第1節 〈根拠に沿った
, , ,
〉説明
書く内容を分類・整理することは,これまでの「感想文」の内容や評価の曖昧さや混乱
を解消する手だてとして有効である。しかし,音楽を聴いて感じた印象(主観的内容)が,
音楽の要素や構造(客観的内容)と直結しているとは限らないという問題が指摘されている。
例えば,学習者が「この楽曲は悲しい感じがする」と感じたとしても,その理由が強弱や
リズム,テンポといった要素によるものだとは限らない。1つひとつの要素ではなく,そ れらの総合によって,あるいはそれ以外の要素も合わさって,「悲しい感じ」が醸し出され
たかもしれないのである89。
また,鑑賞の授業において学習したことが,表現の活動に繋がっていかないということ
も指摘されている。例えば,鑑賞において学習した言葉(客観的内容)が表現の活動の中で,
学習者から自発的に出てこないということが挙げられる。さらに,「主観的内容」がその場
で聴いたその演奏によって喚起されるのに対し,「客観的内容」は演奏を方向づけるもので あり,あらかじめ準備されている内容だと言える。
これらのことから,「主観的内容」と「客観的内容」の間には距離があり,無理に結び つけようとすることは,〈根拠に基づいた〉説明ではなく,〈根拠に沿った〉説明になりか
ねない。また,根拠にそった聴取や,音楽から受け取った,説明しきれない部分が排除さ れるなど,聴取内容を狭めてしまう懸念もある。
また宮下ら(2011)が示した「批評を取り入れた新しい音楽鑑賞授業のためのガイドブッ
89 前掲書 27),p.119.
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ク(中学校編)」試案においては,教材選択の趣旨について,「〔共通事項〕に示された要素 に注目しやすく,その楽曲の特徴として知覚しやすい要素同士の関連が認められるもの」
や「文化的背景や他芸術との関わりがわかりやすい楽曲」と示されている。このことは,
「感想文」の内容があらかじめ用意しやすいものが教材としても選択されやすいことを示
している90。
そして,鏡の「感想文」の評価実践について前に示したが,教師はあらかじめ「感想文」
の内容をある程度予測しており,満足できる「感想文」のモデルを想定している。そのた め,予想外の記述や,評価の観点にそうように内容が分類されていないものに関して評価
ができないという事態になっている。この「感想文」の内容や評価が細かく分類される傾 向について,筆者は“「感想文」のテンプレート化”と呼んだが,「感想文」の内容をあら
かじめ予測しやすくし,評価をその予測に基づいて行うことで,評価を明確化・簡略化し ようとする傾向があると感じる。さらに上記のように,学習者から予測した反応が出やす
い楽曲を選択する傾向にもつながっている。
第2節 「表現」と「鑑賞」の乖離
筆者の表現領域(合唱)の指導経験における自身の言葉や指導方法を分析し,鑑賞教育に おける「感想文」で扱われる言葉と比較検討していく。筆者は,2010年から現在までの間
90 宮下俊也・大熊信彦・松岡聡(2011)「「批評を取り入れた新しい音楽鑑賞授業のための ガイドブック」試案と授業実践」『学校音楽教育研究:日本学校音楽教育実践学会紀要』第 15号,pp.206-207.
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の約3年間,弘前市内の小学校の合唱団に,伴奏者・指導者として携わってきた。
合唱(表現)の指導における指導者の言葉の伝わり方と「感想文」で扱われる言葉を比較 することで,「表現」と「鑑賞」の乖離の要因を探る。
○初期の失敗例→説明(言葉)中心の指導
・「クレッシェンドで歌おう。もっと盛り上げて」(しゃがんでから立ち上がる動作をしな がら歌わせる)→あまり変わらない,動作によって声が不安定になる
・「指揮しっかりみて入り合わせて」→見ても合わない
・なかなか意図が伝わらず1か所に時間がかかり,だいたいできたら次に進む
(実際にはあまりできてない。児童に達成感も無いため,少し良くなってもすぐに元に戻
る)
○最近の改善例→動作(身体)中心の指導
・説明は最小限に抑え,具体的な動作を引き出すための言葉がけや様々な方法を試してみ る
(出だしの息のスピードが足りない,pだけど遠くまで声を飛ばしたい→「窓から見える校 舎の2階まで声を飛ばしてみよう」「遠くにあるロウソクの火を消してみよう」)
・言葉だけでなく,「みんな今こう歌ってるから,もっとこうしてみよう」と,実際に良い
例と悪い例をやってみせて児童に違いを確認させ,歌い方を変えたほうが良いと判断させ てから歌わせる
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・原因をしっかり見極めて対処する(入りが合わない→ブレスができていない,指揮を見て いない)
・スモールステップで集中的に練習(指揮を見る練習→ブレスの練習→ブレスから声と一緒 に息を出す練習)
