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長浜❷

ドキュメント内 彦 根 長 浜 (ページ 42-48)

1 滋賀県内の長浜市の位置

(資料)Google Earthより.

1979

年ごろとされている.このころ,車社会が進展 し,人の動きが郊外へと向かっていっており,中心市 街地から人が遠ざかり,商店街を歩く人の影はほとん ど見られなかったという.戦後まもない

1954

年(図

2)および高度経済成長を経たあとの 1983

年(図

3)

の旧版地形図,そして現在の

2006

年の地形図(図

4)

を比較すると,密度の低い市街地が徐々に外側へと広 がっていくのが観察できる.高速道路や国道バイパス の建設はそれに拍車を掛けたと推察できる.

 なんとかして中心市街地の活気を取り戻そうとした 人々が取った手段は観光都市化であった.しかし長浜 には彦根の「江戸以来の城と城下町」といったような セールスポイントもない,結局長浜が取ったのは「黒 壁を中心しとたまちとガラス」という今まであったも のと新しい試みを組み合わせ工夫を重ねるという手法 であった.もともとあるものが少ないということは絶 え間ない努力と新しい発想を必要とするということで もあり現在の長浜の反映に大きな役割を果たしたとい える.

 また,長浜の「黒壁スクエア」を中心とする町並み は観光客を引き付ける要因となっている.歴史都市に おいて住民の意識と観光客の両方に対し景観が重要な 役割を果たすことは筆者の専攻対象であるヨーロッパ 地区においても『都市の景観地理』(阿部編 2009)に おいてさまざまな事例のもとで再確認されている.

 ここではまず長浜が都市再生のためにとってきた道

のりを長浜の「まちづくり」のリーダー的存在である

「長浜まちづくり株式会社」の方々の話による情報を 中心に,商店店主などの現地の人々から聞いた話やイ ンターネット・文献の調査から得られた情報も組み合 わせ詳細に検討し,そののちに現地の景観観察の結果,

人々への聞き取り調査で得られた商店街の人々の長浜 に対する意識なども突き合わせ,「まちづくり」の成 功の条件や,それに景観が果たす役割について考察す ることとする.

2 旧版地形図(昭和29年) 3 旧版地形図(昭和58年)

4 旧版地形図(平成18年)

Ⅳ.博物館都市構想と黒壁―商店街の景観

 長浜の再生する上で中心となったのは「博物館都市 構想」と「黒壁」である.その名が示す通り,まち全 体が博物館であるかのように,観光客や住民にとって 魅力的なものであふれたまちにしていこうといったも のである.このようなわかりやすい目標があったこと で,市民が一体となってひとつの方向性を目指すこと ができたという.まちの再生には行政と民間の協力が 不可欠だが,長浜では問題意識の一致,積極的な市民 運動,地元資本による活動主体となる様々な企業の設 立などが要因となって推し進められてきた.行政だけ が主体ではプランを作ったり箱物の建設だけで終わっ てしまうという反省を踏まえて民間主体ということが 強く意識されてきたのである.また,構想を実現して いくにあたって景観の重要性も認識され,高層建築を 制限する条例も制定されている.

 長浜の街を整備し「博物館構想」を推しすすめて観 光客を引き込むための核となったのが「黒壁」である.

現在「黒壁ガラス館」となっている建物は「黒壁銀 行」としてかつて親しまれた歴史ある建物であったが,

昭和末期に取り壊しの危機に瀕することになる.そこ きゅうで行政と民間の双方の投資のもとに「株式会社 黒壁」が設立された.設立時の社長の鶴の一声でガラ ス事業を中心に据え,この建物では製作されたガラス を展示・販売することとなった.まちの再生のために

メディアの利用を視野に入れ,外部の人に受ける要素 を狙ってとのことである.結果それは成功し,現在で は多くの人々がガラス館を訪れるようになっている.

また,黒壁ガラス館と並行して周囲の古建築の保存に も乗り出し,おみやげ屋,カフェ,レストランなどと いった形で再生させている.これらの建物群は「黒壁 スクエア」と呼ばれている.

 実際に黒壁ガラス館付近を散策すると東西に走る大 手門通り,南北に走る北国街道を中心に観光客向けの 営業をしつつも古風な外観をした建物が目立ち,付近 一体の景観に統一性を持たせている.この辺りの建物 はいくつか店主に質問したところ戦前期の明治〜昭和 初期ごろまでに建設されたものが多いようで,彦根に みられたような近世の武家屋敷跡ほど古いものではな いが,それでも古い建物の保存に力を入れ,見た目に も気を配っていることがうかがえる.

 この

2

つの通り以外でも和風の建物の特徴を残し ている建物は博物館通り,表参道,ゆう壱番街などに も多く見られた.これらは黒壁の影響下というより は,紆余曲折,段階的な改修を経て現在の形となった ようである.ゆう壱番街は現在は西半分にのみアー ケードが掛けられているが,かつては東半分にもアー ケードがあったという.その当時の様子はわからない が,老朽化が進み,店主や客の「アーケードによる薄 暗い雰囲気を払拭し日に当たりたい」という声を反 映し,1990年代後半ごろに東半分の撤去が実施され

5 長浜中心市街の主要な通りと本文中に登場するまちづくり機関・建物

(資料)筆者作成.

た.当該商店街の店主や「長浜まちづくり株式会社」

の言によれば,現在の景観を形成するために,店主ら の積極的なインセンティブが発揮され,行政や非協力 的な人々を動かし,現在の景観が形成されているとい う.彼らが目指したのは飽きさせないまち,人々にとっ て歩きやすいまちだという.人々にとって歩きやすい よう電柱を下げるなどの工夫がされているし,軒先の ファサードを揃え向かいから照明を当てるなど見てい て飽きないまちなみとなるようになっている.

