ベネット・リーマー(1932-2013)は,1970年にA philosophy of music educationを著し,
美的教育としての音楽教育哲学を論じた。初版は様々な言語に翻訳され,2003年には第3
版が出版されるなど,現在の音楽教育に対して国際的な影響力をもつものである。日本で
は,丸山による日本語訳が 1987年に出版されている70。
リーマーの提唱する「美的教育」とはどのようなものだろうか。リーマーは,自身の音 楽教育哲学がある一つの基本前提に立っていることを主張する。そのことについて,リー
マーは次のように説明している。
その前提とは,音楽教育の本質と価値は,音楽芸術そのものの本質と価値によって決定され
る,ということである。教授あるいは学習する人間は,教授あるいは学習に関係するあらゆ
る要素によって束縛されざるをえない。そうだとするならば,音楽教育の性格は,音楽それ
自体の性格によって決定されるということができよう71。
つまり,音楽教育の価値は音楽自体の価値に基づくとし,音楽を教える目的を芸術の外
におき,芸術を手段化することに反対したということである。そして,リーマーは芸術教
育の中で多く存在する「関連主義(内容主義)」と「絶対主義(形式主義)」に基づく仮説を否
定し,「絶対的表現主義」の立場をとっている。
70 リーマー,ベネット(1987)『音楽教育の哲学』丸山忠璋訳,音楽之友社.
71 同上書,p.11.
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「絶対主義」と「関連主義」という用語は,芸術作品の意味と価値を発見するためにど うすればよいかを示すものであるとリーマーは指摘する。「絶対主義者の主張するところに
よれば,芸術作品の意味を発見するには,その作品自体を検討し,その作品を創作物たら しめている諸特質に注目しなければならない。」72それに対して関連主義者の見解は次のよ うに説明される。
芸術作品の意味と価値は,その作品そのものの外側にある。芸術作品の意味を発見するため
には,その芸術作品がその作品の外の世界に関連を示す,思想や情緒や姿勢や出来事につい
て検討しなければならない。芸術作品の役目は,芸術の外にあるもの,すなわち,創作物と
それを創作物たらしめている芸術的特質の外にあるものを思い起させ ,語り,理解する手助
けとなり,あるいは,経験させることである73。
「関連主義」は,どのような音楽がある感情や情景を表しているか,というところに関 心があり,音楽が言葉で翻訳可能であるという立場である。一方で,「形式主義」は「関連
主義」の情緒におぼれた解釈への反動であり,芸術と情緒のいかなる関連をも否定した。
リーマーは両者が音楽教育の中で働いていることを認め,歌詞の解釈など,音楽外に音楽
の価値を求める「関連主義」と,作品の純粋に形式的な要素だけを集中的に教える「形式 主義」の両極端で行き過ぎた考えを批判した74。「なぜなら,たいていの人が芸術に接した
72 前掲書 70),pp.34-35.
73 同上書,p.35.
74 同上書,pp.58-59.
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経験からわかっていることが,芸術の中に感情は存在するけれども,それは芸術の外の情 緒とは何かちがう」と感じており,「情緒が生まれてくる芸術的文脈から切り離して教えた
り,感情の存在を無視して教えたりすると,芸術独特の情緒的魅力の肝心なところを見逃 してしまうように思える」からである75。
それでは,リーマーの立脚する「絶対的表現主義」とはいかなるものであろうか。リー マーは,ある曲が「深い悲しみ」を感じさせるような場面を例に挙げて説明している。関
連主義者なら,「深い悲しみ」がその音楽の情緒的意味だと主張するだろう。そしてその場 合,情緒の象徴または記号としての,音楽の有効さの度合いが音楽の価値となる。形式主
義者なら,その音楽の形式的な諸特質がすぐれた構成で表出されていれば,情緒象徴の有 無にかかわりなく,その曲はすぐれた曲であると判断するだろう76。そして,表現主義者
の考えについて以下のように説明する。
「深い悲しみ」の公式が,その音楽全体の美的諸特質とはっきり区別のつくものであり,ま
ったく別の存在とみなされている限り――「言語」の断片のように――それはまだ,表現性
において美的ではない。しかし,もし,そのメロディ公式が,その指示対象とともに,音と
して表現性豊かな音の肝要な一部分になっていて,その結果,象徴としての存在ではなくな
りながら,しかも同時に,曲全体の効果に寄与するようになっていれば,その場合は,その
メロディ公式はその音楽の美的内容の一部になっているのである。塩が,塩の粒としての特
徴を失いながらも,シチューに特定の風味を添えてシチューの味を引き立てるように,象徴
75 前掲書 70),p.60.
76 同上書,pp.62-63.
