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鑑賞教育の課題と展望 第1節 鑑賞教育のあり方

現在の「感想文」は,子どもの思考を整理するために,「客観的内容」と「主観的内容」

を分け,前者を後者の根拠とする方法がとられている。しかしながら,音楽は宮大工と同

様に「一回性」を帯びたものであり,状況から切り離された言語(「客観的内容」)を,十 分な身体感覚が備わっていない段階で用いることで,逆に子どもの「思考」を停止させて

いるのではないだろうか。筆者が合唱指導において初期に躓いたのもこのためだろう。さ らに,合唱指導では,「感想文」に書かれるような説明的な言葉は通用しなかった。子ども

に伝わらない言葉を子ども自身に書かせることには意味がないと考える。

言葉が身振りの代理物として学ばれるとすれば,「知識」より「経験」が先立つという方

が,学習の順序としては自然ではないだろうか。これにより言葉を「経験によってみえて きたものを呼び分ける名前」として機能させることによって,「実感を伴った言葉」や「経

験と言葉の一致」が生まれるのではないだろうか。また,そのようにして習得された言葉 は,感覚の変化に応じて捉えなおしが可能であり,また言葉自体を忘れたとしても,身体

で獲得された知は残るのではないだろうか。

これらのことから,鑑賞教育,ひいては音楽科教育においては,忘れ去られるような「文

字知」としての知識の蓄積ではなく,身体感覚によって獲得される知の蓄積が重要だと考 える。

69 第2節 「鑑賞」と「表現」の一体化を目指して

子ども達が実感をもって学ぶことができるような鑑賞教育を行うためには,「鑑賞」と「表

現」を一体化させた授業が必要なのではないだろうか。このことは,音楽科教育では既に 議論の対象となっており,様々な取り組みが行われている。

例えば,今(2014)は,オーケストラ演奏の鑑賞において,子どもに好きな打楽器を選ば せ,映像に合わせて,奏者の真似をして膝を叩かせるという実践事例を紹介している103

それによって擬似的にオーケストラの演奏に参加でき,子どもが主体的に関わることので きる鑑賞授業となっている。

新山王(2013)は,愛知教育大学附属岡崎中学校の矢崎教諭と協力し,表現と活動を一体 化させた授業の研究を行っている104。その中の1つに中学校2年生を対象として「アメー

ジンググレイス」のアカペラに挑戦させる授業がある。その中では,生徒にただ合唱の指

導をするのではなく,IC レコーダーを用いて自分たちの声を聴き,それを演奏へ生かす工

夫がされている。また,様々なアレンジの「アメージンググレイス」を聴かせ,その違い を聞き取った上で,さらに生徒が和音構成音の組み替えによる楽曲のアレンジを行う活動 に繋げている。

これらの事例では,「鑑賞」の中に身体活動を取り入れたり,「表現」の中に「鑑賞」の

活動を取り入れたりすることで,「聴く」ことへの必然性が学習者に生まれている。「鑑賞」

103 今由佳里(2014)「音楽鑑賞教育に関する基礎的研究」『鹿児島大学教育学部研究紀要 教育 科学編』pp.49-54,引用はp.53.

104 新山王政和・矢崎佑(2013)「表現と鑑賞を一体化させ音や音楽を聴く力の育成をめざした 実践――音楽構成要素を知覚・分析させ表現へ結びつけさせた試み 」『愛知教育大学研究報告. 芸術・保健体育・家政・技術科学・創作編』第 62輯,pp.1-9.

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と「表現」活動の一体化により,「鑑賞」に求められる「主体的に聴く」という場を自然に 生み出すことができる可能性が示されていると考える。また,そもそも「鑑賞」と「表現」

は不可分の関係にあり,「鑑賞」と「表現」を「聴くこと」と「演奏すること」,さらに「言

語活動」と「身体活動」へと二分しようとすることで,音楽(体験)と乖離した「感想文」

の問題が生じてきたのではないだろうか。

第3節 総括的評価の必要性

「感想文」と音楽体験の隔たりや,鑑賞教育と表現活動の連続性のなさはこれまで長い 間議論されており,その解決策を「感想文」の内容の精査に求めることによって,さらに

「感想文」の客観性と主観性という,表面的な言葉上の問題に関する議論のループが生じ てきた。

もちろん音楽活動を行う中で,言葉による試行錯誤や思考は必要不可欠なものである。

しかしながら,「一回性」を帯び,臨機応変な対応が求められる音楽において,状況から切

り離された,知識としての言葉が,かえって子どもの思考を停止させる危険性をもつこと を指導者は認識する必要があると考える。

そのような危険を回避するために,子どもにとって「身体でわかる」という経験は必要 不可欠である。また,言葉そのものではなく,言葉が表すものを学ぶことが,本当の意味

での学習ではないだろうか。そのため,鑑賞教育の問題点は,「感想文」の中身ではなく,

言葉を過信するような学校教育現場の風潮にあると考える。「感想文」を中心とした,1話

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完結のような授業ではなく,「表現」と「鑑賞」を一体化させた授業が必要だろう。

