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「音楽について語る」とは 第1節 「解釈」と「批評」の定義

前述したように,今日の鑑賞教育では,「批評的聴取」が推奨され,「鑑賞」の内容は,

「音楽について理解した上で批評する」と定義されている。音楽を理解し批評するとはど

のようなものだろうか。

「理解する」ということは,専門的に言うと「解釈する」と言い換えることができる。

理解即ち解釈とはどのようなものだろうか。佐々木(1995)は,「解釈」について以下のよう に説明している42

ラテン語で解釈を意味する interpretatioは,仲介・通訳を意味し,ギリシア語hermêneia の訳語である。この hermêneiaは神ヘルメス Herêsの名に由来する言葉で,ヘルメスが神

の意志を伝える使者であるところを踏まえている。この場合 ,通訳とは神の言葉を人間の言

葉に通訳することである。

そして,この原型的な解釈の場面を考察すると,解釈には,次の3つの特徴をみとめる ことができる43

①解釈されるべき意味(=神の意志)は超越的であり,そのままでは理解できない。

②解釈は,唯一正しい回答があるという想定に立って ,この正解を思考する。

42 佐々木健一(1995)「解釈」『美学辞典』東京大学出版会,pp.208-217.引用は p.209.

43 同上書,p.209.

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③解釈そのものは人に言葉によって,つまりわれわれが理解できる記号体系によって行われ

る。

つまり,理解即ち解釈とは,翻訳と近い意味合いをもつものであり,対象に内在する意

味を暴き,言葉に変換する作業である。

それでは,音楽の理解(解釈)と並んで,最終的に目標とする技能として掲げられている

“批評”とはどのようなものだろうか。佐々木によると,“批評”とは,「具体的な芸術現 象を主題とし,そこに見出される諸々の意味を論じ,もって作家と鑑賞者たちに指針と手

がかりを与える活動」44である。ここでも“解釈”と同様に,芸術の「意味」を論じる活 動が含まれている。それでは,“解釈”や“評論”とどこが異なるのだろうか。

“批評”が“解釈”や“評論”といった言葉と区別される点は ,“批評”が後者とは違っ て価値評価を行う点である。“解釈”が芸術作品の意味を明らかにすることにとどまるのに

対し,“批評”ではさらに,対象の欠点を指摘したり,対象に否定的な態度をとる,という 意味合いが伴う45

つまり,「音楽を理解し,批評する」とは,「そのままでは理解できない音楽を,理解で きる記号(ことば)に翻訳し,その上で音楽の価値評価を行う」という複雑な活動である。

しかも,音楽の解釈や批評は,それを受け取る対象にとって説得力を持たせる必要があり,

ある程度の客観性が必要である。そのためには,評価の基準となる,その芸術作品が創出

され,受容される文化(コンテクスト)の知識理解が必要であり,極めて専門的な行為だと

44 佐々木健一(1995)「批評」『美学辞典』東京大学出版会,pp.217-226.引用は p.217.

45 同上書,pp.217-218.

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いえる。果たして,このような専門性(主に西洋音楽に関する専門性)が,専門家を育てる のではない音楽科教育には必要だろうか。また,現状として今日の「感想文」ないし「批

評文」と呼ばれるものは,本当に「批評」を行っていると言えるのだろうか。

次節では,音楽批評としてどのようなものが行われているのか,専門家の実践事例を取

り上げる。その上で,音楽科教育に取り入れる妥当性について検討する。

第2節 小林秀雄の実践事例

日本において文芸評論を確立した人物とされているのが小林秀雄(1902-1983)である。彼 はクラシック音楽に造詣が深く,「モオツァルト」46という評論を執筆している。彼の評論

は,『小林秀雄全集』が刊行されるほど多くの人々に読まれ,彼の評論に対する論評が数多 く存在する。そのため,彼は日本の音楽批評に対して大きな影響を与えていると考えられ

る。そのため,本節では小林秀雄の「モオツァルト」の事例を取り上げる。

「モオツァルト」は全部で 11の断章から成り立っており,各章の内容を以下に簡単に まとめる。

1.ゲーテやニーチェのモーツァルト作品に対する印象や考えを,エピソードを交えながら紹介

している。

2.ある冬の夜,突然モーツァルトのト短調シンフォニーの有名なテーマが頭の中で鳴ったエピ

46 小林秀雄(2001)「モオツァルト」『小林秀雄全集 第八巻』新潮社,pp.44-95.( 「モオツア ルト」自体が書かれたのは1946年である)

41 ソードを紹介し,その感動について語っている。

3.モーツァルトの天才ぶりを示す資料(モーツァルトが書いたとされる手紙)を提示し,モーツ

ァルトの類まれな才能と併せ持つ子供らしさについて述べている。

4.才能と子どもらしさを併せ持ち,生涯神童だったモーツァルトの作品に現れる純粋さと自然

さ。

5.優れた芸術作品は,必ず言い表すことのできないものを表現しているため,私たちはやむな

く口を噤むが,一方でこの沈黙は空虚ではなく感動に充ちているため,何かを語ろうとする衝

動を抑えがたく,しかも口を開けば嘘になるという意識を眠らせてはならない。(芸術の原理 について)