 長浜の町並みは行政や企業が独断で進めて整えたと いった類のものではなく,住民・店主が話し合いの場 を設け,方向性を決め,補助金を獲得して商店街で協 力して返済するというように常に地元の人々が主体と なっていたことが複数の店主の話からわかった.しか し,それでは尻込みしてしまいがちであるので,地元 の人々の中でもリーダーシップを持った人たちが積極 的に動いた結果が現在の長浜の整った町並みを生みだ したのだ.

Ⅴ.人々の意識と協業―ソフトウェア的努力

 ここまでは主に建築物・景観などハードウェアの観 点から取り組みや長浜の特徴について述べてきた.し

かし,

長浜のまちづくりを語る上では「ソフトウェア」

の方面での話を欠かすわけにはいかない.

 これまで何度か触れてきたように,長浜の再生は地 元の人々が主体となって,行政を動かし,時には協力 することによって行われてきた.ここがまず他の「ま ちづくり」ではなかなか実現しておらず,違いを生み だす要因となっている.例えば筆者が前回調査を行っ た彦根は多くの都市がそうであるように,どちらかと いえばイニシアティブを握っていたのは行政であった.

商店街の改革や整備などはあくまで行政が仕切ってい たといった感があり,民間側が積極的に働きかけたと いうような話はこれといって得られなかった.聞き込 みを行った店主や後述する

NPO

法人の方々など長浜 の人々は口を揃えて彦根は行政が主体であると発言し ているし,彦根城という観光資源に胡座をかいている とまで言う人もいた.対して長浜の人たちからは常に いまの長浜の活気は自分たちがつくってきたという自 信のようなものが話の中から感じられ,自分たちのや りたい方向へと梶を取ってきたのだということが伺え る.商店街に関して一番よく知っているのは当然商店 街に携わる人である.したがって彼らがどれだけ積極 的に発言し,予算を獲得する方向へ動き,彼らの意見

写真1 黒壁ガラス館

写真2 ゆう壱番街東側

写真3 ゆう壱番街西側

がどれだけ反映されるかが商店街再生に関して大きな 鍵となると考えられる.

 また,長浜には「NPO法人 まちづくり役場」と いう団体が存在し,NPO団体という性質上,政策や 戦略の間で,観光客,店主,行政,住民といった様々 な立場の人々の間に立って仲介をするという,営利目 的では難しい人々をつなぎフォローするという役割 を担っている.「長浜まちづくり株式会社」が様々な 民営企業が存在する長浜におけるまちづくりのまとめ 役として機能しているが,こちらは数多の営利企業の トップといった役割なのに対し,まちづくり役場はよ り訪問者や住民・店主などの立場に近い草の根的フォ ローを行っている.具体的には観光客向けに長浜の観 光マップ「長浜まち歩きマップ」を作成し,毎年改訂 して常に最新の情報を提供する努力をしている,さら に各種イベントを毎年開催したり,メディアなどを通 じて長浜の魅力を積極的にアピールしてさらなる訪問 者を狙い,フリーマーケットや市場の設置を通じて地 元の人々への商店街の利用を促すなど,外部からの観 光客にとっても,地元の人々にとっても飽きさせない,

絶えず変化しつづける魅力のあるまちにするための努 力を継続的に行っている(NPO法人まちづくり役場

2009).常に慢心せずあらゆる方面の人々にとって良

いまちであるために取り組みを続けることは非常に重 要であることは自明のことではあるが,そのためには 急速な変化の難しいハードウェア的側面よりも色々な 試行が可能なソフトウェア面での様々な継続的取り組 み・絶えないまちづくりの自己研究の重要性を認識さ せられる

 何度か触れてきたように,長浜の起源は城下街であ る.店主やまちづくり機関の方々への聞き取りからも,

現地の人々にとって「秀吉」は非常に大きな意味あい

をもつ存在であることは窺えたし,人々の強い希望で 長浜城の再建が達成されたことからも城は長浜にとっ て重要な存在であったことがわかる.しかし,城は早々 と解体され,城下町であった期間が非常に短かったこ ともあってか,人々にとっては城下町である以上に「商 人の街」という意識が強いようで,長浜のまちづくり の取りくみは特に「城下町」ということを前面に押し 出してはいないし,観光客を呼んでいるのも昨今の歴 史ブームによるような「城下町を訪れるため」という わけではない.むしろまちづくりを推し進めさせたの はなによりも「商人の街」としてのプライドが大きかっ たのではないだろうか.彦根と異なり城とはいっても 所詮戦後になって作られたものにすぎない.強いブラ ンド力を持つものではないがゆえに,かえって,例え ば「黒壁」「ガラス」「博物館都市」といったような旧 来のものにとらわれない,新しい発想を生む要因とな り,それが成功への鍵となったのかもしれない.長浜 は間違いなく「城下町」「秀吉のまち」であり,それ らも長浜を語るうえで欠くことのできない要素である ことに違いはないのだが,逆に言えば長浜は「それだ けではない」「まちの復活の要因は城ではない」「前面 に押し出さない」という点が彦根や筆者の住む岐阜な どの他の城下町との大きな違いを戦略上でも見た目の 上でも生みだすこととなり,柔軟な発想のもとの復活 を推進させたのである.もちろん,その上で住民・店 主が主導となって積極的に行政や

NPO

などといった 各種団体と協力してロードマップを共有したことが大 きな成功要因となったのはすでに何度も触れたとおり である.

6 まち歩きマップ(一部)

ドキュメント内 彦 根 長 浜 (ページ 42-48)

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