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加積地区におけるりんご栽培と人々のつながり

ドキュメント内 蜃気楼にうつる魚津の暮らし (ページ 122-140)

荻原 実穂

はじめに

私が魚津市を訪れたのは、今回の実習の調査が初めてだった。さまざまな所を歩き、興味 関心をひくものを探していたところ、魚津ではりんごなどの果樹栽培が盛んであることを 知った。そして、直売所がたくさんあるということを教えてもらい、実際にそのエリアに行 ってみると、本当にたくさんの直売所があった。歩いていく先々に「○○果樹園」という看 板が立ち、果樹畑が並んでいた。特に加積地区のりんごが有名なようで、「加積りんご」と いう名前を掲げた看板が多くあった。私はその様子を見て、なぜこんなにも直売所が多いの だろうかと疑問に思い、魚津の果樹栽培について調査する事に決めた。調査をする中で、り んご栽培においては加積地区で昔から栽培が続けられていることを知り、今日までどのよ うにして継続されてきたのか興味を持ったため、加積地区でのりんご栽培について調査を する事にした。

調査では、りんご農家や農林水産総合技術センター園芸研究所果樹研究センターの職員 からの聞き取りを行い、またりんご園での作業の様子や、畑回りの様子を見学させていただ いた。また、複数の文献や資料より、加積地区でのりんご栽培の歴史についての調査を行っ た。

本章では、加積地区でのりんご栽培の実態と人々のつながりについて明らかにする。第1 節では加積地区におけるりんご栽培の歴史についてまとめる。第2節では現在の加積りん ご組合・研究会について記す。第3節では農家同士のつながりやノウハウの形成・継承につ いて、「畑回り」という行事において観察したことを基に記す。さらに、第4節では直売所 の形態が確立されていった様子をインタビュー調査に基づき記述する。第5節では加積地 区でりんごを栽培し続ける思いを、主にインタビュー調査を基に記述する。

1.魚津市加積地区におけるりんご栽培の歴史

この節では、『加積りんご九十年のあゆみ』(加積りんご組合、1996年)に基づき、魚津の 主なりんご産地である加積地区におけるりんご栽培の歴史について記述する。

1-1.加積地区でのりんご栽培の始まり

りんご栽培は、明治 38(1905)年に魚津市の旧加積村吉島の富ごう太次郎氏が初めてりん ご樹を植えたことが始まりとされている。

加積地区は片貝川の下流の扇状地に位置する。片貝川の氾濫はこの地区の農作物に大き

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な被害を与え、用排水路が整備されていなかった時代は干害と水害に住民は苦しめられて いた。地区の土地は砂質で痩せており、水持ちが悪かったことから稲作にはあまり適してい なかった。しかし、柿はよく育つことが知られていたので、富居太次郎氏はそこからヒント を得てりんご樹を植えてみたところ、この地区の気候風土にうまく適合したと考えられて いる。

こうして土地にあった作物であるりんごの栽培を始め努力を重ねた富居太次郎氏から、

その孫である富居庄作氏の3代に渡って栽培面積を拡大させていった。同時に縁故者や近 隣の人々にもりんご栽培を勧めたため、加積地区一帯でりんごの栽培が行われるようにな った。

1-2.加積りんご組合の設立

昭和 12(1937)年4月、加積りんご組合が設立され、加積地区に初めてりんご樹を導入 した富居太次郎氏の孫である庄作氏が初代組合長に就任した。当初の組合員は20名であっ た。この頃のりんごの栽培面積は約16haまで拡大していた。しかし、昭和16(1941)年に 農地作付け統制規則1)が施行され、果樹の伐採・間伐が強制された結果、8年生以下の若木 が伐採され、栽培面積は急激に減少した。

1-3.加積りんご研究会の発足

昭和24(1949)年11月、東北農業試験場の園芸試験場東北支部(青森県藤崎町)を退任 後、東砺波郡出身の農業試験場出町分場(砺波園芸分場)に着任した小竹碻氏が加積地区の りんご園を視察する為に来園した。その際に東北と比べあまりに加積地区のりんご栽培技 術が遅れている事が判明したため、小竹氏は少しでもそれを改善しようと加積地区に頻繁 に通い、熱心に指導を始めた。また、小竹氏からりんごの大手生産地である青森県のりんご 栽培の様子を見学してくるように勧められた本庄長一氏らの栽培農家は、昭和 25(1950)

年と 26(1951)年の2ヵ年にわたり現地を視察し、先進地の栽培状況に驚いたという。こ のときの経験から、栽培技術の研究および向上のため、昭和26(1951)年10月、栽培者9 名により「加積りんご研究会」が発足した。

1-4.病害虫防除の取り組み

昭和28(1953)年、病害虫の一斉防除の必要性(各農家がバラバラに防除を行っても、害 虫が移ってしまうだけだった)を感じた加積りんご研究会では、独自に防除暦を作成し、こ れに基づく一斉防除をすることを示し、実施した。この頃は人力噴霧機による防除が主体だ ったが、栽培面積の大きい農家では次第に動力噴霧機を採用するようになってきていた。

また、各農家の都合で撒布日が一定せず、撒布に適した時期を逃してしまうところも多か った。そうすると薬剤撒布の効果は上がらず、病害虫の被害はかえって多くなってしまうよ うな状況も見られた。そこで、りんご組合は病害虫防除を徹底するには共同防除が最も適し

第8章 加積地区におけるりんご栽培と人々のつながり

(荻原実穂)

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ているという結論に至り、昭和 31(1956)年、加積地区全体における共同防除が検討され た。当時、共同防除の主流は定置配管方式2)だったため、ここでもこの方法を取り入れるこ とになった。

