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1遺   構

ドキュメント内 浩腱浦滴唱 (ページ 47-51)

古 墳 時代

 

調 査 区 の南 西 か ら東 北 方 向 へ、 幅3.2m、 深 さ

0.4mの

斜 行 大 溝

SD

09が通 り、埋上 に多量 の土器 を含 む。土器 の年代 は

6世

紀 で、良好 な資料 が あ る。

この溝 に平行、 あ るい はほぼ直交 す る斜行溝 が あ り、 これ も同時期 の もので あ ろ う。 また、周辺 の小穴群 も、 この時期 に属 す る遺構 とな る可能性 が高 い。

奈良 時代前半

(A期 ) 

掘立柱建 物

2棟

と、 掘立 柱塀

1条

が この時期 に属 す る。

調 査 区東 南 の建 物SB06は、 南北 棟 で、 桁 行

5間

2.65m(9尺 )等

間。 梁 間 も

2.65m(9尺 )2間

で あ る。 柱掘形 は一辺 1〜

1,2mの

や や南北 に長 い長 方 形 を 呈 し、深 さは遺構検 出面 か ら35〜50cmで あ る。柱痕跡 は直径

25cm前

後 あ り、 東 側 柱 は

B期

の長廊状遺構SC05と 多 く重複 す る。

調 査 区西方 の建物SB10は、 東 西棟 で、 桁 行

4間

以 上 、 西半 は発 掘 区外 に延 び る。柱間 は桁行

2.65m(9尺 )等

間、 梁間

2.65m(9尺 )2間

で あ り、柱筋 は方 眼 方位 よ り北 で西 へ

2度

弱振 れ る。 柱掘形 は一辺 約

lmの

略方形 を呈 し、 深 さ は60

cm前

後 で あ る。 いずれ の柱穴 に も明瞭 な抜取 り穴 が認 め られ、 その中 に黄色土 が 混 入 して い るのが一 つ の特徴 で あ る。 これ は、SB06に も認 め られ る こ とか ら、

8B06・ 10は同時期 と推定 した。

‑111‑―

SB10の東 北 方 の南 北 塀SA13も 、 柱 筋 が 同 傾 向 の 振 れ を もつ。SB06の 北 約

4.2mを

へ だてて始 ま り、 発掘 区内で は

2間

分 を検 出 し、 さ らに北 へ続 くと推 定 され る。 柱 間 は

2.7m(9尺 )等

間 で あ る。 以 上、 この時期 に属 す る遺 構 は、 い ず れ も

9尺

の柱間を持 つ ことで一致 した結果 とな った。 年代 は、 次期 との関係 か ら、西 隆寺造営以前 の奈良時代前半 〜中 ごろにあて る。 所用 の遺構 の特定 はで き な い ものの、 後述 の井 戸SE08の廃 絶 時 に投 入 され た瓦 に奈良 時代 前半 の ものが あ り、西 隆寺以前 の遺構 の存在 を推定 し得 よ う。

奈良 時代後半・ 平 安 時代

(B期 ) 

西 隆寺 の造 営 と時 を同 じ く して成 り、 同寺北 東部 に一 院 を形成 して いた と推定 され る遺構群 で あ る。 発掘 区東方 の長廊状遺構 SC05は、 礎 石 建 ち で 梁 間

2.7m(9尺

)、 発 掘 区 の南 端 か ら北 に

9間

分 を検 出 した。桁 行 の柱 間寸 法 は

1.9m等

間 で尺 の完 数 値 に はな らず、

6尺 5寸

と推 定 し 得 るほか、 あ る距離 を等分 した結果 とも考 え られ る。 遺構 の形 状、 深 さ共 に一定 せず、礎石据付掘形 と抜取 り穴 を混合 して検 出 した もの と考 え られ る。

9間

目以 北 につ いて は、 その場所 が旧流路 にあた り検 出が困難 で あ った こと もあ って、 よ り長 く延 びて いた廊 で あ った可能性 も否定 し得 な い。 また一方 で、検 出遺構通 り に完結 した、 梁間1間の住房 のよ うな建物 とな ること も考 え られ る。 も し単廊 と い うことが今後 の調査 で確定 をみれば、 院 の施設 と して重要 な知見 とな る。

調 査 区 の南端 の東 西 棟 建 物

SB07A・ Bは

桁 行

7間

の建 物 で、 北 側 お よび北 入 側柱 を検 出 した。 当初掘立 柱 の建物

(A)を

、 同規模、 同位 置 に礎 石 建 ち

(B)

