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3 黄河沿岸地域における産業開発と都市形成の略史

3.3 黄河沿岸地域における近代産業の発展と進化

3.3.2 新中国成立以後の工業建設

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先を切り替え、植民地の満州や華北一部から調達しなければならなかった。しかし、当時 の中国産の羊毛は粗毛が多く、毛織物用には不向きで、主にカーペット用としてアメリカ を中心に輸出されていた。このような背景の下、日本は蒙疆に羊毛輸出組合―「蒙疆羊毛 同業界」を設立し、羊の品種改良や疫病対策を講じ、輸入原料の品質改善に努めていた。

そして、蒙疆羊毛同業界を通じて、獣毛の集荷や配給に一元的統制を行った。しかし当時、

日本の羊毛加工企業は加工しきれる工場設備を持たず、結局は天津港でフランス、ドイツ など第三国に売却せざるを得なかったというような問題を抱えて、蒙疆羊毛同業界は成立 して一年後に解散するに至った(田中 剛[2010])。

これで、日本側は「戦争を以て戦争を養う」を通じて、羊毛産業の原料供給問題を軽減さ せた一方、牧畜業の生産技術を導入し、蒙疆の牧畜業の発展を間接的に促した側面もあっ た。そして、植民地経済下の物資輸出は、黄河沿岸地域が初めて繊維紡績産業のグローバ ル・バリューチェーンに参加したことを意味するが、石炭・鉄鋼・化学産業を発展させる 優位性は、この頃にはまだ現れていなかったことが推察できる。

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時期を分けて紹介する。ここでは鄭[2010]の見解を引用して、図 3-3-2 を参照しながら紹 介する10

第一段階11:1947 年~1951 年の回復期。1947 年12、内モンゴルはウランフの指導下、新 中国より二年早く成立し、全国の内戦がまだ終わらないうちに、自力で経済を回復させ始 めた。同時に、全国の解放戦争に支援をしていた。この時期で、農業面では食糧生産量と 家畜頭数がそれぞれ 64.1%と 66.7%増加した。工業の生産高は 1.62 億元に達し、1947 年の三倍となっていた。しかし、この段階の成長は概して言えば、農業が主導であった。

第二段階:1952 年~1957 年の「第一次五カ年計画」時期。この五年間は、新民主主義 社会から社会主義社会へ、国営経済と私営経済の並存から計画経済下の純粋な国営経済 へ、そして小農経済から農村互助合作へ、という三つの切り替えを特徴とする経済体制の 転換期であった。当時、国は内モンゴルの資源状況とソ連による援助の利便性を考慮し、

内モンゴル東部には林業、西部には鉄鋼業を優先的に発展させようとしていた。また、各 都市について、包頭では鉄鋼、機械、石炭、電力、有色金属、化学産業など重化学工業、

フフホトでは各種の軽工業と機械産業、烏海では化学工業、アラシャンでは原塩採掘と詳 しく計画していた(李徳[1989])。正式な生産は「二五」からようやく始まったものの、

「一五」は黄河沿岸における産業構造の重工業主導的基調を定めた重要な発展段階であ る。この 5 年間で、工業の生産高は 1952 年水準の 2.9 倍と大幅に増加した。生産額で見 た 1957 年の産業構造は、依然として第一次>第二次>第三次産業だったが、第二次産業、

特に重工業の急成長が特徴的だった。

第三段階:1958 年~1965 年の「大躍進」時期と国民経済調整期。この段階では、重工 業への投資は更に加速し、1958 から 1962 年の「二五」時期における重工業への投資比率 は総投資の 96.2%に達した。1960 年には、農・重・軽の国民経済割合が 34.9:43.9:21.213 となり、重工業への傾斜と、合理性を欠いた「大躍進」政策が起こした問題が顕在化し始 めた。当時、主要な生産素材や簡単な機械の生産はすでに可能になったとはいえ、軽工業 と農業の発展が停滞し、国民の生活は苦しくなる一方だった。その後、1963~1965 年の 経済調整で、重工業の新設プロジェクトはほぼなくなり、産業構造のアンバランスはある 程度緩和していた。

