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道     よ

ドキュメント内 『宗教研究』176号(37巻1輯) (ページ 111-121)

と  う 

Ill   (111) 

コ 究極 

その点から云えば︑主体そのものが黙したまま で 法身のはたらきをなす︵ 神 不言の化︶︑と云え るであろう︒ 

第五に︑仏体は︑事実上法身と応身との融合し たものである︒言葉をかえて云えば︑理念と現実 と曳献 じたもので  ある︒法身と応身とは分かたるべきものでほ な それは︑云わば純粋連続の不連続と云 う べき ものであろう︒純粋  連続は︑不連続において始めてその実態に触れ ることができる︒この点に﹁大乗大義 章 ﹂に 現わ れている羅什の ︑ ︵ 9 ︶ ﹁妙行法性生身を真の法身となす﹂という仏身 観 の 反映を見ることができる︒ 

慧遠がこのように︑素朴ながらも鋭い思索 と豊 かな宗教体験において︑道の究極を追究したこと は ︑仏教的精神の  い 応身のはたらきを有し︑無縁の慈と云われる︒ しかしそのような仏体は︑もとより主体にっ な がっている︒従って  滞 情は融け︑また仏体にまみえることによって ︑ 宿業の迷妄が除かれる︑ということである︒ そ れば変広 き ね まりな  それ自身の明瞭な作用を有するものである︒ そ の 端的なあらわれは︑仏体の玄昔を聞くことによ って︑ 塵 累は消え︑  法身の究極なるものについてもまた︑同一の 観 念 が主張されて 

することにおいて︑自己性を離れた主体は ︑仏 体 そのものであ  徴は ︑自己の主体を通じて仏身が感知されると い︐ヮ 点で︑第一  ないという ヱ思味 で︑第二の特徴に結ばれている であろう︒ 

第四に︑このような仏体は︑たんに主体そのも のであり︑ ま  ooooooooo いる︒ともかくもここでは︑おのずからなるもの に帰 

ると考えられているのであろう︒従ってこの第二 一の 特  の 特徴にっながるし︑自己の主体はただちに 仏 体でほ  た 自己性を離れているというだけでほない︒ そ れは︑ 

︵ ︶﹁弘明集﹂巻石︑﹁ 答何鎮南 ︑ 釈 慧遠﹂大五二 ・㏄㏄の1 杖仁       ︵ ︶﹁老子﹂第六四章に ︑ 

  ﹁合抱の本は︑ 亀末 より 生ず ﹂   とあり︑抱きまわすほどの大木も ︑ 始めは小さな 芽よ り生ず ︑ということで︑合抱の二星 が ︑老子のこの ロ 莱に 関係ありい 

とすれば︑どの教えも︑根源は一つの芽にほかならな い︑という意になるであろうか︒ ︵ ︶﹁弘明集﹂巻石︑﹁沙門不敬王者論 体 極下隷 応 ﹂第四︑大五二・ ピ下 

     ﹁聖人は一を抱いて天下の式となる ﹂︵第二二章︶ やす ﹁苦の 一 を得たるものは︑天は一を得て以て清く ︑地 は 一を得て以て 寧く︑ 神は一を得て以て豆なり︒谷は 一 を 得て以て   盈ち ︑万物は一を得て以て生じ︑ 王 候は一を得て以て 天下の貞たり︒それ之を致すは一なり︒﹂︵第三九章︶ 

