近年のわが国における生産的労働論争は,マルクス主義の立場からの国民所 得論の構築の必要という現代的要請にうながされて,展開されてきたことは周 知のところである。この論争は,生産的労働論を国民所得論の基礎論として位 置づけることの一般的容認のもとで,マルクスの規定した生産的労働の二様の 概念と一義的に規定されるべき「国民所得を生産する労働」の概念との間の矛 盾をめぐって展開されてきた。
この論争の過程において、さまざまな論点が明らかにされてきたけれども,
全体として論争はゆきづまり,混乱を呈しているとおもわれる.そのために,
「生産的労働論の研究は不生産的である」という声すらきかれるわけである。
このような生産的労働論争のゆきづまりの原因は,どこにあるのであろうか。
それは,マルクス経済学における生産的労働論の位置づけ=意義づけが明確に 行われていないところにあるのではなかろうか。マルクス経済学における生産 的労働論の意義が明らかにされるならば,そこに,おのずから,生産的労働論 を国民所得論の基礎論の構築のために用いることの限界性も認識されうるので あり,従ってまた,マルクス主義の立場からの国民所得論の展開のために,生 産的労働論の研究がいかなる意味で貢献しうるのか,(或いはしえないのか)が 明らかになるであろう。
以上の視点から,本章においては,まず,マルクス経済学における生産的労 働論の位置づけ=意義づけをおこない,それをふまえて,マルクス主義国民所 得論の展開,構築のためにマルクスの生産的労働論を用いることの是非を検討
してみたい。
2 生産的労働と疎外された労働 一マルクス経済学における生産的労働論の意義一
従来のマルクスの生産的労働論に関する諸研究は,主として,国民所得論と
1)
の関連で展開されてきたことはすでに述べたとおりである。このために,国民 所得論の基礎論の展開にとってのマルクスの生産的労働論の意義のみが強調さ れ,マルクスの生産的労働論がマルクス経済学体系の中でもつ位置=意義につ
2)
いての認識がなおざりにされてきたと思われる。このことは,スミスの生産的 労働論に関する諸研究がいずれも,r国富論』体系における生産的労働論の意 義の明確な認識の上に立って行われていることと考え合わせると全く奇妙なこ
3)
とである。
従来,多くの論者によって指摘されてきたように,スミスの生産的労働論は,
1)アダム・スミス以来くり返し行われてきたといわれる,この生産的労働論争が,近来,とくに マルクス経済学の分野で盛行しているのはなぜであろうか。従来の諸論者がどのような場合に生 産的労働の問題に言及しているかをみると,①国民所得論との関連,②労働生産性論との関連,
③交通(労働)論との関連,④商業(労働)論との関連,⑤その他の場合,にわけられるだろう。
①は,国民所得を生産する労働はいかなる労働かを規定するために生産的労働を問題にする。② は,国民所得を増加させるた」5には,いかなる労働の生産性を高めるぺきかという形で生産的労 働を問題とする(これについては,本書第2章参照)。②は本質上,①に含めてもよいと思われ る。③・④は,「部門経済学確立のための基本規定として」(野村良樹「わが国国民所得の吟味と 再編成試論」,r講座現在日本の経済と政治』第3巻r資本蓄積と循環』,大月書店,1959,91ペ ージ),生産的労働を問題とする。③・④を①の立場からみると,交通労働及び商業労働は国民 所得を生産するか,という形で,①の特殊分野を構成すると考えられる。(③については,例え ば,崎山一雄「生産的労働と交通労働」,京都大学r経済論叢』79巻1号,参照。④については,
例えば,森下二次也「商業利潤と商業労働」,r資本論講座』4、青木書店,参照。)⑤は,「現代 資本主義の新しい経済局面の分析視角における一箇の命題として」(前掲野村論文,91ページ)
生産的労働を問題とする。例えば,現代資本主義において特徴的に見られる,いわゆる第三次産 業部門及び公務員(兵士を含む)の肥大化という現象を生産的労働論を基礎として分析しようと するものである。(⑤については,例えば,末永隆甫「個人消費と不生産的雇用」,「経済学雑誌』
39巻2号,1958,及び,松原昭「経済成長と不生産的労働」,『早稲田商学』140・141合併号,19 59,等を参照。)⑤を①の立場からみると,いわゆる第三次産業部門及び公務員は国民所得を生 産するか,という形で,国民所得分析の枢要な問題を形成する。以上のように考えてみると,近 来の生産的労働論争の主要な契機を,①の立場に統一することができるだろう。結局,近来の生 産的労働論争は,資本主義の全般的危機の段階を背景として成立した国民所得論(国民所得論成 立の歴史的背景についてはt例えば,前掲野村論文,野q村一雄『国民所得と再生産』,岩波書 店,1958,第1章第1節,金子ハルオ「国民所得の理論問題」,東京都立大学r経済と経済学』
