かつてのわが国では、地域間を流動する「漂泊者」が地域社会における多様な役割を担っていた。
漂泊者の概念とその役割については民俗学者である柳田の一連の研究、ならびに内発的発展論を通し て柳田に着目した鶴見による研究に詳しい。
鶴見(1977)によると、柳田は農民を除いた、支配像に属さない全ての職業の人間を漂泊者として 位置づけた注 2-15)とし、一定の土地に定住する「常民」と漂泊者との関係性を、(1)定住者の漂泊者 に対する差別と蔑視、(2)交易の対象、(3)定住者の漂泊者への渇仰の 3 点に整理している。またそ の上で、漂泊者の具体的人格に①毛坊主や巫女等の「信仰の伝播者」としての姿、②鍛冶屋や木地屋、
箕づくり等の「技術者(集団)」としての姿、③座頭や遊女、猿回し等の「芸能者(集団)」としての 姿、④新来の征服者への非暴力抵抗の結果である「山人」としての姿注 2-16)、⑤生涯を漂泊のうちに送 る「旅人」としての姿、⑥出稼ぎや移民等の「職業としての / 職業を求めての一時漂泊者」としての 姿を見出している注 2-17)。柳田によるこれらの識見は、漂泊者と常民とを区別した上で両者の関係性を 明らかにし、それによって相対的に常民を社会変化の担い手として位置づけようとした試みであるが、
こうした柳田の姿勢に対し、鶴見は漂泊者との交易交流が常民の活力の賦活に寄与していたとし、漂 泊者との出会いそのものが、常民が社会変動の担い手となり得る条件であるとする解釈を後に加えて いる注 2-18)。
以上の見解は、近代の地域社会を豊かにする上で、流動する人間が一定の役割を果たしていたとい う点で示唆的であるが、一方で今日ではこのような性質を持った人間像は一般的にはイメージされに くい。定住する人間と流動する人間の関係性にあっても、前述の(1)定住者の漂泊者による差別と
蔑視は住民の世代交代や混在化によってその論拠を次第に失い、(2)交易の対象としては、商業及び 娯楽機能の発達によって必要性を失い、(3)定住者の漂泊者に対する渇仰も、例えば姉妹都市交流等 に異種交流の一側面を見出せなくはないものの、国内全域にわたる現代生活様式の浸透に伴い徐々に その意義を失っていった。これら全ての点において共通するのは、高度経済成長に伴う交通・情報イ ンフラの拡充であり、現代社会が充足させてきた高速化・情報化の為の「手段」が、近代地域社会が 必要としていた定住する人間との関係性に基づく流動の目的を喪失させ、流動する人間像及び彼らに よる地域への関与を消滅させていったといえる。
2-4-2 生活改良普及員、農業改良普及員による近代化・民主化の推進(戦後〜高度成長期)
戦後の中山間地域における地域外の人間の関与については、生活改良普及員(以下、生改普及員)
ならびに農業改良普及員(以下、農改普及員)が代表的なものとして挙げられるだろう。これら 2 つ の普及員は、農地改革、農業協同組合事業と共に GHQ による農村民主化の三大改革とされる共同農 業普及事業の下、1948 年に制定された農業改良助長法(以下、助長法)に基づき農水省によって設 置されたものであり、同事業における農家の生活改善を生改普及員が、農業技術の向上を農改普及員 がそれぞれ担うこととしていた注 2-19)。
1)生活改良普及員
生改普及員は、農山漁村民が自ら問題を発見・解決できるよう、生活の改善に必要な知識や技術の 指導を行う為の人材である注 2-20)。「生活をよりよくする」為の「生活技術の改善」、「考える農民を育てる」
為の「生活改善(研究)グループの育成」注 2-21)の 2 つを主たる役割としており、とりわけ後者に関 しては、民主化への逆行と見做されていた婦人会の存在が強く意識され、生活改善グループを「個人 の意思に基づく意欲ある同志の集まり」としてその位置づけを強調している注 2-22)。生改普及員は農村 出身の女性が中心であったが、学歴基準を満たした者が試験及び研修を経て赴任するものであり、か つ省庁の理念をそのまま展開するのではなく、地域の実情に応じた対応が必要であった為、実質的に は彼女らは一定以上の社会階層に属し、高等教育機関で家政学を学んだエリートであった注 2-23)。 後述する農改普及員と異なり、既存の関連制度が全く存在していなかった生改普及員は、人材の育 成方法や具体的な活動内容が不明瞭なまま設置・運用がなされることとなった注 2-24)。その為、有識者 として同事業に関わった今(1977)が、当初の「外科的な」生活改善の在り方に対し、家族関係にお ける封建制の解消といった「内科的な」近代化を先行させるべきであると後に指摘した注 2-25)ように、
