3 黄河沿岸地域における産業開発と都市形成の略史
3.3 黄河沿岸地域における近代産業の発展と進化
3.3.1 黄河沿岸地域における現代産業の始動
①中華民国前期の産業発展(1914 年~1937 年)
民国初年の綏遠省は、豊富な自然資源と農牧業資源を有していたが、現代的産業はほと んど見られなかった。代わりに、手工業が都市商業の中に重要な役割を演じていた。天然 資源や民族文化などの様々な要因の影響で、綏遠の手工業は中国主要部と異なり、農畜製 品加工業や金属精錬という二大分類が形成された。製鉄・木材・皮革・衣服・フェルト・
毛織物などが当時主要な手工業製品であった(図 3-3-1)。
1920 年代に、「開発西北、実業救国」の呼びかけが中国全土で広がっていた。
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図 3-3-1 民国時期綏遠省都市部における手工業の内訳 出所:烏敦[2014]、94 頁より整理。
まず、川上の石炭産業を例にして見てみよう。1864 年、烏達(現烏海市烏達区)におい て、辛家溝と吉慶溝などの炭鉱が開発され、この時を大規模な生産の始まりとすれば、内 モンゴルの石炭開発は 150 年ほどの歴史を有する。1914 年設立した官民合弁の「漠南鉱 業股份有限公司」が設立され、黄河沿岸地域の石炭、雲母、石綿の採掘を業務としていた。
そのほか、毛皮加工、絨毯、酒造などの産業も資本主義的特徴を帯びていた。そう判断す る理由は主に 4 点ある:①まず季節に関わらず生産が常にできるようになった。②生産の 主な目的が次第に自産自消から純粋な交換に移り、また商品経済が発展しつつあった。③ 労働道具と労働者の分離が始まり、階級が形成されつつある。④簡単な機械設備が生産に 導入され始めた(李徳[1989]、9~10 頁)。しかし、1947 年内モンゴル自治区の成立まで に、全土の炭鉱はすべて小型で、その数は僅か 27 カ所、従業者数は 1370 人程度であっ た。そして、生産方式は極めて遅れ、ほとんどは人力や馬力で行われた。生産量も 35 万 トンに過ぎなかった。特に民国時代の綏遠省では、総人口がわずか 200 万人程度しかな く、石炭の需要も多くなかった。そして、地元の重工業は皆無状態に近く、天然資源の開 発は他地域と比べて遅れを取っていた。それによって、綏遠地域での探鉱活動は活発では なく、採掘量も全国のわずか 0.28%7しか占めていなかった(表 3-3-1)。日本側の資料に よれば、1930 年代では、綏遠省の石炭採掘は主に帰綏(フフホト)から包頭一線以北に、
昔ながらのやり方で行われていた。幾つかの炭鉱があったが、その中、包頭の石拐炭田が 割と大規模で開発されており、漠南煤鉱公司は無煙炭と有煙炭を産出していた。しかし、
その用途は近代工業ではなく、帰綏、包頭などの都市の住民生活に使われ、需要が極めて
7『北支重要産業解説』24 頁より。
製鉄 15%
製銀 2%
製銅 2%
燃料 4%
木材 10%
麻縄 3%
毛織物 7%
皮革 10%
フェルト 7%
靴 3%
衣服 13%
搾油 5%
酒造 3%
製粉 2%
製糖 2%
製紙 3%
その他 9%
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少なかった。それに加え、山西省からの輸入炭もあり、即ち毎年帰綏一万トン、包頭四、
五千トン、その他の沿線各駅計 2000 トンにして、地場炭の販路は極めて極限された地方 のみに限られていた(南満天津事務所・第二十一輯[1936])。
省別 埋蔵量 割合 省別 埋蔵量 割合
察哈爾 504 0.22% 江蘇 217 0.09%
綏遠 476 0.20% 湖南 1764 0.76%
山西 127127 54.66% 四川 9874 4.25%
河北 3071 1.32% 雲南 1627 0.70%
山東 1639 0.70% 貴州 1549 0.67%
河南 7764 3.34% 広東 421 0.18%
陝西 71950 30.94% 広西 300 0.13%
湖北 440 0.19% 福建 396 0.17%
安徽 360 0.15% 寧夏 488 0.21%
江西 992 0.43% 甘粛 1500 0.64%
浙江 100 0.04% 合計 232559 100.00%
表 3-3-1 1936 年中国各省の石炭埋蔵量(万トン)
出所:南満洲鐵道株式會社天津事務所調査課、北支經濟資料・第二十一輯『北支那鉱業紀要』、南満洲鉄道 株式会社天津事務所、1936 年。
次に、冶金工業について、古代の内モンゴルには、金属加工の手工業が繁盛していたが、
共和国が建国するまでに、内モンゴルの冶金工業はほぼ皆無と言ってよい。本来 1927 年 の頃、地質学者丁道衡は初めて包頭北部のバヤン鉱区で露天鉄鉱を発見したが、軍閥の混 戦や開発条件の未発達で、開発はできなかった(林蔚然[1990])。1930 年代の時点では、
包頭の固陽鉄鉱に対する採掘はあったが、鉄鉱の品質は良くなかった。そして当時、白雲 鄂博(バヤンオボー)鉄鉱はすでに発見されたが、大規模な開発はまだ行われていなかっ た。両鉱山の推定埋蔵量は中国合計の 1.3%に過ぎなかった(南満天津事務所・第二十一 輯[1936])。
製造業について(以下は馬寒梅[2008]より整理)、当時の綏遠省長を務めた傅作義は製 造業の発展を重視し、工場を誘致するために、彼は「官商合弁」という起業形式を提唱し、
