▼ 5章
付表 2- 1 全国総合開発計画の構成
には、コメ過剰下で稲作振興もダメ、構造政策未達下で直接所得補償もダメ、山振法や過疎法というハード事業主 体の地域振興立法のもとでインフラ整備もダメという条件下で、「青い鳥」としての新規作物探しの支援というソ フト事業に矮小していかざるをえなかった。」(pp.188)と述べている。
参考文献 2-13 において鶴見は「柳田は、漂泊者のカテゴリーの中に、種々雑多なものをいれている。それは、支 配層に属さないもので、農民でないすべての職業人をさすのである。」(pp.202)と述べている。
参考文献 2-13 において鶴見は「『山人外伝資料』で、柳田は、山人は人間であることを、はっきり言明する。そして、『山 人考』で、山人とは日本の先住民であるという仮説を展開した。…(中略)…征服者がやってきたとき、それに同 化しえないか、または屈服したくない者が、共同体を離れて、山中を漂泊するようになった。山入りした日本原住 民が、現在の山人の祖先だというのである。…(中略)…これは勇気ある抵抗ということになる。」(pp.181-182)
と述べた上で、「『遠野物語』『山人考』『山の人生』にあわられる思想を、わたしは非暴力抵抗の一つの原型として 特徴づけた。」(pp.193)と結論付けている。
参考文献 2-13(pp.202-209)参照。
参考文献 2-13 において鶴見は「柳田は、明治以来政府官僚を中心として、日本のエリートが一貫して推進した中 央集権型近代化の施策を批判しつつ、他方、被治者のあいだに、地方分権型の発展が可能であることを、力説した。
そのような、可能性を担う主体として、柳田は「常民」を登場させた。常民を一定の土地に定住するものとして定 義して、漂泊民から区別した。…(中略)…漂泊者への着眼は、常民概念の明確化に、先行するのである。漂泊者 の内容を明らかにし、漂泊者と定住者との関係をあきらかにすることによって、社会変化の担い手としての常民と いう概念がうかびあがった、ということができる。」(pp.199)とし(併せて参考文献 2-14(pp.6)参照)、その 上で「柳田民俗学からみると、常民が社会変動の担い手である、とわたしはこれまでいってきた。しかしこれで は、不十分である。一方では、定住民としての常民は、漂泊民との出会いによって覚醒され、活力を賦与される。」
(pp.202)と述べている。
参考文献 2-15(pp.661)参照。
参考文献 2-16 において、大槻は「生活改善普及事業」を「農山漁村民に生活の改善に必要な知識や技術を指導普及し、
農山漁村民自らが問題を発見して実行できるようにすることを目的とする。」(pp.72)、「生活改良普及員」を「生 活改善普及事業の目的を達成するために、農山漁村民に生活の改善に必要な知識や技術を指導する役割を担うもの をいう。」(同)としている。
参考文献 2-16(pp.74)参照。
参考文献 2-17(pp.15)において、仲間は「農業改良課は生改グループのあり方に次のような指示を出している。
生改グループは「農村生活を改善する意欲をもつた同志の自主的な集り」でなければならない。「個人の意志を無 視して」「部落又は町村の全員」を「網羅的に統合」した「団体」であってはならない。「又他の目的をもつて結合 された団体」を「そのまま改善クラブ」にしてはならない。「部落又は町村の全員」を「網羅的に統合」した「団体」
あるいは「又他の目的をもつて結合された団体」とは、農村の「既成婦人会」である「地域婦人会或は農協婦人部」
をさしている。ここでは特に婦人会が問題になる。婦人会は戦後すぐに再結成されるが「上意下達の官製団体」と いう戦前の婦人会の性格を引き継いでいた。」(pp.15)と述べており、地縁組織との徹底的な差別化が図られてい る点を指摘している。しかしながら「鳥取県では自主的なグループを育成するという方針をうちたてた。生改普及 員は、この方針に従って生改グループの育成に取り組んだ。しかしその活動にはかなりの困難がともなった。その 大きな原因に婦人会との関係があった。…(中略)…生改グループの成員は婦人会にも属していた。…(中略)…