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も楽音に溶け込み,象徴としての特徴を失いながらも,曲全体に象徴の風味をそえるのでな
ければならない77。
つまり,情緒の存在を認めつつも,それは曲の中から切り離されて存在するものではな
く,豊かな表現性に寄与する風味として曲の中に溶け込んでいるものだということである。
そして,情緒の言語や表現としての音楽という概念を追放し,美的表現とそうでないもの
との,微妙であるが重要な相違を見分けるのに役立つように,きわめて注意深くことばを 選んで使う必要があると主張している78。
美的表現を音楽と言い換えると,音楽とそうでないものの相違を注意深く見分けるとい うことである。そのために,リーマーは教育方法として,音楽を音楽たらしめている要素
として音楽の構造理解を重視した。リズム,メロディー,ハーモニーなどである79。ただ し,要素を取り出すことを重視したのではなく,リーマーが意図したのは「音楽の「要素」
を超えて芸術に共通する「概念」を取り出し,多様な様式の音楽・美術を統合的に学習で
きるようにすること」であったと村尾(2010)は指摘している80。
そしてリーマーは「美的教育」として,音楽の表現技術を高めることに特化した演奏に よる教育よりも,「音そのもの」に目を向けるような理解・鑑賞を中心とした芸術教育を想
定していた。このことが,後に教育方法に関する論争を生むことになる。その主要なもの
77 前掲書 70),p.63.
78 同上書,p.68.
79 梶尾美香(2008)「音楽教育哲学から鑑賞教育への示唆」『名古屋市立大学大学院人間文化研 究科 人間文化研究』第9号,pp.127-140.
80 村尾忠廣(2010)「「音楽教育学における哲学的研究」の動向――リーマー/エリオット論争 をめぐって:企画趣旨――」『音楽教育学』第 40―1号,日本音楽教育学会,pp.26-28.
54 が,リーマー/エリオット論争である。
第2節 リーマーとエリオットの論争
エリオットはリーマーの弟子であるが,1990年に行われた第 1回音楽教育哲学シンポ ジウムで師リーマーに真っ向から反論する「プラクシス的(実践的)音楽教育」を発表し,
一躍注目を浴びた81。エリオットの主張について,ウォーカー(2010)は次のようにまとめ ている。
リーマーが音楽教育の構成要素としての鑑賞の役割を重視したのに対し,エリオットはこれ
を批判,鑑賞とは音楽表現でもなければ音楽すること(musicing)でもない,あくまでも音楽
教育の副次的な活動で,優先すべきは演奏,作曲,即興,そして指揮である,と主張した82。
さらに,エリオットは鑑賞が演奏や作曲などの「音楽する(musicing)」能力に表れなけ
れば意味はないのであり,鑑賞のための鑑賞は音楽することにならないと主張する。
このエリオットの主張に対し,ウォーカーは「今日の音楽の授業を考えるなら,エリオ
ットの主張に問題があるのは明白だ」83と指摘する。適切な技術を身に付け正しい音を出
すことに集中するのは初心者の頃であり,エリオットの言う鑑賞が生かされるのはこの時
81 前掲書 79),p.131.
82 ウォーカー,ロバート(2010)「音楽教育哲学:表現?鑑賞?両方とも?」『音楽教育学』第 40―1号,今田匡彦訳,日本音楽教育学会,pp.29-35,引用はp.29.
83 同上書,p.29.
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期ということになる。そしてその中の一人がプロ演奏家として高い水準に到達したときの
み,そのような鑑賞が意味をなすからである。大部分の生徒が iPodsやインターネットで
音楽を聴いている時代に,「演奏や指揮のようなマイナーな活動を重視して現実を無視する ような音楽教育をするのは,はなはだ無責任なことだ」と「実践的アプローチ」への疑問
を投げかける。さらにウォーカーは,エリオットの,演奏に相反するものとして鑑賞を貶 める姿勢は,演奏家は彼らの演奏の受けてとしての聴衆よりも優れている,という図式を
成立させる危険性があると指摘している84。
そして,ウォーカーはエリオットの演奏偏重の音楽教育観を批判した上で,現代社会に
おける鑑賞の意義について主張している。聴衆なしで音楽表現が存在することは不可能で
あり,今日,世界中の多くの若者が毎日 iPodsや携帯電話,インターネットで自分たちの
好きな音楽を聴くのに時間を費やしている,という事実がある。そのような現代における 鑑賞教育の必要性についてウォーカーは以下のように述べる。
音楽教育によって若者たちが鑑賞の習慣を身に着けなければ,たとえどのような音楽との出
逢いがあったとしても,彼らの勝手な聴き方でしか聴けなくなるだろうし,エンターテイメ
ント産業や高度に洗練された広告の手管に乗ったナイーヴな信者になるだろう85。
つまり,多様な情報が入り乱れる社会において,その発信者へ盲目に従うのではなく,
自分で情報をよく見極め,取捨選択していく必要があるだろう。そのための眼を養うもの
84 前掲書 82),p.30.
85 同上書,p.32.