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知識による奮闘の正当化と個人主義への批判

第1節では、1970年代末から1984年までの、若者を取り巻く社会経済的状況を紹介した。大 学入試の再開と知識重視の風潮の高まり、「知識青年」の返城による大量の失業者の発生、全 民所有制の国営経済、集団経済、個人経済の区別が生じた中での若者の就業意識などを通じて、

当時存在する階層構造の有り様について紹介した。社会の上昇移動が可能となった状況の中で、

若者の上昇志向というエネルギーが非常に強い度合いで触発されたと言えよう。

一方、当時の社会経済的状況を見ると、10年間の文化大革命を経て、70年代末の中国の国民 経済の状況はどん底まで停滞している。失業、物資の不足、教育状況の悪化。このような危機 的な状況の中で、文革直後の中国政府は、この状況の発生の原因を四人組に帰することによっ て、その政治的正当性が危うくも失われずに済んだのである。しかしそれだけでは足りない。

国民経済を立て直し、自らの政治的正当性を再建するのに急務であった。そのため、国の将来 に希望が持てるよう、人々のやる気を奮い起こすことが必要であった。

この中で、政府は「四つの現代化」35という新たな国家目標を提示し、大学入試制度の再開 など社会の上昇移動を可能にする制度的条件の整備に力を入れ、文化大革命直後に低迷した経 済状況を改善するために「知識」「科学」の力を強調し「奮闘」することの重要さを訴え、若 者のやる気を奮い起こそうと躍起になった。一方、階層システムの存在について、後に『中国 青年』で確認したように、当時政府の公式見解では否定されていたがゆえに、若者のやる気に 存在しうるエゴイズムの高揚につながる可能性を可能な限り抑えようとした。即ち、奮闘の動

35 「四つの現代化」とは、「工業の現代化、農業の現代化、国防の現代化、科学技術の現代化」という「四 つの現代化」の略であり、60年代に中国政府によって提起された国家戦略目標である。文化大革命に終了後 の1979年に、鄧小平によって「20世紀の末に、一人当たりのGDPが1000ドルに達し、そこそこ豊かな生活 水準になる」と具体化された。

機=「心」の管理をしようとしたわけである。国家・社会のために奮闘すべきだという枠から はみ出しそうな部分について、規制しようとしたわけである。即ち、若者の上昇志向=より上 の社会階層に上がりたいというエネルギーについては、あくまでも国家・社会のために奮闘す べきだという枠内に収斂しようとした。

中国共産党中央の下位組織である中国共産主義青年団中央の機関誌としての『中国青年』は、

改革開放政策が国策として取られた 1978 年以降、経済の自由化・市場化が進むにつれ、若者 に対する立場は政治の意図との間に乖離が少しずつ生じ始めたが、『中国青年』雑誌の内容から すれば、1978年~1984年の6年間は、文化大革命が終了し、「階級闘争」から「経済建設」へ の国家的路線の転換が行われたとはいえ、政治的色彩の濃かった時代であった。80年代前半ま では、『中国青年』は若者を教化する手段として、政治の意図を忠実に伝えている。機関誌とし ての色彩が強く、政治の意思をほぼ忠実に反映している。一方、同時代の若者が直面している 困難、苦悩についてあまり取り上げておらず、ある意味では目を逸らしているといえよう。あ くまでも国家の輝かしいとも言われるべき未来像をもって若者を鼓舞している。

時期区分からすれば、1984年は一つの区切りといえよう。というのは、1984年までは、1978 年12月に開かれた第 11期三中全会での改革開放の国策が決められたが、1984年の12回3中 全会が開かれるまでは、生産請負制の導入を中心とする農村部での改革が主な内容であった。

一方都市部では、企業の改革がまだ大々的に行われていなかった。『中国青年』の内容から見 て、この時期のキーワードとなっているのが「四つの現代化」「知識」「技術」など、「未来」

につながるものであった。一方、1985年以降にはいってから、「改革」の頻度が多くなり、改 革に適応するための「新観念」に関する内容がどんどん増えた。

若者を取り囲み、上昇志向につながるエネルギーに対してその表出の仕方に影響を与える 重要な要素として、その当時の社会で流布されているイデオロギー、文化的状況がある。これ を総じて、文化装置と呼ぼう。この節では、『中国青年』が雑誌として提示している社会のあ り方に対する再現・解釈の枠組、そこにおける若者へのまなざしなどを確認することによって、

この時代の中国社会に備わっている重要な文化装置の一つとしての政府の公式見解が、①どの ように社会のあり方や未来像を作り上げ、②どのようにして若者の上昇志向という生のエネル ギーを方向付けし、③またその枠内からはみ出した部分についてどのように規制・批判してい たのかを見てみよう。