6.モーツァルトが 16歳の時に,創作方法上の意識の限界による精神の危機に直面したことを

踏まえ,その苦しい時期から作曲された「6つの弦楽四重奏曲」が続く「フィガロの結婚」よ りも重大な作品だと思われる旨を語っている。

7.モーツァルトに面識のあった人物(義妹と義兄)の記録とモーツァルトの肖像から,モーツァ

ルトの性格や精神を読み解いている。

8.モーツァルトの最初の心酔者,理解者の1人であったスタンダアル のモーツァルト論につい

9.モーツァルトの書簡からモーツァルトの抱える孤独を読み取り,それを反映した彼の作品

(ト短調クインテット,K.516.)への示唆としている。

10.モーツァルトの音楽の特徴

・モーツァルトのピアノ曲の単純で純粋な音の持続の難しさと美しさ

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・モーツァルトとハイドンのシンフォニーの比較(歌うような短い主題)

・モーツァルトの歌劇(歌声と器楽,肉声と音楽の調和,人物の性格描写の超絶さ)

11.モーツァルトの35 年の短い人生における作品の多さとその多様性について

このように,小林の批評は作品の分析のみならず,他者の視点や歴史的視点,モーツァ

ルトの人物像に至るまで多岐にわたる視点を示している。また,柳父(1981)は,小林の文 章の特徴を分析し,〈詩〉と〈批評〉が交錯していることを指摘している47。そして,柳父

は,最も顕著な部分を以下のように示している。(旧字体は現在使用される漢字へ変換し た。)なお,以下に示す部分は,小林が「ト短調クインテット」,K.516.に関して言及して

いる場面である。(傍線筆者)

確かに,モオツァルトのかなしさは疾走する。涙は追ひつけない。涙の裡

うち

に玩弄するには美

しすぎる。空の青さや海の匂ひの様に,「萬葉」の歌人が,その使用法をよく知ってゐた「か

なし」といふ言葉のようにかなしい。こんなアレグロを書いた音楽科は,モオツァルトの後

にも先にもない。まるで,歌声の様に,低音部のない彼の短い生涯を駈け抜ける。彼はあせ

つてもゐないし急いでもゐない。彼の足どりは正確で健康である。彼は手ぶらで ,裸で,余

計な重荷を引摺つてゐないだけだ。彼は悲しんではゐない。たゞ孤独なだけだ。孤独は,至

極当り前な,ありのまゝの命であり,でつち上げた孤独に伴ふ嘲笑や皮肉の影 さへない48

47 柳父章(1981)「文体の論理――小林秀雄の思考の構造――」『小林秀雄を〈読む〉』現代企画

室,pp.98-124.

48 前掲書 46),p.74.

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柳父が〈詩〉と分類した部分に ,〈批評〉と分類した部分を を引いた。これをみ

ると一目で分かるが,ここではほぼ各文章ごとに〈詩〉と〈批評〉が激しく入れ替わって いることを柳父は指摘している49。柳父がいう〈詩〉と〈批評〉とは文体のことではなく,

文の性質を表す。〈詩〉は「劣悪」から「崇高」の曲へ向かう運動であり,〈批評〉は「崇 高」から「劣悪」へ向かう互いに正反対の運動であるという50。このプラスとマイナスの

極を激しく行き来することが,小林の文章にエネルギーを生み出し,上記の文章では,感 動の頂点にある小林の息づかいが聞こえてくると柳父は評価している。

第3節 音楽批評へ議論 1. 小林秀雄批判

小林の幅広い観点やエネルギッシュな文章構造が評価される一方で,高橋(1981)は小林 秀雄を痛烈に批判している51。その中からいくつか取り上げる。

まず高橋は,小林の孫引きを批判している。「モオツァルト」はエッケルマンの引用する ゲーテのエピソードにはじまり,次にメンデルスゾーンを引用しただれかの本から再引用

したゲーテのエピソードを語っている。さらにそれらの引用の仕方もよくないという。「ゲ

エテは,モオツァルトについて一風変わった考え方をしていたそうである 」や,「ゲエテは

49 前掲書 47),pp.110-113.

50 同上書,p.105.

51 高橋悠治(1981)「小林秀雄「モオツァルト」読書ノート」『小林秀雄を〈読む〉』現代企画室,

pp.207-217.

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決して冗談を言うつもりではなかった」などと,つまらないところで読者をくすぐろうと し,おせっかいな想像へ話をそらそうとすると高橋は批判する。さらに,ゲーテが「ぶつ

ぶつと自問自答していたことのほうが大事だったのである」と,言うべきことのないとこ ろに言うことをみつけようとすると指摘し,「指が月をさすとき,指をみるバカ」とまで述

べている52

次の批判は小林の弁証法についてである。「ベエトオヴェンという沃野に,ゲエテが,浪 漫派音楽家たちのどのような花園を予想したか想像に難くない」(正)。「もっとも,浪漫主 義を嫌った古典主義者ゲエテという周知の命題を,僕は,ここで応用するきにはなれぬ。

この応用問題は,うまく解かれたためしがない」(逆)。そして数行おいて,「個性と時代と の相関を信じ,自己主張,自己告白の特権を信じて動きだした青年たちの群れは,彼の同

上を惹くに足らなかった」(正)と続く場面に対して,小林の弁証法は,正・逆・正の円運 動であり,とんぼがえりのレトリックであると指摘する。さらに,「ありふれた命題をかか

げ,「それを言うつもりはない」と口先で否定しながら,ちがう言い方でおなじことを言う。

はじめの命題は論理であり,終わりの命題は心情であるところだけがちがっている」と,

小林の論法が,結局は同じことの繰り返しであることを批判している53。前述した柳父は,

このプラスとマイナスの極の激しい行き来が小林の文章のエネルギーを生み出していると

評価していたが,そのことが結局は同じところを行ったり来たりしているだけだという高 橋の指摘である。

2つ目の断章で小林は「ある夜,大阪の道頓堀をうろついていた時,突然,このト短調

52 前掲書 51),pp.207-208.

53 同上書,p.208.

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