第14号,1964、一のち,同氏著『生産的労働と国民所得』,日本評論社,1966,に所収一,等を 参照)の理論的基礎にかかわるものであるということができる。戦後のわが国における生産的労 働論争については,金子ハルオ「生産的労働と不生産的労働」(r資本論講座』3,青木書店,19 64)を参照。
資本蓄積論との不可分の関係で展開されている。うむことなき剰余価値の生産 にかりたてられる資本家にとって,いかなる労働が蓄積に役立ち,いかなる労 働が役立たないかを区別することは重大なことである。このことをスミスは次 のように表現している。「人は多数の製造工〔=生産的労働者〕を使用すること によって富み,多数の召使〔=不生産的労働者〕を扶養することによってまずし
4)
くなる。」
スミスは,資本の蓄積にとって,いかなる労働が「有用な労働(useful
5)
lab卯r)」であるかを明らかにするために,生産的労働と不生産的労働とを区別 しようとしたのである。それゆえにこそ,マルクスは,「生産的労働と不生産
2) 生産的労働論争の初期においては,マルクスの生産的労働論が国民所得論の基礎論として直接 に位置づけられた結果,マルクスの生産的労働論が国民所得論にとって有する意義のみが強調さ れて,マルクスの生産的労働論のもつ本来の意義の認識がなおざりにされたと思われる(このよ うな傾向を示す,初期の研究としては,例えば,次のものを参照。森下二次也「国民所得と生産 的労働」,r経済評論』1949年3月号。都留重人・野n村一雄「戦後の国民所得」, r日本資本主義 講座』第8巻,岩波書店,1954。上杉正一郎・広田純・田沼肇「戦後日本における国民所得統 計」、前掲r日本資本主義講座』第9巻,1954。有沢広巳・中村隆英r国民所得』,中央経済社,
1955)。論争の後期においては,マルクスの生産的労働論を国民所得論の基礎論として直接に位 置づけることの誤りが認識された(このような傾向を示している最初の論文として,坂田考平 「剰余価値と賃金」,井汲卓一編r剰余価値と利潤』青木書店、1955,所収,及び,副田満輝「生 産的労働と不生産的労働一国民所得とサービスについて」,九州大学r経済学研究』,21巻4号,
1956.をあげることができる。とくに、副田氏の論文は,従来の諸研究を端的に批判することに よって,論争を新たな段階にまで高めた,すぐれた労作である)とはいえ,国民所得論の基礎論 としての「現代的な生産的労働論」(金子ハルオ前掲書,127ページ)にとってのマルクスの生産 的労働論の意義のみが強調された結果,依然として,マルクスの生産的労働論のもつ本来の意義 がなおざりにされたのであると思われる。例えば,生産的労働論争を通じてすぐれた業績をあげ られた金子ハルオ氏は,その著書r生産的労働と国民所得』(前掲)の第2章「カール・マルク スの生産的労働の概念」において,マルクスの生産的労働論の発展,具体化を試みられて,rl.
直接的生産過程における生産的労働の概念」→「2.非生産部門における生産的労働の概念」→
「3.資本主義生産の総過程における生産的労働の概念」という順序でマルクスの生産的労働論 を体系的に展開することによって,国民所得論の基礎論としての「現代的な生産的労働論」にま で高めるというすぐれた試みを示されているが,そこにおいても,マルクスの生産的労働論がマ ルクス経済学において有する本来の意義を明らかにするという問題意識はみられないように思わ れる。
3) スミスの生産的労働論をめぐる諸研究については,前掲金子氏「生産的労働と不生産的労働」
文献表を参照。なお,スミスの生産的労働論をめぐる論争は,戦後のわが国における生産的労働 論争の一翼を担うものであり,国民所得論との関連で論じられる生産的労働論に触発された形で 展開されてきたと一応いえるのではなかろうか。
4) A.SMITH, An 1 gμ ηinto the Nature and Causes of the Wealth of Natibns, Ed. by E.
Cannen,6th ed.1950, vol.1, p.313.邦訳,大内・松川訳r諸国民の富』,岩波文庫, ll、337 ページ。
5)Ibld. P. L訳 fi,90ページ。