という︒ 

︵ ︶﹁老子﹂には大について︑ 

﹁ 吾 れその名を知らず︑これを 字 して道といい︑強いて これが名をなして大という︒・・・・・・道は大なり︑天も大 なり地も 

とハブ ︒ 

︵ ︶﹁弘明集﹂巻立﹁太宗不順化﹂第三︑大五二・㏄ つい ︵ ︶﹁老子﹂ 第 ‑ ハ章 

茄 ︶﹁老子﹂第一四章 ︵ rl. ︶﹁荘子﹂漢文大系 九 ︑斉物論第二︑三五頁 

︵は︶﹁弘明集﹂ 巻五 ︑大五二・ど下 ㍍じ回 右 

花 ︶﹁出三蔵記集﹂ 巻一 ︑﹁大智論 抄序 ﹂第二一 ︑大五五・㍉切戸ー㏄ 元 ︶前掲 書 ︑大五五・ お 1ぷ 臣 

︵㎎︶前掲 書 ︑大五五︐おや 

盧山慧遠における  道の究極 

︵ ︶﹁出三蔵記集﹂ 巻九 ︑﹁修行方便 禅 経紙 序 ﹂ 第 一四︑大五五・ひひ レ 

︵ 毬 ︶前掲 書 ︑大五五・③ 

︵㎎︶ 註 ︵ 巧 ︶参照 

茄 ︶ 註 ︵㎎︶参照 ガ ︶﹁老子﹂第一五章 

宛 ︶ 註待 ︶参照 

宛 ︶﹁出三蔵記集﹂番一 ︑﹁何 畳心序 ﹂第一一 ︑大五五・ SO 

︵ 舛 ︶ 註 ︵Ⅱ︶参照 

元 ︶﹁弘明集﹂ 巻五 ︑﹁ 答 何 南 ﹂︐大五二・おい 

死 ︶﹁弘明集﹂拳玉︑﹁朗報 応諭 ﹂︑大五二・お い 

万 ︶﹁広弘明集﹂善一五︑﹁ 仏出銘 ﹂大五二・おの 巨 

︵ 00 ︶岡君 

︵ ん ︶﹁広弘明集﹂養三 ︑﹁念仏三昧詩集 序 ﹂︑大五 一一・㏄の目口 

︵㏄︶﹁弘明集﹂巻立︑﹁沙門不敬王者論 体 極下乗 応 ﹂第四︑大五二︐㌣ や 

釘 ︶﹁老子﹂第十ハ 草 

お ︶﹁老子﹂第二九章 

お ︶﹁老子﹂第三九章 

菊 ︶﹁荘子﹂︑漢文大系 九 ︑﹁ 道海遊 ﹂第一︑六頁 お ︶ 同右 ︑ 一 頁 

宛 ︶周君︑﹁青物論﹂第二︑三九頁 

    

︵ 銘 ︶周君﹁養生生﹂第三︑三頁       ︵ 鍵 ︶﹁撫物に復帰す﹂というのが︑﹁老子﹂の第一 四章に出ているが︑意味はこの場合と全く異なって い   

菊 ︶この反対論者は︑﹁荘子 ‑ の ﹁人の生は ︑ 気の 聚まれるなり︒聚まれば︑すなわち 生 となり︑散ずれ 

  

なる﹂︵茂文大系 九 ︑﹁如此 遊 ﹂第二二︑一七頁︶ と い う 一文を引用して︑自分の立場の論拠となしている が ︑この文を 

用ゆる両者の態度には相違がある︒すなむち反対論者 は ︑死生を客観的に見てその集散離合を論じている が ︑﹁荘子﹂       は ︑そうではなく︑集散離合を正しく承認することに よって ︑ 反って死生の一如を自覚しょうとするもので ある︒ 

    ︵ 即 ︶﹁弘明集﹂ 巻五 ︑﹁沙門不敬王者論︑形 尽 袖下 滅 ﹂ 巻五 ︑大五二・ ぎ       谷ご 同右 あ ︶岡君︑しかし﹁荘子﹂の原典には︑ 

﹁それ大塊︑我を載するに形を以てし︑我を労するに 生 を 以てし︑我を伏するに老を以てし︑我を息するに 死 を 以てす ﹂ 

︵漢文大系 九 ︑﹁荘子﹂大宗師第六︑九頁︑および一八 頁 ︶ 

とあるっ 

  お ︶大患は︑﹁老子﹂第一三章に出ている︒   ﹁何をか大患を貴ぶこと身のごとしというや︒吾に大患 OO ある所以は ︑身 ありとなせばなり︒吾に身なしとなす にに及んで 

