第 4 章 徽州方言の地理的分布
4.5 ABCA 型分布
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「竈」に「鍋」を前置した「鍋竈下」,「鍋竈後」は北から伝播してきた可能性が高い。
『漢語方言解釈地図』(岩田礼等 2009)の地図 44-2 によれば,徽州北部の長江沿いに第 一成分が「鍋」である語形が分布している。この語形が長江に通じている徽青古道などに 沿って徽州の豊楽河と富資水流域に伝播してきた可能性がある。
「座下」[tsho xɔ],「茶下」[tʃoɐ xoɐ]は,第一音節の韻母がすべて円唇母音[o]で ある。それは第二音節「下」の円唇母音「ɔ」や[o]の影響を受けて変化したためと考え る。つまり,逆行同化が発生し,「竈下」は次第に第一音節が円唇母音になった。それと ともに,「竈」への語源意識が消え,民衆語源による新語形が生まれた。Y1(郭門)を例 として挙げれば,現在“台所”を[tʃoɐ xoɐ]と呼び,「茶下」と書く。『徽州方言研究』
(平田昌司 1998)は「竈下」[tʃɤɐ xoɐ]と記している。これは[ɤɐ]が[oɐ]に変化し たことを示す。徽州は茶の葉を豊富に産出し,お茶を飲む習慣が昔から盛んであった。水 を飲むことを「吃茶」と呼ぶ。台所はお茶を沸かす場所なので,「茶下」と呼ぶようにな ったのである。X16(和村)では[tsho xɔ]と発音するが,漢字で書けない。これは「竈」
への語源意識が消え,Y1(郭門)の「茶下」のように再度有縁化する前の段階にあたるだ ろう。
「厨下」は閶江沿いと新安江の源の地域に分布し,「竈下」系語形を分断し,ABA 分布 となっている。即ち,4.2.4 で述べた「閶江型分布」である。4.2.4 の解釈に倣えば,「厨 下」は閶江下流にある江西省の景徳鎮市から流れに逆らって上ってきた語形だと推定され る。『贛東北方言調査研究』(胡松柏等 2009)によれば,景徳鎮市とその付近に「厨房」
や「厨下」が分布している。このことから,景徳鎮市方向から伝播した「厨房」や「厨下」
によって,「竈下」系語形の連続的な分布が分断されたと推定される。また,婺源県にも
「厨下」が分布していることから,「厨房」や「厨下」は,江西省から閶江に沿って伝播 してきたもののほか,婺源県の楽安江に沿って伝播したものもあったと推定される。
婺源県の「家背」は婺源県に特有の語形であり,これまでの所,他方言でも見つかって いない。「家背」は婺源県の「厨下」を分断していることから,ABA 分布の原則によって,
「家背」は婺源県で生まれた新語形だと推定される。「家背」という文字ずらから見れば,
台所が家の背面にあることから来ていると解される。
まとめると,「竈下」系語形>「厨下」>「家背」という変化が発生したと考える。
44 地図 21 “ジャガイモ”の語形
て,南部の楽安江流域,東北部の績溪県と歙県が接する地帯に「馬鈴薯」はそれぞれまと まって分布していいる。
2.「馬鈴芋」は休寧県の中東部と屯溪区,つまり,新安江と横江が合流した地域を中心 に分布している。そのほか,績溪県の練江流域にも散在している。
3.「洋芋」系語形は豊楽河,富資水,及び新安江下流流域,つまり旧徽州府府庁所在地 を中心とした地域に集中して分布している。そのほか,X20(新安源),W10(河東)とい った新安江と楽安江の源にある地域にもまとまって分布している。
解釈
『中国栽培植物発展史』(李璠 1984)によれば,ジャガイモは 17 世紀頃に外国から中 国に導入された。マレー半島から伝わったという伝承によって,マレー(
Malay)
を音訳し た結果,「馬鈴」と命名された。「洋」は海外からもたらされたことを表わす。「馬鈴」と「洋」だけではどちらが古いか説明できない。しかし,地図 21 では,「馬鈴薯」は徽州の 周縁部に分布し,「芋」を有する語形に分断され,周圏分布となっている。周圏分布の原 則から「馬鈴薯」が最も古いと推定される。
『漢語方言解釈地図』(岩田 2009)の地図 24 によれば,「芋」は江淮地域,「薯」は南 方で使われる語幹である。おそらくこの「洋芋」系語形は北から徽州に侵入し,徽州で使 われていた「馬鈴薯」を攻略したのだろう。但し,地域によって情況が異なる。例えば,
旧徽州府府庁所在地 S1(古関)を中心とした地域で「洋芋」系語形は完璧な勝利を収め たが,休寧県中東部では全面的な勝利を収めておらず,「馬鈴薯」の「薯」を「芋」に置 き換えることで「馬鈴芋」が生まれたと考えられる。つまり混淆形である。
以上の変化から見ると,「洋芋」系語形の伝播は一地点に伝播して定着した後に,次の 地点に伝播して行ったわけではないようである。おそらく相対的に広い地域に速く広がっ
45 た後に,既存の語形と戦って勝利を収めたのだろう。そのため,徽州中部の広い地域では
