur ba ni dper na cai tra las gub ta (gub ta D ; gupta P) gzhan du 'gyur la/ gub ta (gub ta D ; gubta P) las kyang cai tra gzhan du 'gyur ba lta bu yin na/ gnas skabs gang na sa bon la sogs rkyen rnams yod pa'i gnas skabs de na myu gu la sogs pa dngos po rnams yod pa ma yin te/ de'i phyir rgyu la sogs pa rkyen rnams yod pa na myu gu la sogs pa dngos po rnams kyi rang bzhin yod pa ma yin no/ / de rnams kyi bdag gi dngos po yod pa ma yin na rgyu la sogs pa dag ji ltar gzhan du 'gyur/ de lta bas na rgyu la sogs pa rkyen rnams myu gu la sogs pa dngos po rnams las gzhan nyid yin par mi 'thad do/ / de'i phyir gzhan gyi dngos po med pa kho na'i phyir dngos po rnams gzhan las skye'o/ / zhes bya ba de 'thad pa ma yin no/ /

問う。「諸事物が自ら生じることは無い。すなわち、その芽自体からどのように生じ るのか」と答えたことと「自から生じることが無いならば、自と他の両者から生じる こともまた妥当ではない。なぜなら一方が論難されているからである。」と言うことと、

すなわち「無因から生じる」というその立場は大過であるので、それらはまず認めら れない。「諸事物が他から生じることは決して無い」ということを確認して答えたその ことに対して問う。

諸縁は4種類であり、因と、所縁と、等無間 増上もまたそうであり、第5の縁は存在しない。[2]

「第5はありはしない」と言うことによって、ある師は「この4つの縁とは別に言説 で説かれたすべてもまた、これら 4 つの縁に集約される。」と確認している。それを よく示すために、因などのそれら4つの縁が諸事物を生じる縁であると示した。それ ら4つの縁から諸事物は生じるであろう。それらの異なった4つの縁から諸事物は生 じることになるのだから、「諸事物が他から生じることは決して無い」というのは正し くない。

答える。もし汝が、異なっていると言説を付した、因などの4つの縁が諸事物と異 なったものであるならば、諸事物は他から生じることにもなるべきだが、それらが異 なったものであるというのは妥当ではない。何故かと言えば

諸事物の自性は縁などの中に存在しない。

自性が存在しないのならば他性は存在しない。[3]

ここに存在する諸事物が相互に依存することで異なったものとなるのは、たとえばチ ャイトラとグプタを異なっているとし、グプタとチャイトラもまた異なっているとす るようなものであり、種子などの状態の諸縁が存在する場合、その時に芽などの状態 の諸事物は存在しない。そのため因などの諸縁がある場合、芽などの諸事物の自性は 存在しない。それらに自性が存在しないのならば、因などはどのようにして異なった ものとなるのか。それ故、因などの諸縁は芽などの諸事物と異なったものであるとい うのは妥当ではない。そのため、他の事物は決して無いので「諸事物は他から生じる」

というのは妥当ではない。

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BP ではまず前述の通り、先の 2注釈書とは逆の順序で偈頌が配置されている。そのた め第2偈に置かれた「四縁の偈頌」は第1偈に対する反論者の主張として位置付けられて いる。そして、その内容は第1偈で説かれる4種の不生のうち「他からの生起」が成り立 たないという説に対してアビダルマの観点から批判するというものである。つまり、四縁 というそれぞれ異なった縁から生じるのだから「他からの生起」は成立するとして第1偈 の説を論難しているのである。

そして、この「他からの生起は成り立つ」という反論に対して、第3偈では「自性が存 在しないのならば他性は存在しない」という「自性の偈頌」の主張に基づいて、種子と芽 などの比喩を用いながら、両者の別異性(他性)が成り立たないことを論証することで「他 からの生起」を論駁する。

当然のことながらこれは上述の ABh、『青目註』と大きく異なった解釈であり、また注 釈の論旨も前の2つより詳細なものとなっている。しかし、このように「四縁の偈頌」を 第2偈、「自性の偈頌」を第3偈とする文脈は、第2偈で説かれる四縁を「他からの生起」

として捉えるBPの解釈によって成り立っている部分が大きく、必ずしも「四縁の偈頌」

自体が自、他、両者、無因のうち「他からの生起」のみを想定して説かれているわけでは ない。

また、PPとPSPでもBPと同様、第2偈として「四縁の偈頌」が配置される直前にそ れぞれ以下のようなアビダルマからの反論が述べられている。

〔PP Chap.1 v.2, 3〕 D.53b4, P.64b5

bzhi po gzhan du gyur pa de dag kho na las skye bar 'dod do/ / de la bstan bcos byed pas dngos po rnams gzhan las skye ba med de zhes dam bcas par gyur pa gang yin pa de ni khas blangs pa la gnod par 'gyur ro/ /

(諸事物は)それら4種(因縁・所縁縁・等無間縁・増上縁)の他なるものから生じ るにほかならないと説く。そこで論書の作者(Nāgārjuna)による「諸事物は他から 生じることは無い」という主張は承認された教説において排斥される。

〔PSP Chap.1 v.2, 3〕 LVP[1903-1913]p.76.1

atrāhuḥ svayūthyāḥ/ yad idam uktaṃ na svata utpadyante bhāvā iti tad yuktaṃ svata utpatti vaiyarthyāt/ yac coktaṃ na dvābhyām iti tad api yuktam ekāṃś avaikalyāt/ ahetupakṣas tv ekāntanikṛṣṭa iti tat pratiṣedho 'pi yuktaḥ/ yat tu khalv idam ucyate nāpi parata iti tad ayuktaṃ yasmāt parabhūtā eva bhagavatā bhāvānām utpādakā nirdiṣṭāḥ/

ここで自派(アビダルマ)の者たちは言う。「諸事物は自から生じない」と述べること は理に適っている。自から生じることは無意味であるから。また「両者からでもない」

と述べているそれも理に適っている。(自からという)一方が不完全であるから。他方、

無因という主張は絶対的に下劣であるから、それを否定することも理に適っている。

しかし、「他からも(生じ)ない」と語ることは不合理である。なぜなら世尊は他なる ものこそ、諸事物を生じさせる、と説示しているから。

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以上のようにPP、PSPの両者においてBPと同じく「他からの生起」をきっかけとし た反論者の主張が第2偈への導入として述べられている。

これについてBhāvivekaとCandrakīrtiがABhの内容を把握していたことは上記に列 挙してきた例からも明らかであるので、どちらの注釈者もABhとBPの両者の解釈を勘案 した上で、「他から生じる」という反論者の主張も含めBPに示される形式に依拠したもの と考えられる。