• 検索結果がありません。

第 4 章 『青目註』における涅槃と戯論

4.2.2 MMK に説かれる涅槃

まずはMMKにおいて涅槃がどのように説かれているかを確認していこう。前述のよう に、MMKで涅槃が主体的に論じられているのは第25章である。そしてその第25章は以 下の2偈から始まる。

〔MMK Chap.25 v.1〕 Ye[2011a]p.450

yadi śūnyam idaṃ sarvam udayo nāsti na vyayaḥ/

prahāṇād vā nirodhād vā kasya nirvāṇam iṣyate/ /

もし、この一切が空であるならば、生起は存在せず、消滅もない。

何を断じ、あるいは滅することから、涅槃が認められるだろうか。

〔MMK Chap.25 v.2〕 Ye[2011a]p.450

yady aśūnyam idaṃ sarvam udayo nāsti na vyayaḥ/

prahāṇād vā nirodhād vā kasya nirvāṇam iṣyate/ /

もし、この一切が空ではないならば、生起は存在せず、消滅もない。

何を断じ、あるいは滅することから、涅槃が認められるだろうか。

ここではまず第1偈で「空を認めると涅槃が成り立たない」という反論者の主張が述べ られ、それに対して、「空を認めないと涅槃が成り立たない」とNāgārjunaが返答すると いう形で議論が展開されている。これは「煩悩を断じ、五蘊を滅することで涅槃が得られ る」という伝統的な涅槃解釈に対して、空の立場からの涅槃を主張したものである。

また、同章のこれ以降の偈頌では以下のように説かれている。

〔MMK Chap.25 v.5〕 Ye[2011a]p.452

bhāvaś ca yadi nirvāṇaṃ nirvāṇaṃ saṃskṛtaṃ bhavet/

nāsaṃskṛto vidyate hi bhāvaḥ kvacana kaścana/ /

また、もし涅槃が事物であるならば、涅槃は有為であることになるだろう。

なぜなら、無為なる事物は何であれ、何処であれ存在しないからである。

〔MMK Chap.25 v.13〕 Ye[2011a]p.456

bhaved abhāvo bhāvaś ca nirvāṇam ubhayaṃ katham/

asaṃskṛtaṃ hi nirvāṇaṃ bhāvābhāvau ca saṃskṛtau/ / どうして涅槃は事物と非事物の両者であり得るだろうか。

91 涅槃は無為であり、事物と非事物は有為である。

ここではNāgārjunaによって「涅槃は有為ではなく、無為である」と説明されている。

Nāgārjunaが涅槃についてこのように主張する背景には、アビダルマの教理を批判すると

いう目的がある。

アビダルマの教理では、あらゆる法(dharma)は有為法と無為法に二分され、涅槃は そのうちの無為法であると解釈されている。そのため涅槃を無為法とするアビダルマの解 釈は、一見すると上記のNāgārjunaによる解釈と一致しているように思われる。しかし、

アビダルマでは有為法と無為法のいずれも勝義有(paramārthasat)として存在すると解 釈されている。

それに対してMMKでは上記の第2偈にも示されているように、あらゆるものは空であ ると説く。そのためMMKにおいて Nāgārjunaは一貫してアビダルマの説く有の立場を 批判する。このように「存在する/存在しない」といった分析的思考への批判は、MMK における主要なテーマの1つである。以上の理由から有為法との関係性の上で想定される 無為法としての涅槃というアビダルマの解釈はMMKの思想においては認められないもの なのである。

それゆえ、上記の「涅槃は有為ではない」というNāgārjunaの主張は必ずしも無為法と しての涅槃を主張しているのではない。むしろ彼は、空の思想においては有為法や無為法 といった区別は成り立たず、そのようなあり方を離れてこそ涅槃が認められると説いてい るのである。

そして、第25章の後半ではNāgārjunaの涅槃観が以下のように説かれる。

〔MMK Chap.25 v.19〕 Ye[2011a]p.458 na saṃsārasya nirvāṇāt kiṃcid asti viśeṣaṇam/

na nirvāṇasya saṃsārāt kiṃcid asti viśeṣaṇam/ / 輪廻には涅槃といかなる区別も存在しない。

涅槃には輪廻といかなる区別も存在しない。

〔MMK Chap.25 v.20〕 Ye[2011a]p.458 nirvāṇasya ca yā koṭiḥ koṭiḥ saṃsaraṇasya ca/

na tayor antaraṃ kiṃcit susūkṣmam api vidyate/ / 涅槃の極限は、また輪廻の極限でもある。

両者にはいかなる些細な差異も無い。

Nāgārjunaはこの2偈で、あらゆる分析的思考を離れるというMMKの思想に基づいて、

一方が輪廻で、もう一方が涅槃であるというような区別も存在しないと説く。また、「涅槃 の極限が輪廻の極限である」とは、輪廻の果てを越えたその先に涅槃があるのではなく、

