第5章においては,わが国における生産的労働論争の中心的課題である〈生 産的労働の二つの規定の相互関係をどのように理解すべきか〉という問題が現 出するに至った事情を,論争の初期の段階におけるいきさつを考察することに よって、いわば発生史的に明らかにした。第6章においては,この問題が必然 的に生ずる根拠はマルクスの生産的労働論そのものに内在することを,いわば 理論的に明らかにした。本章においては,この問題をめぐる論争のより発展し
た段階における諸研究を中心に考察してゆく。
1 生産的労働に関する〈二つの観点〉説
一「社会的観点」と「個マの資本家の観点」
この問題に関する論争は大きく二つの陣営に分けることが出来ると思われる。
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第一の陣営の源流はア・パリツェフであると考えられる。即ち,パリツェフは 次のように言う。
1「社会的観点からみた資本主義における生産的労働,即ち社会的総生産物(国民所 得もこのうちに入る)の造出に直接参加する労働と,個々の資本家の観点だけから 2)
いって生産的な労働とを区別する必要がある。」
パリッェフは「社会的観点」と「個々の資本家の観点」という〈二つの観 点〉を定立することによって,生産的労働の本源的規定と歴史的規定とを現代 の現実の資本主義社会に適用した場合に必然的に顕在化するところの生産的労 働一般と資本主義的生産的労働との〈乖離・相互不一致〉を説明しようとした のである。それゆえに,われわれはパリツェフに始まるこの〈流れ〉を,生産 的労働に関する〈二つの観点〉説と呼ぶことにしよう,j
パリツェフは上の引用文にすぐ続いて言う。
「後者「個々の資本家の観点だけからいって生産的な労働〕は、一・国の国民所得の 1) ア・パリツェフ「資本主義社会における国民所得理論の諸問題」(本){}第4章第2節注7参照)。
2) 同論文,144ページ。傍点は阿部。
再分配によって非生産的部門の資本家に利潤をもたらすが,それ自身は国民所得を 造出するものてはない。資本主義社会においては,物質的財の生産に従事してそこ 3)
て剰余価値を生む労働が生産的労働てある口
つまり、ここてパリツェフの言う「社会的観点からみた資本主義における生 産的労働」とは「物質的財の生産に従事してそこて剰余価値を生む労働」であ
・、て,こういう労働こそが一国民所得を造出する.と言うのである.しかしこ こでいう「社会的観点」とは一体とういうものなのか,何か暖昧な感じを拭い きれない。事実,あとにいたれば、この「社会的観点」の内容が二様に解され ているように思われる。パリツェフは,同じく資本主義的生産的労働としての 側面を有する諸労働の中にも二つの種類を見出すのであって,物質的生産に属 する領域(つまり生産的労働一般としての側面を有する労働)をr社会的観点から みた資本主義における生産的労働」と考え,しからざる領域はこれを「個qの 資本家の観点」からみた生産的労働と考えている。しかし、「資本主義におけ
る生産的労働」つまり資本主義的生産的労働というのは,現実に行われている 諸労働の一面について考えられている抽象的な形態規定(=歴史的規定)とし ての概念であって,現実に行われている諸労働のもう一つの面,つまり物質的 生産を行うかいなかという面,とは全くかかわりのないものである。「資本主 義における生産的労働」はそのものとして現実に見出される労働ではなく,わ れわれが現実に見出す諸労働は「資本主義における生産的労働」としての側面 をもっていると同時に必ず他面において生産的労働一般としての側面をもって いるかあるいは不生産的労働一般としての側面をもっているような労働なので
ある。
[資本主義における生産的労働」とか生産的労働一般とかが独立して現実に存 在するのではなく,それらの労働は必ず現実に行われている諸労働の相異なる 諸側面としてわれわれの頭の中で抽出される概念なのである。従って,パリッ ェフが「資本主義における生産的労働」そのものを二つに分けて考えることは 出来ないはずである。それにもかかわらず、パリッェフが二つにわけていると いうことは,実はパリツェフが現実の諸労働の生産的労働一般あるいは不生産 的労働一般という側面を考えているからである。「資本主義における生産的労
3) ア・パリッ、フ1資本主義社会における国民所得理論の諸問題1前掲、144ページtt
働」を「社会的観点」から眺めたり,「個々の資本家の観点」から眺めたりし ても,そこに決して区別が見出されるものではない。
山田秀雄氏は,明らかにパリツェフの見解を継承したと思われる叙述の中で 次のように言われる。
