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1978 年以降の社会経済変動で何が起こったのか

第3章 改革開放以降の経済発展と社会変動

第2節 1978 年以降の社会経済変動で何が起こったのか

本研究は、人々の上昇志向のエネルギーをめぐって、文化装置と生活世界の論理の関係 性の究明を目的とする。そこでは、『中国青年』雑誌というメディアに反映される文化装置 による社会のあり方の意味づけ、また読者投書に反映される個々人が自分自身の生活世界

で形成された社会のあり方に対する意味づけという内側の世界で起こった出来事を理解す るには、1978年以降の中国では、ひとびとの現実世界=外側で起こったことを確認する必 要がある。

本章では、三つの時期における個人の上昇志向のありようを明確にすることを目的に、

個人を取り囲む社会経済状況や社会構造の変化を、①1978年以降の社会経済変動、②改革 開放以降のグループ間の所得格差、③教育の発展及び教育における制度的不平等、④階層 構造の変化、などの面からレビューしていく。

2-1 1978年以降の社会経済変動

1978年から始まった中国の経済改革は、一般に三つの段階に分けられる。1978から1984 年まで改革の中心は農村部にあり、人民公社の解体と農民による生産請負制の実施を特徴 とする。1984年から都市部を中心とする工業体制の改革が始まり、国有企業の自主権の拡 大、集団所有制企業や私営経済の発展を特徴とする。1992年以降の改革は、「近代企業制 度」の樹立を目標に国有企業内部の経営体制の改革を主な内容とする。以下では、『中華人 民共和国経済史』(董輔礽1999)、『中華人民共和国史』(何沁1999)の内容を引用しなが ら、1978年以降の経済変動のレビューを行う。

2-1-1 1978~1984年 経済体制改革の始動段階

1978年 12月に開催された中国共産党第 11期三中全会において、国家の活動の重点を

「階級闘争」から経済発展へ移行することが決定され、経済改革・対外開放の国家路線が 打ち出された。国民経済近代化の実現を中心とする経済発展が国家の中心的な任務となっ た。

(1)農村部改革

この時点では改革の重点は農村部に置かれており、主として人民公社体制を解体させ、

家庭生産請負制の実施を始めた。政府は農産物の定価を引き上げたほか、農民の自主権を 保障し、平均主義を廃して各自の裁量の余地を認め、農民のインセンティブを引き出すこ とに努めた。

(2)都市部改革

都市部の経済改革は、経済管理体制を改革して企業自主権を拡大するという企業と国家 との関係を整理することから始まった。人、モノ、資金に対する企業自主権の拡大、経済 責任制の実施などの企業改革も始動した。

(3)所有制の面の変化

所有制の面では、単一的な公有制の制限を打破するため、その他の所有制形式の発展を 許容し始めた。

1978年以降、「上山下郷」で農村部に行かされた「知識青年」が大量に都市部に戻って きたため、これらの若者の就業や、都市部で新たに増えた若年層の就職難を解決するため に、「国家の指導の下で、就業部門の紹介を通じて就職する、自分たちで集まって起業する、

個人で就業する」という三つの方針を提起した。1981年までに2000万人の就職問題が解 決された。その後、個人経営の発展を促進するための政策が打ち出された。

これをきっかけに、都市部における集団経済と個人経済の発展が促進された。1978年か

ら1982年まで、集団経済の就業者数は603万人増え、個人経済の就業者数は15万人から 147万人増えた。集団経済と個人経済での就業者数の、都市部就業者数全体に占める割合 は、1978年の21.7%から24.5%に増えた(何沁1999:312-318)。

これらの施策は経済の迅速な発展をもたらした。農村改革によって農業経済は奇跡的な 超高速成長を遂げ、農民の収入が大きく増加した。工業生産の回復と発展によって、都市 部住民の収入も高まった。1980年代の半ばになると、生活必需品に対する需要は満足させ れ、配給制による消費スタイルは自主的な消費に取って代わった(董輔礽1999:116)。

また対外開放政策の実施によって、1970年代末に深セン、アモイ、汕頭、珠海の四つの 経済特区を指定して外資の導入を始めた。

2-1-2 1985~1992年 都市部を重点とする経済体制改革の推進段階

1984年10月に開催された中国共産党第12期三中全会において、「経済体制改革に関す る中共中央の決定」が採択された。決定では、商品経済は「社会主義経済発展の避けて通 れない重要な段階であり、経済の近代化を実現する必要不可欠な条件」とされ、計画経済 と商品経済と対立するものだとの考えを否定し、経済体制の全面的な改革の理論的な基礎 を構築した。また、決定では、企業の活力の増強こそ経済改革の中心であること、政府と 企業を分離させ指令性調節(行政的指令による直接統制)を縮小して指導性調節(市場を 通してのマクロ的間接統制)を拡大する、公有制以外の多種多様の経済方式を積極的に発 展させる、経済責任制を発展させて労働の成果によって分配を行うとの原則を実行する、