両者が同じ果てを共有している関係にあるということを示している。冒頭に挙げた『青目 註』の「生死即涅槃」という解釈はMMKのこのような涅槃解釈から特に強く影響を受け ているものと考えられる。

92

4.2.3 『青目註』の涅槃解釈とABhの影響

前項ではMMK第25章において説かれる涅槃について概観したが、ここからはそのよ うな MMK の涅槃観が、『青目註』でどのように解釈されているかを検討していく。そし て、その例としてまずはABhからの影響が見られる箇所を MMKの該当する偈頌と共に 以下に挙げる。

〔MMK Chap.18 v.4〕 Ye[2011a]p.302

mamety aham iti kṣīṇe bahiś cādhyātmam eva ca/

nirudhyata upādānaṃ tatkṣayāj janmanaḥ kṣayaḥ/ / 「私の」、「私は」という(観念)が外にも内にも滅した時、

取が滅せられる。その滅から生が滅する。

〔MMK Chap.18 v.5〕 Ye[2011a]p.302

karmakleśakṣayān mokṣaḥ karmakleśā vikalpataḥ/

te prapañcāt prapañcas tu śūnyatāyāṃ nirudhyate/ /

業と煩悩が尽きると解脱が(ある)。業と煩悩は分別から(起こる)。

それら(の分別)は戯論から(起こる)。しかし戯論は空性において抑止される。

〔ABh Chap.18 v.4, 5〕 D.69b7, P.81b3 nang dang phyi rol nyid dag la/ / bdag dang bdag gir zad gyur na/ / nye bar len pa 'gag 'gyur zhing/ / de zad pas na skye ba zad/ /[4]

de ltar nang (nang D ; na P) nyid la bdag tu mngon par zhen pa dang/ phyi rol nyid la bdag gir mngon par zhen pa zad par gyur na/ nye bar len pa rnam pa bzhi 'gag par 'gyur zhing de 'gags pas srid pa zad par 'gyur la/ srid pa zad pas skye ba zad par 'gyur ba de ni gang zag la (la D ; n.e. P) bdag med pa'i de kho na rtogs pa'i 'bras bu nyon mongs pa'i sgrib pa spangs pas rab tu phye ba phung po'i lhag ma dang bcas pa'i mya ngan las 'das pa yin no/ / da ni chos bdag med pa'i de kho na rtog (rtog D ; rtogs P) pa'i 'bras bu shes bya'i sgrib pa spangs pas rab tu phye ba'i (ba'i D ; ba P) phung po'i lhag ma med pa'i mya ngan las 'das pa thob pa'i thabs bstan pa'i phyir bshad pa/

las dang nyon mongs zad pas thar/ /

las dang nyon mongs rnam (rnam D ; rnams P) rtog las/ / de dag spros las spros pa ni/ /

stong pa nyid kyis 'gag par 'gyur/ /[5]

'di la las dang nyon mongs pa dag ni skye ba'i rgyu yin pa'i phyir de dag zad pas sdug bsngal las rnam par grol ba ni thar pa ste/ des ni phung po lhag ma dang bcas

93

pa'i mya ngan las 'das pa'i dbyings su 'jug par bstan to/ / las dang nyon mongs pa de dag ni rnam par rtog pa las 'byung ('byung D ; byung P) ste/ de dag yod na 'byung ba'i phyir ro/ / rnam par rtog pa de dag ni spros pa las 'byung ste/ tha snyad kyi bden pa la mngon par zhen pa'i mtshan nyid kyi spros pa las 'byung ('byung D ; byung P) ba'i phyir ro/ / spros pa ni stong pa nyid kyis (kyis D ; kyi P) 'gag par 'gyur te/ chos bdag med pa nyid kyi mtshan nyid rtogs pas 'gag par 'gyur ba'i phyir ro/ / de (de D ; des P) ni phung po'i9 lhag ma med pa'i mya ngan las 'das pa'i dbyings su 'jug par bstan to/ /

内と外において我と我所が尽きたならば、

取が滅し、それが滅することによって生が尽きる。[4]

そのように内において我に執着することと、外において我所に執着することが尽きた ならば、四種の取が滅することになり、それが滅することによって有が尽きる。有が 尽きることによって生が尽きる。それは人無我の真実が理解された結果、煩悩障が捨 てられることで明らかになる有余涅槃である。今、法無我の真実が理解された結果、

所知障が捨てられることで明らかになる無余涅槃を得る手段を示すために説明する。

業と煩悩が滅すると解脱(がある)。業と煩悩は分別から(起こる)。

それら(の分別)は戯論から(起こる)。戯論は空性によって滅することになる。

[5]

