小林 一世
はじめに
現在、魚津市中心部の商店街は人通りが少なく、シャッターが閉まっている店も少なくな い。だが、調査を進めるなかで、昔は人がよく集まり、店も繁盛していたというお話を聞い た。そこで当時、町はどんな様子だったのか、またどのようにして繁盛していたのか知りた くなった。実際に商店街に足を運んでみると、衰退傾向にあるという当初の印象とは違って、
若者が集まるようなお店があることや再び商店街を盛り上げようと取り組んでいる人たち がいることが分かった。そうした「現在」の取り組みにも関心はあるが、それについては第 6章(太田担当)に譲ることにして、本章では商店街の中でも「文化町通り」の過去の記憶 に焦点を当て、まとめていきたいと思う。
今回、文化町通りに関する調査を行ってみて、文化町通りについて書かれている本が後述 する『文化町小史』だけと、きわめて少ないことが分かった。そこで、人びとが実際に話し てくださるエピソードをまとめていくことが大切だと思った。今回の調査では、文化町商店 街にお店を構える、ないしかつて構えていた、井田商店の井田さん、楽器店を営む川上信さ ん、ハリウッド化粧品の方に主にお話を伺った。文字として残らないエピソードと同時に、
『文化町小史』に記録されていることもまとめて考察していきたい。商店街は私を含め3人 で調査をしているので、情報を共有し、商店街の繋がりについてもまとめたい。
1.文化町の概要
文化町とは、新宿通りと中央通りの間にある商店街で、その長さは約 300 メートルであ る。すぐ隣には電鉄魚津駅やバスも通っており、アクセスが良い。現在の道幅はそれほど狭 くはないが、一方通行となっているため自動車では中央通り側からしか通行することがで きない。かつてはもっと道幅が狭く、広くなったのは昭和55(1990)年だそうだ。魚津大火 の経験から消防車が通ることができないような道幅では危険だという判断から道路の整備 が行われた。楽器店を営む川上信さん(70代)によると、「キャデラック、今で言うリムジ ンでピアノを買いに来たお客さんがいたが、道が狭すぎて通ることができなかった。」と語 った。
魚津中心部の商店街には中央通り・新宿通り・銀座通り・文化町通りの4つの通りがある が、その中でも文化町通りは最も新しい通りである。文化町という名前の由来としては、洋 館が多かったからという説と、先生や画家、エッセイストなどの文化人が多かったからとい う説を聞いた(「文化町」の名称の由来に関しては、次節で後述するように、さらに異説も
78
ある)。魚津城跡にかつてあった遊郭が、そこに尋常小学校が出来るという理由で文化町通 りに移ったのだというお話も聞いた。この真偽は不明だが、文化町が夜の町として華やかだ ったことも、この話からうかがえる。飲み屋・八百屋・魚屋は豊富だったが、肉屋と自転車 屋が無くて不便だったそうだ。
写真5-1 現在の文化町通り(筆者撮影)
井田さんによると、魚津は浜町から荒町・銀座という順に栄えて、順に廃れていったとい う。かつて、魚津駅からは大阪行き汽車が発着していた。このため、大阪等の県外から魚津 に出張に来る人が当時は多く、文化町には旅館も多かったという。しかし、新幹線が導入さ れて大阪便がなくなると、旅館も廃業に追い込まれた。
商店街はまた、車社会への移行とともに変化していった。商店街には駐車場がないため、
サンプラザなどの郊外の大型店舗が昭和 53(1978)年以降に出来始めると、多大な影響を 受けた。現在でも商店街には無料の駐車場が5、6台分しかない。かつては現在と違い、買 いだめができない時代だったため商店街に行く人たちが多かった。しかし現在では買いだ めができる時代なので、人々は車で大型店舗にいき大量の商品を買うようになった。また、
昭和41(1966)年には、新宿(電鉄魚津駅近く)にあった市役所が釈迦堂(新魚津駅近く)
に移動した。この変化は、文化町だけではなく、商店街全体の人の流れを変えるほどのイン パクトをもった。
現在文化町通りを歩いて住宅地を見てみると、以前はお店をやっていたような家が多い。
店が住宅地に変わっていった時期を聞くと、平成5(1993)年から平成10(1998)年の間だ という。ちょうどその時期に土地が安くなってきたそうだ。昭和 60(1985)年頃はまだお 店が多かったそうだ。