これらのことから,鑑賞における「感想文」で扱われるような,説明的な言葉を用いて も,子ども達には指導内容が的確に伝わらないということが分かった。また,言葉の補助
として身体動作を取り入れるのではなく,身体動作の補助として言葉を用いるように意識 するほうが,子どもに伝わりやすいということも分かった。
なお,中学校教育実習においても合唱団で初期に用いていた様な言葉を用いたところ,
小学校の子どもと同様の反応が見られた。そのため,本事例において生じた言葉の問題が,
年齢的な言葉の発達段階の問題ではなく,音楽科教育全体に共通するものだと考え,小学 校での実践事例を用いた。
第3節 「言葉にできない知」の問題
1.「文字知」と「言葉にできない知」
川口(2011)は,宮大工の師弟関係を読み解くことで,「文字知」と「言葉にできない知」
を伝えるために工夫された「わざ言語」91の位置づけや役割について考察している92。そ
91 「わざ言語」とは,生田久美子が V.A.ハワードが用いたThe Languages of Craftという用
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の中で川口は,宮大工である西岡常一が弟子に対して,あえて「文字知」の使用を避けて いる点を指摘している。なぜ「文字知」を避けるのだろうか。問題なのは,単なる丸暗記
になることだという。
宮大工の仕事は「一回性」を帯び,その場で臨機応変に振る舞うことが求められる。「文
字知」は状況から切り離され,反復可能性を帯びたものであり,それを丸暗記した者には そのような振る舞いができないのだという。つまり,「弟子を丸暗記に誘い込み,「思考」
を停止させる危険性の回避のために「文字知」が拒まれた」93ということである。
ただし,西岡は弟子に教える場面で「文字知」を避けてはいるが,「文字知」自体を否
定しているわけではない。西岡自身読書家であり,一度頭に叩き込んで知るが,それを捨 てる必要があるという。それは,実際の現場では,数値では測り得ない,言葉にはできな
い,身体によって獲得された知が重要となるからではないだろうか。それでは,「文字知」
自体が問題なのではないとすると,何が問題となるのだろうか。
2.「言葉」と「経験」の順序
西岡自身は詳しく言及していないため,川口は,宮大工である小川三夫の語りを手掛か りに,「言葉」と「経験」の順序に注目している。小川は,ある程度習熟に達した弟子の学
語を日本語訳したものであり,音楽やスポーツなど,様々な「わざ」の世界でその伝承の折に 頻用されている,科学言語や記述言語とは異なる言語表現を指している。(生田久美子(2011)
「はじめに――「わざ言語」と「学び」」『わざ言語――感覚の共有を通しての「学び」へ』生 田久美子・北村勝朗編,慶応義塾大学出版会,pp.ⅰ-ⅶ.)
92 川口陽徳(2011)「「文字知」と「わざ言語」――「言葉にできない知」を伝える世界の言葉」
『わざ言語――感覚の共有を通しての「学び」へ』生田久美子・北村勝朗編,慶応義塾大学出 版会,pp.101-133.
93 同上書,p.104.
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びにおいてのみ「文字知」が有効であると考えている。つまり,知識から始めることには,
「思考」を停止させる危険性があるが,経験を積んだ後に「文字知」を与えることには意
義を見出している94。
「知識」から「経験」の順序の場合,「経験」は「文字知」の再現として,「文字知」は
「経験」を指定するものとしての意味合いを持つだろう。一方で,「経験」から「知識」の 順序の場合,「文字知」は,「経験によってみえてきたものを呼び分ける名前として機能す
る」95。
そのため,「言葉が意味するところを,先に生きてきたからこそ,この過程を経て理解
に至った者の言葉には実感が伴っている。経験とそれを表す言葉が一致している」96とい う事態になるのではないだろうか。また,身体経験として「わかる」者にとって,言葉は
すでにあった感覚の名前に過ぎないため,感覚の変化によって言葉を捉えなおすことも可 能であり,名前を忘れても感覚は残る97。
3.“身振り”と“言葉”
矢向(2005)は,ヴィトゲンシュタインの「言語ゲーム」98という理論を援用し,音楽を
言語ゲームとして理解することで,美的本質を明らかにすることを目指している。その中
94 前掲書 92),pp.114-115.
95 同上書,p.115.
96 同上書,p.116.
97 同上書,p.120.
98 矢向は「言語ゲーム」について,「言語が織り込まれて遂行される振る舞い,もしくは,そ の振る舞いにかかわる諸局面」であるとし,次のように例を挙げて説明している。
例)人が「痛みを感じている」と言うときに,痛みというものの実質を彼が本当に感じてい るかどうかを確証することは難しい。そこにあるのは,言語によって生み出された振る舞い としての痛みであり,人がそこに痛みを表象していると認識すべきである。(矢向正人(2005)
『音楽と美の言語ゲーム――ヴィトゲンシュタインから音楽の一般理論へ』勁草書房,p.53.)