その中で「感想文」は,身体によって獲得された感覚を記録し,蓄積を手助けするもの

として用いることで,学習者にとって意味のあるものとなるのではないだろうか。また,

そのように記録された「実感を伴った言葉」は,子ども同士や子どもと指導者の身体感覚

の共有のための材料として,鑑賞のみならず,音楽科教育の活動全体での活用の可能性も 広がるのではないだろうか。

また,その場合の「感想文」は,評価材料とはなりえないだろう。「感想文」だけでなく,

演奏や創作などの活動と合わせた総括的な評価が必要となるだろう。

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結論

本論文では,音楽科教育において行われている「感想文」について,筆者自身が感じた

“書きにくさ”や“目的の不明確さ”に対する疑問から,「感想文」の抱える問題を明らか にし,「感想文」のあり方や意義を考察した。

これまでの「感想文」は,そこに表現上の制限を設けなかったことで,その内容が無秩 序になっていたことが指摘されており,内容や評価の曖昧さが「感想文」の書きにくさの

原因となっていた。その反省から,現在「感想文」はその内容を「客観的内容」と「主観 的内容」に分けて記述させ,前者を後者の根拠とする方法がとられている。またその評価

方法については,「客観的内容」と「主観的内容」をさらに細かく分類した評価観点 が設定 される傾向にあることが先行研究などから明らかになった。

書く内容を分類・整理することは,これまでの「感想文」の内容や評価の曖昧さや混乱

を解消する手だてとして有効である。しかし,音楽を聴いて感じた印象(主観的内容)が,

音楽の要素や構造(客観的内容)と直結しているとは限らないという問題が指摘されている。

「主観的内容」がその場で聴いたその演奏によって喚起されるのに対し,「客観的内容 」は

演奏を方向づけるものであり,あらかじめ準備されている内容であるため,「主観的内容」

と「客観的内容」の間には距離があると考えられる。そのため,無理に結びつけようとす

ることは,〈根拠に基づいた〉説明ではなく,〈根拠に沿った〉説明になりかねない。それ によって,根拠にそった聴取や,音楽から受け取った,説明しきれない部分が排除される

など,聴取内容を狭めてしまう懸念もあることを筆者は指摘した。また,プロの音楽評論 家でさえも音楽について語ることは難しく,方法についても賛否両論ある中で,学校で評

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論(批評文)を目指すような「感想文」を書かせることは難しく,その必要性もないと考え る。

「感想文」の内容について,「主観」と「客観」のどちらを重視するかという問題は戦後 に学校における鑑賞教育が成立した当初から議論されていることであり,両者を折衷した

ような現在の議論はその延長線上にあると言える。これ以上「感想文」の議論を発展させ

ることは難しく,「感想文」と音楽(体験)の乖離の問題の解決を,「感想文」の内容の精査

に求めることは不可能である。

音楽活動を行う中で,言葉による試行錯誤や思考は必要不可欠なものである。しかしな

がら,「一回性」を帯び,臨機応変な対応が求められる音楽において,状況から切り離され た,知識としての言葉が,かえって子どもの思考を停止させる危険性をもつことを筆者は

指摘した。そのため,そのような危険を回避するために,「鑑賞」においても子どもにとっ て「身体でわかる」という経験は必要不可欠である。

以上のことから,「鑑賞」と「表現」活動の一体化が「感想文」の問題を解決する糸口に

なると考える。第 7章第 2節では,「鑑賞」と「表現」を一体化させた授業の実践によっ

て,「鑑賞」に求められる「主体的に聴く」という場を自然に生み出すことができる可能性 が示された。そもそも「鑑賞」と「表現」は不可分の関係にあり,「鑑賞」と「表現」を「聴

くこと」と「演奏すること」,さらに「言語活動」と「身体活動」へと二分しようとするこ とで,音楽(体験)と乖離した「感想文」の問題が生じてきたのではないだろうか。つまり,

鑑賞教育の問題点は,「感想文」の中身ではなく,言葉を過信するような学校教育現場の風 潮にあると考える。「感想文」を中心とした,1話完結のような授業ではなく,「表現」と

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