2-1「四つの現代化」という国家目標の提示及びそのまなざしでの若者の位置づけ 1970年代末から80年代の初期に、文化大革命による国民経済や人々の生活への多大な破壊 によって、共産党政権の政治的正当性が問われることになった。「四人組」を人民の敵に指名し 文化大革命の責任を負わせることで過去の歴史を片付け、また「階級闘争」から「経済建設」

へ国家的路線の転換を行い、人々に「四つの現代化」との未来を許諾するなど、政権は自分の 正当性を改めて証明することに努めた。

2-1-1「見透かした」若者の存在から見る政権の政治的正当性の危機

この時期に社会主義イデオロギーによる解釈・再現=政権の政治的正当性が問われたことが 明るみに出たことは、『中国青年』の内容からも伺える。「青年の思想的政治的問題を考察し、

掴み、研究して、さらにマルクス主義の観点からこれらの問題を解決すること」36を政治的任 務の一つとする『中国青年』雑誌は、「見透かした青年」の存在を取り上げ、「『見透かした』と 自認する青年に対して、どのようにすれば彼らを覚ますことができるか、これは社会全体に突 きつけられた重大な問題である」と提起した。「見透かした青年」とは、1978年第2号に発表 された劉心武の小説『醒めてよ、弟!』の中の「弟」のように、文化大革命を経た後に、社会 に対して信頼感を失い、何事にもやる気を見せない若者を指す。『醒めてよ、弟!』の粗筋は、

文化大革命で「心の傷」を負い社会に対して信用しなくなり、工場の仕事に対してもやる気が なく消極的な若者が、新しい工場党書記の「真実を言う」、「真に実行する」との言行に心を打 たれ再びやる気を奮い起こしたストーリーであった。

1978 年第 4号、1979年第 1号、第 2号では、「『見透かした(俗世に未練がない)』現象に ついて筆談しよう」とのコラムが組まれた37。そこでは、「見透かした」若者が現れた原因を文 化大革命中における「四人組の破壊と撹乱」に帰し、「われわれの民族のために、わが祖国のた めに目を覚まして」、「祖国を熱愛し、党を信頼し、四つの現代化のために戦おう」と、「俗世」

に戻ることを呼びかけた。即ち、社会主義イデオロギーによる解釈・再現への信頼感を取り戻 そうとしたのである。

2-1-2「四つの現代化」という国家目標の提示及び若者の位置づけ

この「信仰の危機」を乗り越えるためには、人々に新しい目標を提示することが必要であっ た。1976年10月6日に「四人組」が逮捕され、10年間続いた文化大革命に終止符が打たれた。

1977 年 8 月に共産党第 11 回大会が開かれ、「今世紀末にわが国を現代化の実現された社会主 義強国に建設する」と新たな政治方針が打ち出された。その後 1978年 12月 18日~22 日に、

階級闘争路線を放棄し、「党の重心を社会主義建設に転換させる」とする共産党第 11回3中全 会が開かれた。このように、「四つの現代化」を実現するという新たな目標が提示されたのであ る。

当時の政権は、国内の各種の社会問題の解決を、「四つの現代化」に象徴される経済発展に求 めた。若者に向かっては、「人民と青年の生活の諸問題を解決するには、根本的な出口は四つの 現代化の早期実現にある」との説明が行われた。これは、1979 年第 3 号「風物は長い期間で 眺めるべきだ――遠方の友人へ」との記事では、下郷された若者が生活問題の解決を求めている

38ことに対して述べた言葉である。

記事5-1

人民と青年の生活の諸問題を解決するには、根本的な出口は四つの現代化の早期の実現であ る。四つの現代化は人民の根本的な利益であり、青年の根 本的な利益でもある。われわれの世 代の青年は、世紀を跨る世代であり、四つの現代化を実現するのがわれわれの世代の青年の歴 史的な重責である。四つの現代化の実現は外国から購入することもできず、上に手を差し伸べ ればもらえるものでもない。全国人民、特に青年のみなさんが革命の精神を奮い起こして団結

36 『中国青年』1983年第10号p7、「陸定一同志による『中国青年』雑誌への祝辞」

37 『中国青年』1978年第4号p22~24、1979年第2号p18~22

38 その背景として、1978年の冬に雲南省の農場に下郷された知識青年が都市部に戻るために大規 模な抗議活動を行った。この大規模な抗議活動によって知識青年政策に大きな変化が起こり、引 いては若者の「返城」が許可されるまでになったのである。