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魚津漆器の過去と現在

ドキュメント内 蜃気楼にうつる魚津の暮らし (ページ 140-194)

出上 岳

はじめに

本章では魚津市を代表する伝統工芸品である魚津漆器について述べる。魚津漆器の歴 史は古い。記録には室町時代末期に起源を持つとの記述が見られ、それ以降魚津漆器は 発展と変化を繰り返し魚津市の一大産業にまで成長した。そんな魚津漆器を筆者は初め から知っていたというわけではなかった。事前調査のために魚津市歴史民俗博物館を訪 れた際、魚津の歴史に関する様々な資料が展示されていた中で、最も興味を持ったのが 魚津漆器だった。そこで魚津漆器について少し調べてみると、かつては魚津の一大産業 だったということ、そして現在まで残っている漆器専門店が魚津市内に一つしかないと いうことがわかった。かつて一大産業とまで呼ばれるほどに栄えた魚津漆器が、なぜ現 在は製造しているお店が一つしか残っていない状況まで衰退してしまったのか。これに 疑問を持ったことが今回魚津漆器を調べるに至った動機である。

調査方法は聞き取りを主とした。初めに現在魚津市に残っている唯一の漆器店である 鷹休漆器店を訪ね、魚津漆器の現状について聞き取りを行った。その際得た情報を元に、

現在も魚津漆器を所持しているお寺を巡り魚津漆器にまつわるエピソードを収集した。

また魚津市街から山間部へ 10km ほど離れた場所に位置する東蔵と う ぞ地区に漆器を所持して いる家があると聞き、そこでも聞き取り調査を行った(東蔵地区については第10章を参 照)。

1.魚津漆器

本節では、主に『魚津市史(下)』(pp.221~233)を参考にして、魚津漆器の歴史をま とめる。魚津漆器にはとても古い歴史がある。それすべてを記述することはできないが 節目となる部分や重要な部分を簡潔に記す。

1-1.前史

魚津漆器の起源は室町時代末期に、渡り木地師 の集団が漆器の木地となる良材を求め て現在の松倉のあたりに移住してきたことから始まる。木地師とは盆、椀、杓、そのほ か日常生活における円形雑器を作る工人のことを指す。松倉に移住してきた渡り木地師 達は元々近江国(現在の滋賀県あたり)の出身らしいが、より良質な用材を求めて大永 から永禄のころ(1558-1569)飛騨国(現在の岐阜県北部あたり)双六すごろくだにに入り、さら に松倉に移住してきたと考えられている。しかし松倉でも用材が伐り尽くされ次第に減

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ったため、江戸時代前期に片貝谷の平沢に移住している。現在の奥平沢集落の上流1㎞

ほどのあたりに移住し 30 軒ほどの住居を構え集落を形成した。この木地師集落と奥平 沢集落との交流は頻繁に行われており、交婚も行われていたとされ血族的にもかなり往 来があったものと考察されている。現在も木地師集落があった場所を木地平ぢだいらと呼称し、

当時の屋敷跡や氏神の社跡などが残されている。写真9-1は現在の木地平跡地であり、

東蔵地域から1km程上流に道なりに進んだ先の道沿いに位置している。

その後、片貝谷でも平沢でも用材が尽きたのか江戸時代末期に数人が平沢から棚山

(現在の入善町あたり)に木地を求めて移住し、その数年後、また数人が木地を求めて 棚山へと移住した。その後は農家となって生活している。また平沢に残った人たちも木 地師から農家へと職を変えて生活を続けている、もしくは魚津の町に移住をしている。

1-2.江戸の漆器界

魚津および下新川郡内の山地に、木地が多く産出されたため魚津の漆器商はこれに漆 を塗り、生活用品として役立たせていた。その産出も少なくなかったが、特に魚津椀の 評判は三河国(現在の愛知県のあたり)にまでその名が届くほど高まっていた。当時の 技術はまだまだ拙かったものの魚津が前田侯の統治下に入るとともに足軽 40 人、奉行 付10人ほどが仕事の合間に漆器製作に従事し、一閑張いっかんばり1)のような物を製作したりしてい た。

さらに魚津城代を務めた青山氏2)は漆器業に資金を提供し、積極的な保護を加えてそ の振興に力を注いだことが、魚津塗りの確固たる基盤を作り上げる元となった。江戸時 代末期までに魚津塗りは盛況を極め、塗師の1人である屋次郎四郎と言う人が漆器の輪 郭に金線を描いた非常に古雅なものを作り上げるようになった。この作品が漆器界に新 風を巻き起こし、その後魚津漆器の真価が次第に認められるようになったのである。

写真9-1 木地平跡地(筆者撮影)

第9章 魚津漆器の現在と過去

(出上岳)

141 1-3.明治の漆器界

明治15~16(1882~83)年までは魚津漆器は衰えを見せ始めてはいたものの、市史が 書かれた時点と比べるとまだまだ盛んと言える時期であった。当時の漆器製造戸数は40 戸ほど存在しており、その頃の漆器の販路で代表的な地域としては、富山県内はもちろ ん、佐渡・越後・能登・加賀などが挙げられる。