に改 めて い る。桁行 の柱間 は

2.95m(lo尺 )等

間、 庇 の出 も10尺で あ る。身舎妻柱 は東側 のみ が発掘 区内 にあ るが、柱穴 は他 に比 して きわめ て浅 く、遺構 と して疑 間が残 る。 当初 の柱掘形 は一 辺0。

9〜 1.2mの

略 方 形 で、 柱 痕 跡 は径 30cm。 柱 を抜 き取 った後 に根石 を置 き、礎石 を 据 えて い る。 この よ うな手法 の実例 と して法隆

寺伝法堂 が あ り、 一般 的 な住宅建築 とい うよ り 67 8B10柱穴断面区 (1

‑145,000

‑145,010

‑145,020

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S X15

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‑19,430

図68 第219次調査遺構図

‑19,420

む しろ仏堂 的性格 の濃 い もの と考 え られ る。 これ は、長期 の存続 の あか しであ り、

そ の規模 か らも院 の中心 的 な建 物 と推定 され る。 調 査 区北 西 のSB 12は、 桁 行 3

間以上 、 東 西 棟 南 片 庇 付 の掘 立 柱 建 物 で あ る。 柱 間 は、 桁 行・ 梁 間共 に

2.65m (9尺 )等

間 で あ り、 柱 間10尺 のSB07と は柱 筋 が一 致 しな い が、 仮 に これ も桁 行7間と仮定す ると、建物 の東西中軸線が一致す る関係 にある。 また、 両者 の妻柱 間の距離 が

26.7m(9o尺 )と

な る ことに も計画性が認 め られ、 同時期 と推定 した。

SB07。 12の 東 辺 中 間 に あ る井 戸 SE08 A・

Bは

、 当 初 横 板 の、 い わ ゆ るせ い ろ組 と呼 ばれ る上質 の構造 で あ った もの

(A)を

、 あ る時期 に内側 に縦 板 を添 え 立 て て 改 修 して い る (B)。 深 さ は

2.4mo sE08Bの

井 戸 枠 に用 い られ た板 材 は、 四面 とも扉板 の転用 で あ ることが判 明 し、 西 隆寺 の建築 の様 相 を うかが うに 足 る貴 重 な資料 とな った。 ま た、 調 査 区西 端 で、SB07の東 西 中 軸 線 に対 してS E08と 東西対称 の位 置 に、井戸 とおぼ しき深 い掘形 の一部

SX15を

検 出 して お り、

2棟

の建物 の間 の広場 に

2基

の井戸 を東西対称 に配 して い る可能 性 が生 じた。

B期

の終末 は、 建物 の柱 抜 取 り穴 や井 戸SE08の埋 土 か ら出土 した土 器 の年 代 か ら、10世紀後半 と考 え られ る。 史料 か ら知 られ る西 隆寺 の存続 とほぼ時 を同 じ

くす る ことがわか り、 お よそ

2世

紀 にわ た って存続 した と推 定 され るので あ る。

なお、 調査 区西南 隅 にSB 14が あ り、 現段 階で は桁 行

5間

以 上 、 南 北 棟 掘立 柱 建 物 の東南部分 と推定 して い る。 柱掘形 はSB07・ 10の双 方 と重 複 し、 時 期 的 に

図69 遺構変遷図

‑113‑

はそ の 中 間 の位 置 とな る。 しか しな が ら、 発 掘 区 の制 約 か ら この遺 構 の 解 釈 は ま だ確 定 的 で はな く、 複 数 の遺 構 で あ る可 能 性 もあ り、 具 体 的 な規 模 、 性 格 につ い て は今 後 の調 査 の進 展 を待 ち た い。 この他 に、 発 掘 区 の東 辺 に近 世 以 降 の大 土 坑 SK01、 時 期 不 明 で 旧 流 路 を 横 断 す る よ う に 幅 lm、 長 さ

8.3mに

わ た って あ る 土 坑 SK02、

4本

の柱 か らな る小 構 造 物SX03な ど が あ り、 ま た 北 東 隅 に は

3間

の 掘 立 柱 塀

SA04が

あ る。

SA04の

掘 形 の一 つ に は柱 根 が 残 り、 ま た 掘 形 に 重 複 す る土 坑 か らは西 隆 寺 式 軒 平 瓦

2枚

が 出土 した。

ドキュメント内 浩腱浦滴唱 (ページ 47-51)

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