ところが昭和 32(1957)年冬、長野園芸試験場より後澤憲志氏を講師に招いて剪定講習 会を開催した折、病害虫の防除方法が、従来の定置式から今後は移動式SS機(スピード・

スプレイヤー)3)に移行していく傾向が見られる事や、移動式の利点についての説明があ った。定置式に比べ移動式は効率が良く、そちらが重要視されたのだが、防除配管に多額の 経費がかかる上に、新たに移動式SS機を導入するのは負担が大きすぎたため、先に移動式 共立SS1号機を導入している長野県小布施町押羽へ視察に行き、再度検討することとな った。その後りんご組合から何名かが視察に出向き、効率・経済的な面の検討も重ねた上で、

共立SS3号機が導入されることになった。

1-5.共同選果の実施

昭和 24(1949)年には食料統制が撤廃され、資材も少しずつ手に入るようになり、生産 もようやく軌道に乗り始めた。新川青果4)への出荷が開始されると、だんだんと販路が拡 大されていった。はじめは新川青果の境末治氏がオート三輪(トラック型の三輪自動車)で 各農家へ集荷に回っていたが、販路が拡大されるにつれてこのやり方(戸別集荷)では限界 を迎えるようになった。そこでいかに効率よく集荷するかについて話し合った結果、昭和25

(1950)年頃より加積農協倉庫で一括集荷が行われることになった。しかし、小さな農家で は荷不足から玉(りんごの果実のこと)の大きさが一定せず、価格も安かったため不満が出 るようになり、共同選果の必要に迫られた。そこで昭和 31(1956)年から共同選果事業に 着手した。選果方法や基準については新川青果の境末治氏が取引先の農協から講師を招い て指導を受けた。

共同選果にはいろいろな取り決めがあるが、出荷の際に箱の横に氏名を書くと長くなる ので、屋号を地区別印の中に書くことにしたのも、その一つだった。横枕・袋地区は□、六 郎丸地区は「ヤマ」、吉島地区は「カネ」、相木・上村木地区は〇となり、その中に頭文字の 一字を記入することに決めた。図8-1は、『加積りんご九十年のあゆみ』資料p.103の加 積りんご組合員一覧表より抜粋し、筆者が手書きしたものである。左から二番目の図が、六 郎丸地区の川西清則さんの屋号である。六郎丸の地区別印である「ヤマ」の下に、川西の「川」

が記されている。この屋号は現在でも使われており、重宝している。選果にかかる人手は、

栽培農家の婦人たちやアルバイトでまかなった。

図8-1 左から順に横枕・袋地区、六郎丸地区、吉島地区、相木・上村木地区の屋号

124 1-6.果樹分場の設置

昭和35(1960)年頃になると富山県の果樹面積は増大し、柿430ha、なし110ha、りんご 83ha のほか、ぶどう、桃などの栽培も盛んになり、新しい産地も生まれてきた。このよう な果樹栽培の規模の増加に伴い、栽培農家の育成・さらなる技術の進展のためには、加積り んご研究会だけでは厳しいものがあった。そこで、国や県などの行政機関に呼びかけて、果 樹試験研究機関を設置するべきだという声が上がった。りんご研究会では加積地区に果樹 分場を誘致しようとりんご組合に呼びかけ、富居庄作組合長らが県・市に陳情に出向くなど、

加積地区への果樹分場誘致運動を積極的に展開した。

その甲斐あって、用地に悩んだものの六郎丸地区の土地所有者の配慮で5ha の土地提供 を承諾してもらい、ここに設置が決定した。この果樹分場が後に改称され、果樹試験場にな った。そして後にさらに改称されて、農林水産総合技術センター園芸研究所果樹研究センタ ーとなる。(名称が変わった現在でも農家達は「果樹試験場」と呼んでいる。そのため、以 下では「果樹試験場」の名称を用いて述べていくことにする。)

1-7.災害との戦い

昭和30年代は災害が多く、栽培面積の増加にもかかわらず収量はほとんど伸びなかった。

雪害による樹木の損害や台風、降雹、薬害が連続したためである。

なかでも昭和35(1960)年の雪害の被害は大きく、毎日約30~50㎝の積雪が続いた。翌 1月に入ると、積雪は2.5mにまで達し、雪の重みで枝が引っ張られたりして、樹木が裂け てしまった。

その傷も癒えぬまま、翌昭和36(1961)年9月には大型台風の来襲を受け大量に落果し、

大きな減収となった。そのため、農業関係資金を次々に受けることになった。

昭和39(1964)年には降雹、翌40(1965)年にはまたも大型台風の被害を受けた。この ときの台風には日本海側特有のフェーン現象も加わり、「祝」の葉が一面に褐変し、りんご 園が茶色に変色した。落葉した樹木が10月の温暖な気候に促されて新しい若芽を吹き、花 が咲き、小さなりんごが実るという、次年度の不作が決まってしまうような状態となった。

また、平成に入ってからも気象災害にたびたび遭遇し、特に台風の被害を多く受けた。平 成3(1991)年9月の台風 19号では「ふじ」の 70%が落果し、倒木も多かった。平成 16

(2004)年9、10月に訪れた台風18号、23号では加積りんごは落果85~95%となり、甚 大な被害を受けた。

1-8.高度経済成長期におけるりんご栽培の不利的状況

昭和30年代は災害の被害が多く、加積地区でもりんご栽培を諦める農家が多く出た。昭 和40年代には日本経済が高度経済成長期に入り、農業は厳しい時代を迎えることとなった。

りんご栽培だけでは生活が困難になり、会社員になったりアルバイトに出たりする成人男 性が増えて、工業へと労働力が流れていった。このため、りんご生産農家の婦人たちは生活

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