文化町は商店街の中でも最も新しい通りなので、できた当時は他の通りから下に見られ ることはあったかもしれないと、川上さんはおっしゃっていた。その一方で、通り同士の対
第5章 文化町通りの記憶
(小林一世)
79
立はなかった。その理由として川上さんは、「みんな儲けていて気分が良かったからだろう」
と語った。
昭和31(1956)年9月10日に起こった魚津大火は、中央通りを中心に町を焼き尽くした が、文化町通りは風向きと近くにある川の影響で火災が起こることはなかった。大火は夕方 から次の日の朝まで燃え続けた。蔵が燃えることが多かった。燃えていない蔵を火事が収ま った後に開け、酸素が入って燃えたケースもあったそうだ。避難先は親戚の家が多かった。
(詳しくは本報告書の第4章〔大坂担当〕を参照)
2.記録に残る文化町
文化町通りに関する数少ない文献の一つに、広田健太郎著『文化町小史』(1959 年)があ る。著者の広田は、以前満州の官吏として開拓地の農地計画をし、理想的な農村を作ること が仕事であった。その経験を生かし、幼少期を過ごしたこの地の開発を独力で計画した。莫 大な私財を投じるなど文化町の繁栄に大きな影響を与えた。本節では、『文化町小史』をも とに、文化町が繁栄していく様子を記述する。
写真5-2 昭和30年頃の文化町通り(『新川の昭和』より)
80 2-1.文化町という名称について
文化町という名称がつく前は、まだ家も5、6軒しかなく、通りになるほど立派な町にな るとは誰も予想していなかった。著者である広田が上京した時(大正9〔1920〕年頃)、日本 経済は膨張期に入っており、郊外に和洋折衷様式の「文化住宅」がめざましい勢いで建てら れつつあった。当時、世界大戦終結後の平和を記念して平和記念東京博覧会が上野公園で行 われていた。その博覧会に「文化村」という会場があり、そこには時代の先を行く設計がさ れた見本建築が並べられた。広田はこの「文化村」に大変感銘を受け、頭から離れなくなっ たそうだ。そこで広田が春の祝宴会で、この地域の名称を「文化町」としてはどうかと提案 したところ、満場一致でその名に決まったという。
2-2.劇場新設の話
建設業で各地を回っていた山田何某という人物が、魚津を気に入り、余生を過ごしたいと 考えていた。また、劇場のように、その日のうちに収入が分かる仕事にも興味があったこと から、魚津で劇場を新設したいと考えた。文化町の発展を願っていた広田は劇場の新設に賛 成し、土地を手配する協力をした。県庁や既設の劇場からの許可などスムーズに計画が実行 されないという問題もあり、すぐに建設はできなかったが、友人である大城氏の協力もあり、
何とか魚津劇場を建設した。当初は劇場としてのみ、運営を行う予定であったが、映画の鑑 賞も可能になった。その後、この劇場は魚津で最初にトーキー(映像と音声が同期した映画)
を鑑賞できる劇場として有名になった。この地を文化町という名称にした頃は閑静な地帯 を目指していたが、劇場を建設したことによって飲食店や歓楽施設が次第に増えていった ため、広田らは、この町を歓楽地帯として盛り上げていくことを考えるようになっていった という。
劇場に関しては井田さんからもお話を聞くことが出来た。劇場は今も文化町通りに建物 を残している。井田商店と魚津劇場は、20 メートル程しか離れていなかった。そのため、
当時映画館の音が井田さんの住まいにまる聞こえだったという。井田さんは小学生の頃か ら店番をおこなっており、映画館が近かったので、ナイトショーがあった日はたばこがよく 売れ、当時魚津で一番たばこが売れたそうだ。
2-3.電鉄魚津駅の完成
かつて、現在の電鉄魚津駅付近にはほとんど家がなく、湿田や沼地が広がっていた。魚津 にまだ鉄道が繋がっていなかった頃は、電鉄の資本は少なく、業態が危ぶまれることがあっ た。そのため、電鉄が魚津まで延長したいという意向が噂になったときは誰一人と信じるこ とはなかった。完成までには問題があり、時間がかかった。特に土地の問題では、電鉄側と 地主の間での価格交渉や条件の食い違いによって、交渉が難航した。その際に広田をはじめ とする文化町の人々によって土地の提供などが行われ、その結果ようやく電鉄魚津駅が完 成した。文化町の人々の協力がなければ、電鉄魚津駅の完成と、のちの歓楽地帯としての発