第四段階:1966 年~1978 年の「文化大革命」時期。建国以来、この時期は国民経済が 再び打撃を受けた時代だった。内モンゴルでは、農業が横ばいを続け、工業の成長も頓挫 し、再び第一次>第二次>第三次の構造に戻ってしまった。しかし、工業生産の中に攪乱 要素もあったものの、ある程度の発展はあった。

第五段階:1979 年~2000 年の計画経済から市場経済への移行期。「改革開放」政策

10内モンゴル経済の発展段階について諸説があるが、その相違点は主に 1978 年後の分け方にある。

11ここの 7 段階の分け方は鄭蕾、「内蒙古自治区産業結構演変過程大致分為七個階段」、内モンゴル新聞 網、2010 年 4 月 27 日を参照。http://theory.nmgnews.com.cn/system/2010/04/27/010424242.shtml

121947 年、内モンゴル自治区が新中国を先行して成立したが、当時の黄河沿岸地域は依然綏遠省に属し た。綏遠省は 1954 年まで存在し、のち東に位置する内モンゴル自治区と合併。

13当時、第一、二、三次産業の割合を計算する国内総生産(普通の GDP)の統計もあれば、第三次産業と 建設業を取り除き、国のハードパワーと工業構造を反映する農・軽・重の社会総産値(全社会の生産高)

も重要視されていた。軽工業と重工業を比較する際にはすべて生産高ベースで行われる。

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は、それまでの絶対平等主義を経済発展から切り離し、企業や農民に生産インセンティ ブを与えた。また、「一五」から続いてきた重工業偏重の政策を放棄し、農業や軽工業に 対して様々な優遇策を打ち出して、その発展を促進した。1978 年までの 20 数年間で、

内モンゴルの一人当たり GDP は 1952 年の 137 元から 1978 年の 317 元までわずか 2 倍に しかならなかったのに対して、1979 年の 343 元から 2000 年の 6502 元まで 19 倍に急成 長した。しかし、2000 年の GDP に占める農業の割合が 22.8%と高水準を維持したことか らみれば、工業化が成熟したとは言い難い。

第六段階:2001 年~2010 年の工業発展加速時期。中国全体の経済成長につれて、内モ ンゴルは石炭と金属資源などの主なエネルギー・原材料基地としての役割を果たすように なった。10 年間で、経済規模は 6.81 倍に拡大し、第一次産業は 3.05 倍、第二次産業は 9.71 倍、第三次産業は 6.02 倍とそれぞれ成長した。特に 2009 年に、農業の比重が初め て 10%台以下に減少した。産業構造は元通りに、第二次>第三次>第一次との順序であ るが、各産業の割合の差が拡大しつつあった。

第七段階:2011 年~現時点の「産業構造高度化」時期。この段階で、産業構造は第二次 産業>第三次産業>第一次産業」という状態を維持している。2012 年、一人当たり GDP は 1 万ドル台に上った。そして石炭工業と金属工業の発展に伴い、工業は再び重工業に偏重 するようになった。1991 年から 2005 年頃まで、軽・重工業比例はだいたい 1:1.8 を維 持していたが、2013 年の時点で、軽重比は約 1:2.5 まで拡大している。後で述べるよう に、産業構造の重工業への傾向は、経済成長の不安定な要因となったため、政府や企業は 産業構造の高度化や各産業内部の高度化に取り組み始めた。

図 3-3-2 共和国時代の産業構造の変遷

②軽工業14の発展

前述したように、内モンゴルにおける最初の近代工業は、製粉・毛織などの軽工業から

14ここで言う軽工業は、消費財を生産する工業である。計画経済時代と現行の統計制度が多少異なってい る。1949 年~1985 年のデータは李徳[1989]から引用する。李の原作では電子産業が重工業に、製塩工業 が第一軽工業に属することから、データと産業分類基準の統一性を確保するために、ここで言う「軽工