そのため生改グループは「婦人会の組織を破る」と警戒する婦人会長がいたのである。…(中略)…聞き取りをし たすべての生改普及員がこもごもその経験を語っている。」(pp.16-17)と述べているように、農山漁村において 地縁組織から独立した自主団体を立ち上げることは容易ではなく、各地で地縁組織との軋轢が存在していたようで ある。
参考文献 2-17(pp.14)参照。
参考文献 2-15(pp.661)参照。
参考文献 2-18(pp.459、462)参照。
参考文献 2-19 において、市田は「今は、生活改善の重要性を十分認識した上で、その処方筆として「内科的」す なわち「家族関係にかかわる封建性、つまり非近代性」の解消が先決であるという問題提起を行ったのであった。
そしてそれは家庭生活というきわめて限定的な領域の中の可視的な秩序を重視するあまり、「外科的」生活改善に 走っているという、家政学に対する批判でもあった。…(中略)…戦前から民家の観察などを通じて農家の生活を つぶさに見てきた今和次郎の場合、戦後の生活改善普及事業が、「内科病」の重大さを必ずしも充分には認識して いない面、あまりにも早急に日に見える成果を求める面が目についたのであろう。もちろんそれは、農改に比べて 圧倒的に少ない人数であるにも関わらず、「農家の人びとに直面して、泣きながら努めている」生改に対する応援 でもあった。」(pp.21)とし、「高度成長以前は、燃料を節減する、家事労働を楽にする、トラコーマを予防する という「外科的」な治療法であったと同時に、因習や迷信を廃絶する、家事に携わる主婦や嫁の意見が家の中に反 映するようにする、家族関係を民主化するという「内科的」な治療法でもあった。少なくともそのような意図をもっ て普及されたものであった。…(中略)…生活改善課はこうした実際的な生活技術の普及を通して、典型的には今 和次郎に見られたような同課の方針に対する違和感を克服しようとしたといえよう。」(pp.32-33)と述べている。
注 2-15)
注 2-16)
注 2-17)
注 2-18)
注 2-19)
注 2-20)
注 2-21)
注 2-22)
注 2-23)
注 2-24)
注 2-25)
注 2-26)
参考文献 2-20(pp.39)参照。
参考文献 2-19(pp.36)参照。
参考文献 2-19 において、市田は「これらの発言には生活改善普及事業の対象を、成立期のそれが主として扱って きた家庭生活から地域生活へ拡張しようという意図がよく現れている。それは少なくとも物的な面に限った場合、
個々の農家のレベルでは、所得上昇、耐久消費財の普及によって従来あった問題が解決されつつあるのに対し、農 村という地域のレベルではインフラの未整備のように問題が積み残されているという認識、あるいは失われつつあ る地域社会の相互扶助を補完しなければならないという認識に基づいている。生活改善課長をこのような認識に至 らせたのは、いうまでもなく高度成長と、そこから派生した広域化という外在的要因であった。」(PP.49)と述べ ている。
参考文献 2-21(pp.511)参照。
参考文献 2-15(pp.661)参照。
参考文献 2-22 において、玉は「農村建築研究会(農建)が設立されたのは一九五〇年である。その時の代表は今 和次郎、常任運営委員は竹内芳太郎で、…(中略)…農建は今、竹内が農林省の生活改善普及事業と関係していた ことから、会員には生活改良普及員も参加していた。…(中略)…農建は、全国各地の農村住宅調査から活動を始 め、生活改善普及事業の一つの柱であった農家の台所改善にも関与した。…(中略)…農建の集落計画論には、い くつかの特徴を指摘できる。まず、実態調査に際して「ムラは封建制の遺物」といった社会学者に多い先入観が希 薄で、計画論という性格から社会学者のムラ論よりも実践的であった。…(中略)…さらに、もう一点、生活改良 普及員の実践報告が摂取されている点も重要である。…(中略)…農建が、そうした実践報告を議論の対象とした ことは、機関誌『農村建築』からも見て取れる。…(中略)…これまで十分な評価が与えられてこなかったと思わ れるのは、農建の集落計画論に貢献した生活改良普及員によるむらづくり指導の実践活動である。…(中略)…「む らづくり」という政策形成に貢献していたのは、建築計画学並びに生活改良普及員の活動であった。」(pp.152-157)
