太田 彩菜
はじめに
現在、各都道府県が把握している商店街は全国で14,035件あり老朽化や後継者問題、消 費スタイルの変化や大型店の出現などにより様々な問題を抱えている。昭和 45(1970)年 から3年ごとに行われている中小企業庁によるアンケート調査では、平成 30(2018)年度 の結果として商店街の平均店舗数が50.7店舗、1商店街あたりの空き店舗率は13.77%(前 回調査より0.6%増加)である。これは平成21(2009)年から連続して10%を超えており、
全国の商店街の約4割で、空き家率 10%を超えているのだという。さらに過去3年間に退 店した店舗数の平均は1商店街あたり4店舗で、商店主の高齢化や後継者の不在といった 理由が74%を占めた。空き家は今後も増加するだろうと回答した商店街も53.7%と過去最 高値であったという。
かつての魚津は、北陸街道の宿場町、魚津城の城下町として産業、商業の中心地であり、
商業の中心であった。現在の商店街は4つの通り(図5-1)に分かれていて、それぞれ通 りごとの特徴がある。初めて魚津の商店街を訪れたときに閑散としており空き店舗が目立 っていた。この印象は、先述の全国的な傾向と同じものである。しかし、歴史を感じさせる 店に混じって新しい店もいくつかあり、商店街全体として新しい形を目指す雰囲気を感じ られた。これは先の調査結果からはわからない現象である。
この章では昔から商店街で店を経営する方々による語りから、商店街をめぐるかつての 思い出や商店の人々同士の関わり方について記す。また商店街の変化の過程とその結果と して生まれた新しい店について、魚津市の取り組みや商店街を活性化させるべく新しい店 を始めた方々へのインタビューをもとに記述する。
1.魚津商店街の歴史
本節では『魚津市史 下巻 現代の歩み』(1972年)および『魚津市史 続巻現代編』(2012 年)に基づいて魚津にある商店街についてまとめる。
現在ある魚津市の主要商店街は、昭和31(1956)年9月10日に起こった魚津大火(本報 告書第3章を参照)によって焼失しその後再興した銀座通り商店街・中央通り商店街と、大 火後に非商店街地域に新しく形成された文化町商店街・新宿通り商店街に二分される。旧商 店街は自然発生的であり、旧国道沿いに町屋を並べて発展していった。
太平洋戦争前の近代における魚津商業の中心は大町通りにあり、荒町がそれに続いた。一 方で小売店を中心とする通りとして門前町的色彩を有する真成寺町(銀座通り)・神明町(中
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央通り)があり、小売り、製造を行う最も大きな通りの金屋町(中央通り)とその裏手の金 浦町がすそ野を広げ、北陸街道沿いに東進しながら発展したのが旧魚津町である。
全国的に戦前に都市の中心部が商店街化される傾向があり、戦後に強化され、昭和20年 代後半、30 年代に全国的な取り組みとなった。以下ではそれぞれの通りの歴史について記 述する。
図5-1 魚津商店街の地図
銀座通り商店街
真成寺町にある商店街でかつては魚津銀座と呼ばれていた。この地域には、真成寺の他に 常泉寺、長教寺など多くの寺院があり、寺院参詣の人々や買い物客でにぎわっていた。さら に昭和期の大衆娯楽である映画を上映する「帝国館」があったこともあって、昭和20年代 には魚津地域の中心的な商店街となり魚津中からお客を集めた。魚津大火による焼失後は 中央商店街と同様に防火建築帯の商店街となった。(防火建築帯については第4章を参照)
中央通り商店街(旧神明町、金屋町通り)
古くからの有力な商人の町屋・店舗が並び、一本の北陸街道筋にできた大きな通りから成 る中央通り商店街は、魚津市街地のほぼ中央に位置している。昭和 31(1956)年の魚津大 火前は道幅が非常に狭く、道路の真ん中から両側の店で買い物ができるくらいの道幅しか なかったが、大火で全ての店舗が焼失した。その後の復興工事の元、昭和33(1958)年に近 代的装いの商店が出来上がっていった。その後、昭和 34(1959)年までには街長 500メー トル、車道の幅員が9メートル、両側に幅員3メートルの歩道(アーケード)を有する防火
第6章 魚津商店街の変遷――新しい商店と商売の在り方の変化
(太田彩菜)
89 建築帯の商店街となった。
文化町商店街
文化町商店街は、大火を契機に仮店舗や新参の商店が自然発生した結果、急速な成長を見 せ、その後10年ほどで魚津の中核を担う商店街へと発展した。文化町の誕生・発展の要因 は大火だけではなく、昭和 27(1952)年に鴨川橋が完成し交通が便利になり、電鉄魚津駅 から中央通り商店街へ流れる客足や日本カーバイドなどの通勤人が急増したことも理由の 一つである。道幅が非常に狭く、自動車は簡単に通行できなかった。文化町商店街では、将 来の共同事業や資金活動を行うために「文化町商店街振興組合」という組合を発足し、魚津 市で初めて商店街の法人化を図った。商店街発足当初は夜の街として栄えていたが、現在は 文化町通りの店舗のほとんどが住宅地と化し、商店街としては機能していない。(文化町商 店街に関しては第4章を参照)
