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4. 【史料 A】と神奈川県出身ペルー移民

ドキュメント内 untitled (ページ 101-105)

 足柄村役場文書の一部である【史料A】の簿冊の表紙には、すでに記述したように、「在營艦者、

在外國者、在朝鮮者、在䑓湾者、在樺太者、行衛不明者、在監獄者 名簿 足柄村役場」と書かれて いる。表紙をめくると、「在營艦者之部」(24葉)、「在外國者之部」(59葉)、「在朝鮮者之部」(3葉)、

「在臺湾者之部」(3葉)、「在樺太者之部」(1葉)、「行衛不明者之部」(11葉)、「在監獄者之部」(8葉、

ただし記入済みは3葉)の各部門の名簿が順番に綴られている。「(在外国者)名簿」のタイトルをつ けて整理されているが、いわゆる「外国」渡航中の者に限定されない、村内非居住村民の名簿となっ ている。

 ここでは、【史料A】内の「在外國者之部」についてのみ詳述する。全59葉から、のべ814名分の データを見いだすことができる。データは、7つの項目からなっている。「在留地」「出発年月日」「歸 朝年月日」「摘要」「本籍」「氏名」「生年月日」(ただし、「氏名」と「生年月日」は同じ枠内に記載)

の7項目である。「摘要」欄からは、「死亡」「離縁」「復籍」「轉入」といった戸籍上の移動や、「再渡 航」などの情報を得ることができる。「本籍」欄には、本籍(字と番地)のほか、戸主/非戸主の別(非 戸主の場合は戸主との続柄)、族籍などが書き込まれている。

 「本籍」の字ごとに葉が代えられ、インデックスがつけられている。足柄村の発足した1908年か ら遠くない時期に、その時点で村外に在住していた村民を把握するために作成された名簿と考えられ る。その後の異動は、随時書き込まれていった。本人が帰朝したり死亡した場合は、当該項目欄に日 時や詳細を書き込み、氏名を《見せ消》している。また、新たに渡航した者については、該当する字 ページの余白スペースに追加された。渡航後に家族が増えた場合は、先行渡航家族のデータが書かれ た行の隙間や欄外に半ば無理矢理に書き足されている。

 全59葉のうち、最初の41葉と最後の18葉は、用箋が違う。多年にわたる異動が書き込まれていっ た結果、欄外書き込みや《見せ消》が積み重なり、実用に耐えがたい状況になったため、ある時点(昭 和初期カ)で整理され、新たに書き起こされたのが、後半の18葉と思われる。その時点で死亡して いたり、帰朝している者は後半の名簿には登場しておらず、逆に、前半名簿の欄外等に無理矢理書き 込まれていた家族―呼び寄せや、在留地生まれの子どもたち等―は、後半名簿では一人分のスペース を与えられることになる。

 ここで、【史料A】の利用方法の具体例として、足柄村出身ペルー移民を例にとってみよう。

 日本人の南米ペルーへの「契約移民」としての出稼ぎ渡航は、1899(明治32)年にはじまり、1924

(大正13)年に終了した。「契約移民」関係名簿により、のべ1万8727人の渡航が確認できる16

そのなかに、神奈川県人(渡航申請のための諸書類で「原籍県」を神奈川県と記入した者)は44人 含まれている。また、「契約移民」には含まれないが、移民会社・森岡商会リマ支店の専属料理人の 資格で1899年の「第一航海」に同行渡航した細井万作一家(夫婦と5人の子ども)は「神奈川県横 浜市扇町」を原籍としており17、数こそ少ないものの、神奈川県とペルー移民との縁は浅くはない。

 神奈川県からのペルー契約移住の嚆矢は、1908(明治41)年の「第六航海」である。人数的にも 26人と、全体の6割近くを占めている。続く「第七航海」の14人までで、9割を超える。残りの4 人は、「第八航海」(1909年)、「第六一航海」(1919年)、「第六九航海」(1920年)、「第七九航海」(1923 年)に1人ずつと散発的である。

 「第六航海」「第七航海」については、渡航者の原籍(住所)にも集中傾向が見られる。全40人中、

足柄上郡18人、足柄下郡17人、高座郡2人、鎌倉郡2人、中郡1人という構成であり、残り4人は、

渡航順に、鎌倉郡、久良岐郡、橘樹郡、鎌倉郡となる。足柄下郡17人の住所をさらに詳しくみてい くと、足柄村13人、豊川村2人、上府中村1人、下府中村1人となる。足柄村役場の1908年(=「第 六航海」渡航年)以降の移民関係文書が残されていたことは、神奈川県人のペルー移住を調査研究し ようとする者にとって、たいへんに幸運なことであったといえる。

 では「第六航海」「第七航海」でペルーに渡航した足柄村民の事例を見てみよう。外務省外交史料 館所蔵の「渡航者名簿」や「旅券下付表」にもとづく移民データベース18によると、13人はいずれ も成人男性で、住所も別々である。データベースからは、それ以上の情報を読み取ることはできない。