などの改革の方向が示された。この決定によって、都市部を中心とする経済改革が全面的 に展開された(何沁1999:350-4)。

(1)企業改革の深化

この段階の企業改革は、企業と国家の関係という企業の外部環境を整理することによっ て、生産計画権、商品の定価権、労働人事権、給料奨金の分配権など、生産経営企業にお ける企業の自主権を拡大するとの動きが続いた。

1983年に実施し始めた「利改税」の改革はさらに進み、経営利潤が増えた分、企業はよ り多くの利益を得るようになり、その発展能力につながった。1978年と比べて、1987年 に入ってから、国家に譲渡した分を除いた国営企業に留保された利益は、利潤全体の40%

以上と大きく増えた。企業のインセンティブが引き出されて、国家に依存して「大釜の飯 を食べる」という状況の打破につながった。

企業内部の経営システムの改革もはじまった。所有権と経営権の分離との原則の下で、

さまざまな形の請負制が実行され、企業の生産経営システムが強化された。請負制が実施 された中で、企業の経営は収入と直接関わるようになり、工員のインセンティブが引き出 された。「大釜の飯」と言われる平均主義の打破が強調され、「労働の成果によって分配を 行う」という成果主義が取り入れられた(何沁1999:128)。

(2)企業のリーダー制度及び給料制度の改革

国家と企業との関係、企業と従業員との分配関係を調整して企業の活力を高めることは、

経済改革の重要な内容である。

1984年から、政府の計画的指導ではなく、「工場長責任請負制」が段階的に実施され始 めて、1988 年現在では、工場長責任制を実施する企業は国営企業全体の 83.2%になり、

企業の管理と経営における工場長の中心的な役割が強調された。

また、給料制度の改革も始まり、1985年の「国営企業職工の給料の改革に関する通知」

では、労働者の給料総額は企業収益の一定の割合にそって上下するとのやり方が決定され た。1986年にはいって、国家の決められた給料総額の範囲内では、企業での給料と奨金の 分配権を政府から企業自体に渡し、分配の形式と具体的やり方は企業で自由に決定すると の方針が公布された。これを受けて、各企業ではさまざまな評価体制を取り入れ、企業の 経営状況及び個人の労働貢献によって給料を決めるようになった。この政策のもとで、従 業員の給料収入が大幅な成長を見せた(何沁1999:135)。

(3)非公有制経済の発展

この時期に、公有制を主体とした多種類の所有制が共存する局面が現れた。1980年代半 ばまで、私営経済、外資経済などの非公有制経済の全体の規模は比較的小さく、1985年給 料総額に占める割合は0.4%である。しかし、企業全体の数といい、個別の企業の規模とい い、非公有制経済の発展は非常に迅速であり、給料の年平均増加率51%であり、1992年の 時点では給料総額に占める割合は2.7%と上昇した(何沁1999:358)。1987年の全国の工 業総生産を見ると、1978年と比べて、全民所有制企業の比重は77.6%から59.7%に下がり、

集団経済は22.4%から34.6%に上昇した。また個人経営、私営企業、外資や合弁企業など の「三資企業」を代表とする非公有制経済の比重は、ゼロから5.6%に上昇した。1987年 非公有制経済の従業員は1978年の15万人から569万人に増えた(何沁1999:359)。その中 で私営企業の従業員は72万人ある(董輔礽1999:429)。1988年4月に公布された憲法修正 案では、「国家は、法律の規定範囲内における私営経済の存在と発展を許容する。私営経済 は社会公有制経済の補充である。国家は私営経済の合法的権利と利益を保護し、私営経済 に対して誘導、監督、管理を行う」との内容が盛り込まれ、私営経済の合法的地位が認め られた(何沁1999:350-5)。

これら一連の改革を通して、飛躍的な経済成長が遂げられ、1988年の国民総生産の総額

は 14015 万元にのぼり、年増加率 9.6%の成長となった。都市部住民の平均給料は 1978

年の615元から1988年の1747元に増加した(何沁1999:356)。

しかし一方、1988年経済の過熱が重大な問題となった。その中で最も顕著なのは、イン フレの激化、物価の急騰である。これには、経済構造の歪み、流通分野の経済秩序の混乱 などさまざま原因があるが、市場要素を導入した価格改革もその原因の一つである。1988 年に、小売物価の指数が数年連続して上昇した後に、物価は前年より18.5%上昇した。1988 年後半に、全国各地で買占めが起こった。1988年9月から、インフレ問題を解決するため に、中央政府による経済の整理整頓が始まり、経済成長の速度が大幅に低下し、1988年の 経済成長率は11.3%から4.4%となった(董輔礽1999:327)。そのうえ1989年の夏に天安 門事件が起こり、社会全体が政治的不安定な局面に入った。その後も経済の低速成長が続 いた。こうして1988年後半から1991年にかけて中国の経済改革はいったん停滞した。