新宿通り商店街
電鉄魚津駅から西に向けて伸びる県道沿いに形成された商店街であり、戦後の闇市から 始まった。魚津唯一のバスターミナルによって隣村地域の人口を魚津町に運び、町の商店街 化を支えた。昭和11(1936)年の電鉄魚津駅完成後は「電鉄魚津駅前通り」と呼ばれた。昭 和30年代に道幅が拡張した後、昭和45(1970)年ごろには都市計画事業により現在の県道 拡張工事と同時にアーケード設置運動が盛んになり、昭和 48(1973)年にアーケードが完 成した。この商店街は電鉄魚津駅と共に発展していたが、ステーションデパートと呼ばれる、
駅の構内に展開する商業施設の閉店後は客足が少なくなったため、閉店する店舗が相次い だ。
2.商店街の思い出――聞き取り調査から
本章では、銀座、中央、新宿の三つの通りのなかでそれぞれ古くからある商店に聞き取り 調査を行い、そのお話をもとにそれぞれの通りの歴史について述べる。
2-1.柿沢呉服店(銀座通り)
魚津で一番古い店といわれる、柿沢呉服店は、明治の初めから創業しており、現在の店主 は5代目柿沢玲子さんである。現在は、呉服だけでなく着物や針、糸、毛糸、洋服生地、下 着などを扱う呉服店である。聞き取り調査では柿沢玲子さん(79歳)にご協力いただいた。
柿沢さんに過去の店や商店街の様子を尋ねたところ、昔は従業員が多く在籍し、独身の番 頭さんは住み込みで所帯持ちは通いで働いていたと話す。「口減らし」として小学校を卒業 してすぐに働く者もおり、昔は中間問屋がなかったため直接京都に仕入れに行き水橋、朝日、
滑川などから修行に来る者もいたそうだ。番頭さんのなかには、滑川や魚津市内の別の場所
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店を始めた頃は現在と同じく着物や針、糸、毛糸、洋服生地、下着などを扱っており、2 代目柿沢亀太郎の時代(戦前)が一番繁盛していた。その当時は嫁に行く時に着物を持って 行くという習慣があり、戦後も旅行に行くのに毎回違う着物を持って行ったり、PTAに着 物で出席するという習慣があったため着物がよく売れるようになったそうだ。その結果 店で扱う商品を段々と呉服のみに専門化していった。
バブル崩壊後は生活様式の変化によりタンスが売れなくなり、それに伴い着物の売り上 げも減少していったと話す。普段使いされていた着物が段々と茶道や華道、成人式といった 用途でしか使われなくなり、平成10(1998)年あたりから売り上げは大幅に減少した。
コロナウイルスの影響については、「こんなに出るとは思わなかった」というほど大きな 被害をうけ、お客さんが減るのに加えて京都や金沢、関西、加賀からの仕入れを行っている ため、問屋さんにしばらくは来ないでくれと伝えたそうだ。
現在は、お客さんのほとんどがお得意さんであり、新規のお客さんは展示会を通じて少し しかないと話されていた。
2-2.YOSHIDAYA(中央通り)
中央通りの鉄道側に位置するYOSHIDAYAは、明治35年創業の商店で、靴やカバンを扱っ ている。聞き取り調査では、現在の店主で4代目の吉田ゆうこさん(62 歳)にご協力をい ただいた。
YOSHIDAYAは、創業時から2代目までは下駄職人であり、またかつては現在の店舗の半分 の広さで店を営業していた。3代目から履物を扱うようになった。4代目(吉田ゆうこさん の父親の代)の時に、隣にあった住居の持ち主に土地を買ってほしいと頼まれ、土地を購入 し、店を増築した。
吉田さんによると、中央商店街にアーケードができたのは北陸では富山市総曲輪に次ぐ 早さであったため、全国からアーケードを見学するために訪れる人がいたという。
30 年位前までは子供が多く、商売が忙しいときはご近所の家で子供を預かってもらい、
ご飯を食べさせてもらうこともあったと話されていた。
吉田さんはまた、祭りにまつわる思い出も話してくださった。なかでも、魚津神社の祭り の日には中央通りに毎年 120 軒を超える露天商がやってきたという。この祭りは現在も盛 況で、令和元(2019)年6月もおよそ100軒の露天商が軒を連ねた。
吉田さんに商店街のなかでの人間関係について尋ねたところ、近年のイベントの減少か ら同じ商店街にいても知らない顔が増えたと話された。特に、イベントや公民館活動がコロ ナ禍で中止になっただけでなく、ゴミ出しや買い物の際の立ち話も減り、人との関りがなく なっているという。さらに、東京や大阪、名古屋、九州などの取引先とテレワークでのやり とりになり、足型測定やセールスを3月頃から中止したそうだ。様々な書類のサインがタブ レットに指で書いて入力する形からハンコに戻ったなど、至るところでコロナウイルスの