ここで、業と煩悩は生の原因であるから、それらが尽きることによって、苦から解放 されることが解脱である。それによって有余涅槃界に入ることを示すのである。それ らの業と煩悩は分別から起こる。(なぜなら)それらが存在する場合に生じるからであ る。それらの分別は戯論から起こる。世俗諦への執着を特徴とする戯論から生じるか らである。戯論は空性によって滅することになる。法無我の特徴を理解することによ って滅することになるからである。それが無余涅槃界に入ることを示すのである。

『青目註』第18章第4偈、第5偈 T.30 p.23c26, 24c410

内外我我所 盡滅無有故 諸受即爲滅 受滅則身滅[4]

内外我我所滅故諸受亦滅。諸受滅故無量後身皆亦滅。是名説無餘涅槃。

問曰。有餘涅槃云何。

答曰。

業煩惱滅故 名之爲解脱 業煩惱非實 入空戲論滅[5]

諸煩惱及業滅故。名心得解脱。是諸煩惱業。皆從憶想分別生無有實。諸憶想分別皆從 戲論生。得諸法實相畢竟空。諸戲論則滅。是名説有餘涅槃。實相法如是。

両者を比較すると、いずれもこの2偈を有余涅槃と無余涅槃の2種の涅槃を用いて解釈 している点で共通する。しかし、ABhは第4偈を有余涅槃、第5偈を無余涅槃としている のに対して、『青目註』は第4偈を無余涅槃、第 5偈を有余涅槃としている点が相違して いる。また、この2偈に対して有余涅槃と無余涅槃を用いて解釈するという例はBP、PP、

PSPといった他のMMK注釈書には見られない。

まず、ABhの注釈を参照すると第4偈を人無我、第5偈を法無我としていることなどか

94

ら、第4偈を小乗(アビダルマ)の涅槃観、第5偈を大乗の涅槃観として解釈していると 考えられる。つまり、有余涅槃は我と我所への執著は滅しているものの、肉体を残してい る意味では不完全な涅槃であり、無余涅槃こそが空性によって戯論を滅することで得られ る大乗の涅槃であると解釈しているということである。

先に見たMMKの解釈に基づけば、涅槃とはあらゆる分析的思考を離れたものであるか ら、本来は有余と無余というように区別立てて解釈されるべきものではない。しかしここ に示されるABhの解釈は、無余涅槃を最終的な目標と位置付ける小乗に対して、MMKの 空思想に基づいて示される涅槃の方が優れたものであると示すために、あえて小乗の語彙 を用いて小乗の涅槃を有余、大乗の涅槃を無余というように表現したものと考えられる。

他方、『青目註』は第4偈を無余涅槃、第5偈を有余涅槃というようにABhとは逆の解 釈を示している。MMK第4偈の「janmanaḥ kṣayaḥ生が滅する」という箇所が「身滅す」

と漢訳されているのも、このような解釈に基づくものであろう11

この無余涅槃の後に有余涅槃を位置付ける解釈は一見すると伝統的な解釈に反するよう に思われるが、末尾に「是を名づけて有余涅槃と説く。実相の法は是の如し。」とあること から『青目註』では有余涅槃が無余涅槃より高次なものとして捉えられていると考えられ る。

なぜなら、大乗の立場からすれば、無余涅槃はいわば灰身滅智であるから、衆生を救済 し続ける大乗の菩薩としての基本構造が成り立たなくなってしまう。そのため、第4偈の 有余涅槃を小乗、第5偈の無余涅槃を大乗とするABhの解釈はややもすれば不合理なも のであると言える。そのため『青目註』では、2種の涅槃を用いてこの2偈を注釈すると いう ABh の手法から着想は得つつも、より妥当な解釈となるよう順番を入れ替えたと考 えられる。

しかしながら、ここで『青目註』は小乗の伝統的な解釈に則して有余涅槃を認めている わけではないだろう。なぜなら、「分析的思考を離れる」というのがMMKの目的であり、

その境地こそが涅槃なのであるから、それを有余と無余の2種に分けるということ自体が 不合理な解釈であることになる。むしろ、そのような誤った分別の原因である戯論を滅す ることで「輪廻と涅槃にはいかなる区別もない」というMMKの涅槃観は成立する。

そのため、『青目註』における有余涅槃は、小乗のように無余涅槃との関係性において想 定されるものではなく、有余の先に無余を想定する必要が無いという意味で用いられてい るのである。そして、冒頭に挙げた「生死即涅槃」もそのような『青目註』の涅槃観に起 因すると考えられる。

以上のように、この2偈の解釈をめぐって『青目註』には ABhからの明らかな影響が 認められるが、それは単に踏襲されるというものではなく、より整合した解釈となるよう 修正が加えられている。

また、ここに挙げた第18章第4、5偈に続く第6偈は本稿1.3.3において例として挙げ た偈頌である。そこでは我の解釈をめぐって『青目註』のみがABhを引用することなく、

異なった解釈をしていた。このことから、ABhとの類似が指摘される『青目註』であるが、

そこには ABh の記述の取捨選択や内容の修正といった編集が行われている痕跡が認めら れる。