様々な優遇政策を打ち出した。1932 年、傅は地元の閻粛と董藎卿をそれぞれ社長とマネ ジャーに任命し、山西大学の王夢麟を技師長として招聘し、「綏遠電灯麺粉股份有限公司」
を設立した。生産した「五塔」というブランドの小麦粉は天津まで販路を広げていた。包 頭市の「包頭電気(電気・麺粉)股份有限公司」は 1931 年 5 月に成立し、1935 年の頃は すでに地元の大型企業にまで成長し、小麦粉の年間生産量は 12 万トンに達し、1 か月に コンテナー2、3 台分の製品を天津に輸出したという。1934 年86 月、綏遠政府は天津の商 人馮欣農と連携して「綏遠毛織廠」を創立した。1935 年 3 月に生産が始まり、間もなく 年間 1 万件の粗毛布と 1 万ヤードのラシャを生産できるようになった。これは綏遠地域 最初の機械制紡績工場である。他の資料によれば、大北山炭鉱の採掘権申請、豊鎮県雲母 鉱石の探鉱指令、烏拉山炭鉱の開業許可、麦わら帽子工場建設の許可、固陽県建設局の毛 織工場創立の許可など、政府の積極的な取り組みで各業種に及んだ創業の事例が見られ る。
8李徳[1989、10 頁]によれば、創立は 1933 年。筆者注。
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②蒙疆時期の経済・産業様態(1935 年~1945 年)
1939 年、日本の傀儡政権蒙疆政府が成立。蒙疆には、豊富な石炭と鉄鉱、そして農産物 と畜産物を保有したため、当時の日本政府は、「蒙疆は、経済活動を維持する能力が弱く、
資金・人力・物資などの方面で日本に依存しなくてはならない。広義的に言えば、蒙疆は 高度な国防能力を国として、その存在する意義は経済的自立にあらず、東亜共栄圏の繁栄 と発展にある」と認識し、蒙疆を工業原材料と軍事物資の供給地と位置付けた。特に、畜 産業や関連した手工業は日本占領区において最大の規模を誇り、他の戦区に畜産物資を数 多く供給していた(斯日古楞[2003])。
とはいえ、当時の輸出品目総額の内訳(表 3-3-2)を見れば、獣毛、阿片、穀物などの 農畜製品が極めて多く占めていた反面、石炭や鉄鉱石などの鉱産物はそれほど多くなかっ た。これで蒙疆の産業構造を推測することができる。
品目(単位) 数量 価値(円) 備考
獣毛(斤) 40000000 40000000 1 斤=1 円 獣皮(枚) 2000000 4000000 1 枚=2 円
腸 約 200000
獣骨 約 100000
獣毛製品 約 100000
石炭(トン) 350000 3920000 1 トン=11 円 20 鉄(トン) 300000 5010000 1 トン=16 円 70
その他鉱物 100000
阿片(両) 11000000 22000000 1 両=2 円 塩(担) 366788 1100364 1担=3 円 穀物(石) 2000000 30000000 1 石=15 円 黄麻(斤) 7000000 2100000 100 斤=30 円 亜麻(斤) 57450000 5170500 100 斤=9 円
薬草 約 80000
菜種(斤) 18700000 1496000 100 斤=8 円 煙草(箱) 約 6600 908365 マッチ(箱) 約 18820 151734 石油(箱) 約 94650 544431
雑貨 600000
砂糖(包) 約 15000 375000
綿布 約 1200000
綿花 200000
陶器具 80000
計 約 119436394
表 3-3-2 1942 年蒙疆の輸出内訳 出所:田中 剛[2010]。
日本占領期の頃、蒙疆は総面積の約半分が遊牧区であり、約 600 万頭の家畜が放し飼い にされていた。蒙疆の畜産業は、日本の羊毛工業と深く関わり、むしろ当時の産業の中心 になりつつあった。その中、綏遠の生産量が蒙疆のほとんどを占めていた(阿柔瀚巴図 [2006])。日本軍の中国東北・華北進出に伴った軍需の急拡大や日英関係の悪化が招いた 豪州羊毛の輸出制限によって、世界 2 位の羊毛消費国と躍進した日本はやむを得ず輸入
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先を切り替え、植民地の満州や華北一部から調達しなければならなかった。しかし、当時 の中国産の羊毛は粗毛が多く、毛織物用には不向きで、主にカーペット用としてアメリカ を中心に輸出されていた。このような背景の下、日本は蒙疆に羊毛輸出組合―「蒙疆羊毛 同業界」を設立し、羊の品種改良や疫病対策を講じ、輸入原料の品質改善に努めていた。
そして、蒙疆羊毛同業界を通じて、獣毛の集荷や配給に一元的統制を行った。しかし当時、
日本の羊毛加工企業は加工しきれる工場設備を持たず、結局は天津港でフランス、ドイツ など第三国に売却せざるを得なかったというような問題を抱えて、蒙疆羊毛同業界は成立 して一年後に解散するに至った(田中 剛[2010])。
これで、日本側は「戦争を以て戦争を養う」を通じて、羊毛産業の原料供給問題を軽減さ せた一方、牧畜業の生産技術を導入し、蒙疆の牧畜業の発展を間接的に促した側面もあっ た。そして、植民地経済下の物資輸出は、黄河沿岸地域が初めて繊維紡績産業のグローバ ル・バリューチェーンに参加したことを意味するが、石炭・鉄鋼・化学産業を発展させる 優位性は、この頃にはまだ現れていなかったことが推察できる。