しかし、明治19(1886)年になると状況は一変する。かつては40 戸ほど残っていた 漆器製造戸数はこの年に3戸ばかりへと激減し、魚津の漆器業界は存亡の危機を迎えた。

製造戸数が激減した理由として、安物の陶器が登場したことが挙げられる。かつて生活 の一部として大事に使われていた漆器よりも陶器は頑丈で扱いやすく、何よりも値段が 漆器よりも格段に安かったため陶器は人々の間に一気に浸透し、その結果佐渡や越後、

能登、加賀と言った代表的な販売ルートで漆器が売れなくなってしまったことが、当時 の漆器業界が衰退した一つの大きな要因になっていると考えられる。

この状況に危機感を覚えた漆器業者達は新たな販売ルートを模索することなどに努 めた。その結果翌年の明治20(1887)年には漆器製造戸数は7戸へと増加し、さらに翌 年の明治21(1888)年には9戸へと増加した。しかしまだまだ予断を許さない状況であ ることには変わりは無かった。

このような状況が数年間続くなか、明治28(1895)年に開かれた富山県工業品評会に 魚津漆器が出品されたことが大きな転機となった。品評会に漆器を出品するのはこの時 が初めてであったため、漆器の出来が悪く特に評価もされることはなかった。この結果 を受けた魚津の漆器職人達は富山県内だけで無く、他県の博覧会や共進会に何度も出品 を重ねるようになり、それが漆器製造の技術と評価を高めていった。その結果明治 30

(1897)年に神戸で開かれた第6回関西二府十六県連合共進会で、大久保嘉七郎が出品 した「金膳椀」が6等に入賞した。その翌年の明治31(1898)年には、朝田新兵衛を会 長として魚津漆工会が結成された。

1-4.大正の漆器界

大正3(1914)年に当時の漆工会会長だった高野清七郎が従来の宗和膳3)を一寸高く した一寸高宗和膳を考案し魚津特有の技法と仕上げによる新製品を生産すると、これに 越前の商人が目をつけた。越前の商人らがこの新商品を近畿以南に売り込んだところ、

大正5(1916)年ごろから続々と注文が入るようになった。その結果魚津の漆器業界は 非常に活発となり弟子の育成も進み、大正6(1917)年には製造戸数59戸、職工数105 名に増加。さらに翌年の大正7(1918)年には製造戸数69戸、職工数125名にまで増加 した。また大正7(1918)年以降数年間に、輪島から漆工・蒔絵師・沈金師などが40~

50名ほど輪島から来訪し新しい技術を伝えたので、魚津漆器は一層改良されることとな りその名声を上げた。

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大正12(1923)年頃に魚津漆器は最も盛んな時期を迎えた。漆器製造業・板物生地業・

蒔絵業など関連業者を含めて306もの業者があり、当時の魚津の第一の産業へと成長し た。漆器業の勢いは衰えず、大正13(1924)年には後の昭和天皇である東宮殿下が富山 を訪れ魚津漆器を購入されて、近いところでは石川や福井、遠いところでは東京や北海 道などへも出かけて販路の拡大に努めた。同時に、各地の共進会や品評会、博覧会にも 出品し、各市場において名声を得た。

1-5.昭和の漆器界

大正期の盛り上がりとは対照的に昭和期の漆器界は徐々に衰退していった。不景気が 原因で業者も次第に減っていったことに加えて、盛況だった一寸高宗和膳も全く売れな くなり転業者が続出してしまった。そのような状況下でも残った業者達は各地での博覧 会、共進会に出品を続け、研鑽を積んだ。

しかし昭和12(1937)年に日中戦争で物資の配給統制が始まると漆の購入すら難しく なり、漆器界の衰退に拍車をかけた。漆を購入するために購入券を使用したり、組合を 結成して年数回漆の配給を行ったりしてなんとか生産を続けていたが、戦火の拡大とと もに漆の配給は少なくなった。さらに職人達が徴兵で軍務についたりしたことで、昭和 19(1944)年には漆器の生産はほとんどされず業界は火の消えたような状態になった。

1-6.戦後の漆器界

戦争で業者が減少してしまい、数十戸あった製造戸数は昭和 21(1946)年には14戸 に減ってしまった。これを受けその再興を図ることを目的として昭和24(1949)年に魚 津漆器企業組合が組織された。しかしその7年後の昭和31(1956)年に魚津大火にあい 魚津漆器の業績のほとんどが消失した。またこの頃から、中国に頼っていた漆の輸入が 次第に途絶えてしまい、漆を購入することができなくなってしまった。

2.魚津漆器の現在と過去――住民の語りから

本節では魚津漆器の扱われ方について、現在と過去に分けて述べる。時代の変化に合 わせて漆器の扱われ方も変化してきたが、その様子を具体例や語りによって明らかにす る。

2-1.漆器の現状

魚津漆器の話を最初に伺ったのが鷹休漆器店の4代目店主であり、現在魚津市に残っ ている唯一の漆器職人である鷹休雅人さん(51歳、男性)である。

鷹休さんに魚津漆器について聞き取りを続けていく中で、漆器はプラスチックや陶器 類に取って代わられたため現在も漆器を持っている家は少ないという旨のお話を伺っ

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