しかし、【史料A】をあわせ読むことによって、移民同士の関係性や渡航の背景、その後の異動まで も知ることができるのである。

 13人のうち、3名の氏名は、【史料A】中に見いだすことができない。足柄村の発足は1908年4月、

ペルー行き「第六航海」者の渡航は同年9月、「第七航海」は10月である。この3名は【史料A】が 作成される以前に、帰村、もしくは死亡した可能性がある。

 残り10名のうち、たとえば、大野泰助は、データベースでは「第六航海」で単身渡航したことが わかるのみであるが、【史料A】を見ると、前半名簿の欄外に、家族の名が判読不能なほど小さな字 で書き込まれており、妻を呼び寄せ、在留地で子どもが生まれていることがわかる。後半名簿になる と、妻マサ子、1926(大正15)年生まれの善助、1928(昭和3)年生まれの昌作、1930(昭和5)年 生まれの和三郎が、それぞれ独立した欄を与えられて記載されるようになる。善助と昌作の名は《見 せ消》され、「摘要」欄に「昭和九年七月八日帰ル」とあり、学齢期の長男・次男の帰国が想像でき るのである。

 加藤春吉も、データベースでは「第六航海」で単身渡航したことがわかるのみで、同住所からの後 続渡航も見当たらないが、【史料A】を見ると、同住所の加藤長五郎(春吉の2才年少の弟と思われる)

が、渡航時期は不明であるが契約移民ではない形で渡航していることがわかる。1917(大正6)年 10月には、長五郎の妻ヤスと長女千代子が渡航した。千代子は「大正六年八月弐拾六日生」とある から、生後2ヶ月ほどで渡航したことになるし、加藤長五郎の渡航が1916(大正5)年の秋口以降 であったろうと想像できる。また、行間への書き込みからは、2年後の1919(大正8)年5月に次女 利子が生まれたことも判明する。その後、長五郎一家は1926(大正15)年3月に帰朝したが、春吉は、

【史料A】の後半名簿にも名が見られ、《見せ消》も入っていないことから、【史料A】が現用文書であっ

た昭和10年代まで存命だったであろうことが理解できる。

 下沢市平も、データベースでは「第六航海」で単身渡航したことがわかるのみで、同住所からの後 続渡航も見当たらないのであるが、【史料A】(前半名簿)を見ると、同住所の下沢耕吉(本籍が同じ であるが、耕吉と戸主との関係が未記入であり、市平と同年生まれのため、市平との続柄はよくわか らない)が契約渡航ではない形で渡航したことが判明する。耕吉は1914(大正3)年に一時帰国後 再渡航し、1919(大正8)年にふたたび帰国している。市平の欄に「帰朝年月日」の記載はないが、

氏名が《見せ消》されており、【史料A】(後半名簿)にはその名を見いだせないことから、昭和初期 までには、帰村もしくは死亡したものと思われる。また、【史料A】からは、市平の5才違いの弟と 思われる下沢留吉一家が「米合衆國加州フレスノ郡」に渡航していることも判明する。このように、【史

料A】は、ペルー移民だけにとどまらない、広がりをもった移民研究の方向性をも示してくれる史料

であるといえる。

1 銅門は1997年、馬出門は2009年に復原されている。『まちづくり情報誌 広報小田原』986号、

2009年5月1日号、ほか。

2 小田原市公式サイト内「小田原市立図書館」HP(最終更新日 2007年10月29日)http://www.city.

odawara.kanagawa.jp/public-i/e_f/library/toshokan.html 。

3 同上。

4 小田原市(編)『小田原市史 通史編 近現代』小田原市、2001年、910頁。

5 同前書、383-390頁。小田原市(編)『小田原市史 史料編 近代Ⅰ』小田原市、1991年、6頁。

6 『小田原市史 通史編 近現代』(前掲註4参照)、903-910頁。

7 星崎定五郎翁伝記刊行会(著)『移民の先駆者 星崎定五郎』星崎定五郎翁伝記刊行会(小田原市)、

1959年。同書の本文部分は小田原市公式サイト内「小田原市立図書館」HP(http://www.city.

odawara.kanagawa.jp/lib/hoshizaki/top.html)で読むことができる。

8 県西地域広域市町村圏協議会(編)『県西地域広域市町村圏・市町刊行物目録』県西地域広域市町 村圏協議会(小田原)、1972年。

9 県西地域広域市町村圏協議会(編)『県西地域広域市町村圏・明治年代役場文書目録』県西地域広 域市町村圏協議会(小田原)、1975年。

10 『小田原市史 史料編 近代Ⅰ』(前掲註5参照)、7頁。

11 『日本歴史地名大系  第14巻 神奈川県の地名』平凡社、1984年、ほか。

12 「満州への進出」として「満州への移民」に言及するのみである。『小田原市史 通史編 近現代』(前 掲註4参照)、538-539頁。

13 『小田原市史 史料編 近代Ⅰ』(前掲註5参照)810-813頁。

14 『小田原市史 史料編 近代Ⅰ』(前掲註5参照)812頁に「(三)」として活字化されている史料で ある。そこでは岩田政五郎の「旅券下付月日」を「三十三年二月廿日」と翻刻しているが、原史料 を見ると「三十二年」である。

15 日本国外務省外交史料館所蔵「海外旅券下附(附与)返納表進達一件」[3-8-5-8]。

16 拙著『海外移民ネットワークの研究―ペルー移住者の意識と生活―』芙蓉書房出版、2000年、331頁。

17 日本国外務省外交史料館所蔵「海外旅券下附(附与)返納表進達一件」[3-8-5-8]。

18 赤木作成のペルー移民データベース。詳細は、拙著『海外移民ネットワークの研究』(前掲註16参 照)335頁を参照のこと。

ドキュメント内 untitled (ページ 101-105)