「馬鈴薯」と「洋芋」系語形を併用していた段階があると推定される。地図 21 で示した ように,両語形を併用する地点が少なくないのはその跡と見られる。それに,西南端の W1(紫陽),W15(珍珠山)でも「洋芋」系語形が存在するのは,それがかつて広い地域に 広がったからだと言えるのではないだろうか。
4.5.2 [サツマイモ]
地図 22 “サツマイモ”の語形
現在徽州で食べられるサツマイモは,皮が赤く実が黄色いものが多い。ほかに皮が赤く 実が白いといった品種もあるが,少なくなっている。品種によって,名称が異なることも あるが,ここで示した語形はすべてサツマイモに対する総称である。
語形と分類
“サツマイモ”を表す語形は修飾語によって,「蕃」系語形,「紅」系語形,「山」系語 形の三類型に分類した。
「蕃」系語形は「蕃薯」[fum ɕy],「蕃苕」[foɐ sau],「蕃芋」 y]がある。「飯芋」
y]は「蕃芋」と声調が異なるが,変異形と見なした。
「紅」系語形は「紅薯」[xɤŋ tɕhy],「紅苕」[xɛn ʃo]を含む。
「山」系語形は「山芋」[sɛ y],「沙芋」[so y]を含む。
分布
1.「蕃」系語形の「蕃薯」は主に楽安江流域の婺源県に分布している。「蕃苕」は黟県 の横江上流地域に分布している。「蕃芋」は新安江の上流と下流に分かれて分布し,遠隔 分布となっている。「飯芋」は練江流域の績溪県,及びそれと接する歙県に分布している。
要するに,「蕃」系語形は主に徽州の周縁部に分布している。
46 2.「紅」系語形の「紅薯」は主に閶江流域の祁門県に分布している。「紅苕」は休寧県 の中東部と屯溪区,つまり,新安江と横江が合流した地域を中心に分布している。「紅薯」
と「紅苕」の分布地域は徽浮古道,或いは皖贛鉄道(地図 4,5 を参照)によってつなが っている。
3.「山」系語形は旧徽州府府庁所在地であった S1(古関)を中心とした地域に分布し ている。語形はほとんど「山芋」だが,H5(石川)と H6(呈坎)では「山芋」[sɛ y]の 変異形とみられる「沙芋」[so y]を使う。
解釈
『中国栽培植物発展史』(李璠 1984)によれば,サツマイモは 17 世紀初頃外国から中 国に導入された。「蕃」系語形の「蕃」は外国の意味である。「蕃」系語形は徽州の周縁部 に分布し,「紅」系語形と「山」系語形に分断され,周圏分布となっている。このことか ら徽州では「蕃」系語形が古いと考えられる。
「蕃」系語形の中では,「蕃薯」が最も古いと考える。清代の『嘉慶黟県志・道光黟県 続志』19(1825)に,「番(蕃)藷,一名朱藷,一名玉枕藷」(蕃薯は一名「朱藷」,一名
「玉枕藷」)という記載がある。「藷」と「薯」は異体字である。つまり,当時の黟県では
「苕」ではなく,「薯」で呼んでいた。その後,「蕃薯」>「蕃苕」という変化が発生した のである。4.5.1 で説明したように,「芋」は江淮地域,「薯」は南方で使われる語幹であ る。「芋」は北から徽州に入り,それによって「馬鈴薯」の「薯」,「蕃薯」の「薯」,或い は「蕃苕」の「苕」も「芋」に置き換えられた。つまり,徽州の東北部では「蕃薯」・「蕃 苕」>「蕃芋」という変化が発生した。「飯芋」は「蕃芋」との類音を条件に民間語源が 働いたものと考えられる。例えば S23(定潭)では,「番」[fɑ21]と「飯」[fɑ33]が非常に 似ており,「蕃」に対する語源の喪失とともに,「飯芋」と呼ばれるようになったと推定さ れる。以上の推定をまとめると次のようになる。
⑴「蕃薯」>「蕃苕」
「蕃薯」>「蕃芋」>「飯芋」
⑵「蕃薯」>「蕃苕」>「蕃芋」>「飯芋」
次に「紅」系語形も「「蕃薯」に由来する。上述のように,『嘉慶黟県志・道光黟県続志』
(1825)に「朱藷」という名前が記されている。「朱」は“赤い”の意味である。おそら く「紅薯」の前身であろう。『漢語方言解釈地図』(岩田 2009)の地図 24-2 によれば,徽 州西北部に位置する安慶市とその付近の長江流域には「紅芋」などの「紅」を有する語形 が分布している。それらの語形は長江に通じている秋浦河を通じて徽州に入った可能性が 高い。その結果,「紅苕」と「紅薯」が生まれたということである。まとめると以下のよ うになる。
⑴「蕃薯」>「紅薯」
「蕃苕」>「紅苕」
⑵「蕃薯」>「紅薯」>「紅苕」
「民国歙県志」(193720)に,「紅藷,…又曰山芋」(紅薯は,…「山芋」とも呼ぶ)と いう記載がある。このことから,「紅」系語形は歙県まで広がっていたことが分かる。『嘉 慶黟県志・道光黟県続志』(1825)に見られる「蕃薯」等の「蕃」系語形の記載はなく,
すでに「紅薯」に置き換えられたと考えられる。
上掲岩田(2009)の地図 24-2 によれば,「山芋」は長江下流地域を占め,徽州北部に広く
19 嘉慶は 1796-1820 年,道光は 1821-1850 年である。
20 1998 年に江蘇古籍出版社から出版された影印版で,原本の出版年代は不明。1937 年は序文の著者が 落款に書いた年である。