「生産的労働の第1の規定(形態規定)と第2の規定(実質規定)とは結びつけら れて考察されなければならない。形態規定の面からいえば、生産的労働は個別的資 本の観点から把握される。けれども、それは尚一面的な考察である。いうまでもな く,個別的資本にとって生産的な労働が社会の総産業資本の観点から必ずしも生産 的であるとはかぎらないからである。もともと,資本家に雇われる歌手のサーヴィ スが,資本を生産する労働として生産的であるといわれる場合,それは,同じく資 本を生産する製造上の労働が生産的であるのとはおのずから違った意味をもってい る。……もし生産的労働の形態規定と実質規定との間に矛盾が起るとすれば,この 矛盾の解決のためには結局においてその実質規定が批判の拠りどころとしてとり上 げられなければならないであろう。生産的労働の実質規定は,これをマルクスの考 え方に即していえば これはスミスが暗示した考え方であるが一・一,社会的総労 働〔社会的労働全体のことであろう〕の観点からの考察を意味している。即ち,個 別労働者の労働は,社会的総労働の中でどのような地位を占め,どのような役割を 果しているか,これが生産的労働について考察する際の最後の批判的基準となるべ 4)
きであろう。」
山田氏のこの論文は題名からわかるように,主としてスミスの生産的労働論 を取り扱っており,従ってここで言う,「第1の規定」,「第2の規定」という のはスミスの「規定」であるから,われわれの問題意識とはずれており,かみ 合わない点もあるが,〈考え方〉として問題としたい。ここで,山田氏によっ て,「形態規定」=「個別的資本の観点」という理解が行われている点,及び、
パリッェフの「社会的観点」がここでは「社会の総産業資本の観点」として理 解されている点に注目したい。他方において,山田氏が,「形態規定」と「実 質規定」とは「結びつけられて考察されなければならない」として,更に「形 態規定」と「実質規定」とが「矛盾」するときは,「結局」は「実質規定」が
「批判の拠りどころ」になる,と指摘されている点も注目されるべきである。
4) 山田秀雄「生産的労働について 1955)63ページ。
スミスの二重規定を中心に一一(「経済研究』第6巻第1号,
この点は,のちに,副田氏によって継承されて,われわれが,のちに考察する,
生産的労働の〈統一的理解〉説の源流をなすにいたった考え方である,と思わ
れる。
要するに山田氏においては、生産的労働について,「形態規定」,「実質規定」,
「個別的資本の観点」、「社会の総産業資本の観点」という四つのものが存在し ており(この他に「社会的総労働の観点」というのがあるが,これは生産的労働を全体 労働者の観点から考えるというものであって,ここでのわれわれの問題とは直接に関係 のないものであり,「個別的資本の観点」及び「社会の総産業資本の観点」というもの と同一次元で考えるべきものではない),このうち,「形態規定」=「個別的資本の 観点」として,つまり、形態規定としての生産的労働は「個別的資本」にとっ ての生産的労働であるとして,理解され,これに対して,「社会の総産業資本 の観点]からの生産的労働というのは「実質規定」からも「形態規定」からも 生産的であるような労働として,つまり,「実質規定」+「形態規定」=「社会 の総産業資本の観点」として,理解されているものと思われる。山田氏のこの ような生産的労働の理解の中に,私は,山田氏が基本的には,事実上,のちの く統一的理解〉説に拠られながらしかも一面において〈二つの観点〉説を寄宿 せしめているのを見出しうるように思われる。
5)
〈二つの観点〉説は,野々村氏の1957年の論文においても継承されている。
野々村氏はr諸結果』の文章を引用しつつ,資本主義的意味での生産的労働の 規定を述べたあと次のように言われる。
1ここで注意しなければならないことは,右の特殊=資本主義的な規定が『労働過 程の一般的規定を廃除しない』点である。マルクスは言っている。『資本主義的労 働過程は,労働過程の…般的諸規定を廃除しはしない。それは生産物と商品とを生 産する、,その限りでは,使用価値と交換価値の統一としての商品に対象化される労 6)
働は依然として生産的である。』
これを別の言葉でいうと、社会的観点からみた,資本主義のもとでの生産的労働 と個々の資本家の観点からみた場合の生産的労働とを区別すべきである。……
5)野マ村・・雄「生産的労働の概念1(1 思想」1957年11月号,のち同氏著「国民所得と再生産』岩 波書店,1958,に所収)。
6)『資本論綱要』前掲,208ページ。