同事業は当時の農山漁村に根強く残る因習や迷信による強い抵抗を受けた注 2-26)とされており、設置 初期の生改普及員の取り組みは農家の「御用聞き」「相談役」としての意味合いが強く、講習会や座談会、
展示会等を通した同事業の意義や重要性の啓発や、婦人会への会合や農家への訪問を中心としていた
注 2-27)。1950 年代からは効率化を進めるべく、担当地区や個別農家を巡回して均一な取り組みを行う
方法から、意欲のある地域に対して生活改善グループの育成を中心とした取り組みを重点的に行う方 法が取られることとなり、それに伴い生改普及員の主たる役割は、グループ・ダイナミクス的なプロ セスを通した生活改善の支援へと移っていくこととなる注 2-28)。高度経済成長に差し掛かり、農山漁村 における耐久消費財の普及や兼業化の進展、更に都市部への人口流出が進んでいく中で、生活改善の 方向性は家庭生活から地域生活へと拡張され注 2-29)、具体的な取り組み内容も共同施設の導入やむらお こし活動への展開、リーダーの育成等にみられるように多様化、広域化していく注 2-30)。
生改普及員は生活技術の向上ならびに農村女性の地位向上に一定の成果を挙げたとする見解が多 く、とりわけ渡辺(2003)は「これら生活改善運動に利用された素材、従事した人材は、現在の開発 途上国における農業・農村開発に有効活用し得るものが少なくなく、…(中略)…関連資料の収集・
整理等の調査研究も現在行われ始めている。」注 2-31)とし、応用可能性を高く評している。
またこうした本来の目的のみならず、生改普及員の取り組みが研究・計画分野においても大きな影 響を及ぼしたことを忘れてはならない。若手の建築計画学者によって農村建築研究会(以下、農建)
が発足したのは 1950 年であるが、その代表を務めたのが生活改善普及事業に関わっていた前述の今 であったことから、農建の活動に全国各地の生活普及員が参加していた注 2-32)ことは注目に値する。
玉(2002)によると、1971 年の会員名簿には 146 名の会員のうち 41 名の生活普及員が名を連ねて
いた注 2-33)とされており、増産中心の戦後農政に一石を投じ、むらづくりの推進に始まった現在の農
村計画・地域計画の礎を築く上で、彼女らによる現場での指導や実践報告に基づいた議論の蓄積が多 大な貢献を果たしたことは想像に難くない。
2)農業改良普及員
農改普及員は、農業技能や経営に関する科学的技術及び知識の普及を行う為の人材である。農業技 術指導を担う人材自体は戦前より農会技術員等が存在していたが注 2-34)、農村民主化の三大改革である 農地改革が地主小作制の、農業協同組合事業が農業会の否定に起因したことと同様、共同農業普及事 業は系統農会の否定から始まったものであり、従来の技術育成の組織や体制を抜本的に改め、アメリ カ式の普及事業を導入する意向が強く働いている注 2-35)。
内山(1953)が「学校での教育は…(中略)…先生はその待っている生徒たちの前に表れればよい。
ところが農業普及事業の場合は、…(中略)…学校という柵の中に入っていないで野放しのままの生 徒たちを相手に教育する、というのが農業普及事業のそもそもの始まりであった。こういう意味で、
まことに< out of school >である。」注 2-36)と述べているように、慣行的技術を遅れたものと見做す価 値観の下に進められた普及事業は、技術的なギャップの存在や慣行的技術の否定に対する反発、また 主たる指導対象が経済的上層の農家に偏っていたこと等の理由から、生改普及員と同様にその取り組 みが直ちに受け入れられた訳では無く、1950 〜 60 年代の取り組みは限定的なものであった注 2-37)。 1970 年代以降、農業従事者及びその後継者が減少の一途を辿り、農業や農村を巡る諸情勢が悪化 していく中、助長法は改正を重ね、後継者への研修教育の拡充や教育施設との連携の強化、普及事業 の補強が図られている注 2-38)。