0%

10%

20%

30%

40%

50%

60%

70%

80%

1950 1960 1970 1980 1990 2000 2010

第一次産業 第二次産業 第三次産業

44 始まったと言える。

内モンゴルで古来から行わわれていた毛織物製造や、清代から広がった綿布製造は、い ずれも家族的手工業に属していた。近代の紡織業は、1934 年に建てた綏遠毛呢(ラシャ)

紡織廠を起点としているが、手工業の性質が依然として強かった。当時の生産物は軍隊・

警察向けのラシャや絨毯などがあったほか、ドンゴロスも多少生産した。共和国建国後、

この工場は国に回収された。「一五」時期に、内モンゴルは羊毛・カシミヤなど原材料の 優位を利用し、毛織工業を重点的に発展させた。その後、「大躍進」によって紡織業の工 場が数多く建設されたが、「経済調整期」においてはまた合併・整頓された。「文革」の混 乱期を経て、改革開放による生活水準の上昇が紡織工場の建設に第二の高まりをもたらし た。80 年代には、紡織工業が各地に開花し、うち毛織は紡織全体の 60%ほど占めていた。

当時、黄河沿岸地域における半分以上の紡織工場がフフホトに集中していた(李徳[1989])。 1930 年代初頭、近代の食品工業は製粉業からスタートした。建国後の「一五」におい て、製糖、食肉加工、酒造り、製乳、製粉、タバコなどの産業の建設が、自治区全域で展 開された。紡織産業と類似した発展過程を経て、製粉、食用油加工、製糖が主導する第一 軽工業が形成された。2000 年代以後、牛乳や肉類に対する総需要が上昇しつつあること を背景に、石炭や冶金など産業の存在感が高まっていっても、食品産業が主導する第一軽 工業が経済に占める比重は大幅下落するには至らなかった。

中国においては、皮革・毛皮、アパレル、家具、日用金属製品などの産業が第二軽工業 と分類されている。その理由は、これらの産業は手工業に密接し、工業化が進んでも手工 業の労働方式が数多く残されており、零細産業とみなされたからである。計画経済時代に は、このような特徴を持つ第二軽工業は社会主義改造の対象とされ、集団企業に統合され た 1990 年代以後、内モンゴルの軽工業はアパレルや日用品市場で、沿海部との競争で敗 れ、存在感を失いつつある。

③重工業の形成と発展

 石炭工業

1947 年から「一五」直前の 1952 年に、経済の回復に伴い、石炭生産量は 35 万トンか ら 75 万トンへと緩やかに増加した。1953 年からの「一五」時期より、包頭鋼鉄工業基地 に燃料を提供することを目的に、政府は大型炭鉱の建設を始めた(李徳[1989])。1957 年 の「一五」末には生産量がすでに 217 万トンに達し、年間成長率は 23%だった。「二五」

から、烏海に初めて大型炭鉱が開発された。しかし、その後まもなく「大躍進」が始まり、

石炭産業の生産と建設は大きく攪乱され、1960 年の生産量は 1188 万トンに伸びたものの、

1965 年は 806 万トンに減少した。文革時代には、烏海炭鉱では内モンゴル初の全機械化

業」は、紡織・繊維工業、農業関連の食品・飲料・タバコ・製紙・印刷工業(言わば第一軽工業)、手工 業関連の皮革・日用金属製品・アパレル・家具・工芸品(言わば第二軽工業)と李徳[1989]同じような 分類方法を取る。他の産業は、軽重を問わずに「その他」に割り当てる。また、軽工業の細分類につい ては、1970 年までに、国務院の下には、国有の軽工業企業を管理する第一軽工業部、集団所有の軽工業 企業を管理する第二軽工業部、紡織工業部がそれぞれ存在し、当時の統計もこの政府の部門編成に従っ て行われていた。当時の生産条件の下、上述諸産業の生産特徴は各自の所有形式を決定し、更に三つの 軽工業部門の所属を決定する。