と述べており、規模拡大政策からの脱却ならびにむらづくりの推進における農建の活動の意義、またそれに際して の生活改良普及員の貢献を指摘している。
参考文献 2-22(pp.152)参照。
前掲注 2-30 参照。
参考文献 2-19(pp.5-6)参照。
参考文献 2-23(pp.217-218)参照。
参考文献 2-24(pp.52-54)参照。
参考文献 2-25(pp.23-25)参照。
参考文献 2-26(pp.4)参照。
参考文献 2-27(pp.82)参照。
参考文献 2-28(pp.8)参照。
参考文献 2-28(pp.9)参照。
参考文献 2-29(pp.212-215)参照。また参考文献 2-30 において、後藤は「「低生産性」と「周縁性」という地方 の地域が抱える課題を効率よく克服するために、戦後、日本は外発的発展モデルでまちづくりをすすめてきた。…(中 略)…外発的発展モデルのまちづくりはバランスを失した都市や地域を生み、三つの “D”、すなわち「依存型の発展」
(dependent development)、「歪んだ発展」(distorted development)、「破壊的な発展」(destructive development)
に陥るとの批判を受けることになった。…(中略)…バブル経済とリゾートブームの影響は日本列島津々浦々へと 飛び火して、巨額の民間投資をあてこむ手荒な「外発的まちづくり」手法も再登場した。日本列島の各地に残され た当時の開発の爪跡は未だに癒えていない。」(pp.107-109)と述べている。
参考文献 2-31 において、小山は「国土計画は長期的、広域的な計画であるが故に不確定性を除去することはでき ないものであり、各主体の行動が相互に作用し積み重なり、国土計画とともに新たな国土の様態を形成していくの である。」(pp.19)とした上で、参考文献 2-32 において「「構想としての戦略」として全総が策定されたことによ り影響を受けた結果としての国土の状態に対する反省、批判、点検等の検討を十分に行うこととは別に、「構想と しての戦略」としての役割を適切に果たし得たのかどうかを評価する必要がある。…(中略)…立場、経験等によ り全総に対する評価は様々なものとなるであろうが、「構想としての戦略」として全総は大きな役割を果たしたと いえるのではないだろうか。」(pp.44-45)と述べている。
参考文献 2-33(pp.3-17)参照。
参考文献 2-33(pp.56)参照。
日本建築学会計画系論文集(年 12 巻刊行:1956.06 〜 2015.09)、日本都市計画学会都市計画論文集(年 1 巻刊行:
1966.11 〜 2015.10)、農村計画学会誌(年 5 巻刊行(論文特集号含む):1982.06 〜 2015.09)を中心に既往研 究の整理を行った(それぞれの継続前誌を含む)。
例えば、参考文献 2-34 において下條は『農村側の受けるメリットは刮目すべきものがあるが、それだけでなく、
農村の教育力を生かした次世代の人材育成という日本社会全体にとっての意義はもっと注目されていいだろうと考 える。』(pp.173)と述べている。
参考文献 2-12(pp.13)参照。
注 2-27)
注 2-28)
注 2-29)
注 2-30)
注 2-31)
注 2-32)
注 2-33)
注 2-34)
注 2-35)
注 2-36)
注 2-37)
注 2-38)
注 2-39)
注 2-40)
注 2-41)
注 2-42)
注 2-43)
注 2-44)
注 2-45)
注 2-46)
注 2-47)
注 2-48)
注 2-49)