は︑ 吾に何の萬かあらん ﹂ 花 ︶前掲 書 ︑大五二・ ピの 

お ︶ 同右 ︑漢文大系 九 ︑﹁荘子﹂大宗師第六︑一 頁 

︵ 蝸 ︶岡君 

行 ︶﹁荘子﹂前掲 書 ︑斉物論第二︑二四二五頁 

︵ 穏 ︶本文九八頁参照 

︵ め ︶﹁出三蔵記集﹂若一五︑大五五・ Po の C  ﹁高僧 伝 ﹂巻末︑大五 0. び のの ﹁仏祖統紀﹂養二六︑大四 九 ・ 串の 

︶此の声︑伝わらず "  ﹁仏祖統紀﹂には﹁法性論 ﹂一四 篇 とある 

釘 ︶﹁高僧伝﹂巻末︑大五 0. ひ む 下 ﹁歴代三宝 紀 ﹂ 巻セ ︑大四九・ お ︑﹁仏祖統紀﹂ 巻 二六︑大四九 いの Ⅰ 肛 

︵ フ ︶﹁出三蔵記集﹂ 巻 一五︑大五五・ Poo の﹁高僧伝 ﹂ 巻 ‑ ハ ︑大五 0. のお 下 

‑ 睡︶﹁出三蔵記集﹂︵大五五︐おの㏄︶には︑慧遠の 教学上の特色を︑無生実相玄玄︑般若中道芝 妙 ︑ 即 色 聖意二桃︑緑門 

板銀 之要 ︑と述べている︒ 

︶﹁広弘明集﹂では︑﹁ 夫れ 三昧と称するは何ぞ ﹂で始まり︑﹁ 楽 邦文壇﹂では︑﹁念仏三昧とは何ぞ﹂ となっているが︑ 

標題は何れも︑前者が﹁念仏三昧詩集 序 ﹂で︑後者が ﹁念仏三昧 詩序 ﹂である 

盧山慧遠における 道の究極 

︵ 防 ︶﹁広弘明集﹂養三 ︑ ‑ ㏄︶﹁広弘明集﹂啓一五︑ ‑ 辞 ︶ 同 有 ‑ ㏄︶ 同 ︶の ぺ の 1 ︶ 窩卜 

菊 ︶﹁大乗大義 草 ﹂大四五  大五二・のの︶㏄﹁ 楽 邦文 類 ﹂養ニ︑大四七・︶のの卜引 周文 は︑ 二つの典拠を案配してかかげた︒ 

﹁ 仏影銘 ﹂大五二︐あべの 

ト ㏄㏄の 

115   (115) 

後藤光一郎 

この労作は著者が昭和三十六年東京大学文学部に提出 した 学  位論文の主要部分で︑我国聖書学の分野で最高の水準 にある︒ 

究 ﹂を昭和二十九年に公刊し︑旧約 学 における最大の 

㈹メシア説のうち最後のメシア説の範時に属する見解 

  

脈の中におき︑他の部分との関聯という観点から 見  た ︒この場合メシアはダビデ的映像ではなく﹁ダビデ には期待され行なかった任務を特異な方法でなしとげ  いて︑従来﹁ 僕 ﹂について言われた 田 歴史的人物税︑㈲  これに先だって著者は﹁苦難の僕11イザヤ書五三七 難問の 一 

批評に こで出来 基 

   を 打出し 

直してい  た 後に ︑  自伝説︑  早 の 研 

︑タ ビデ的メシアに取って代らんとするかに見える﹂ 終 大的メシ  アと 考えられている︒ ﹁第二 イ ザヤ研究﹂では︑上述の成果を第二イザヤ全体 の文  る ︒即ち四つの﹁僕の歌﹂を通じて僕の映像は一貫し ているわ  けではなく︑第一と第四はメシアだが︑第二と第三は 預言者 自  穿 と解される︒四つの僕の歌乃至は第四の歌だけを 文   

離す多くの試みに対して︑むしろそこにこそ第二 イザ ヤの 思想  中沢 治樹著 ﹁第二 イ ザヤ研究 

ヒ 

書 

=@@ 

‑ 

ヰ 平 

の 要があるので︑それだけを 切 離すことは不可能であ ると反駁Ⅲ 

する︒本書の目的は︑この僕の歌の﹁整合性・本質的 連   

厳密な原文批判に 塞 いて明らかにすることにあった と 三 = 口︐マんる ︒ い  著者は序論で右のように﹁問題と方法﹂を明らかにす ると 共  に ︑﹁歴史的背景﹂と﹁文学的構成﹂についてふれて いる︒ ま  ず ︑第二イザヤに﹁ 王 ﹂についての言及がないことは その年代  の上限を示す︒第二イザヤの活動は従って 捕四 期後半 に 属し 五  三九Ⅰ八のクロスによるバビロンの陥落を境にして 二 期 に分け 

られ︑イザヤ書第四 | 四八章と四九 | 五五章が夫々 上の二つ 

の時期に相当する︒時間を示す副詞と動詞の時制︵ 完 了 未完了  制 ︶が五三九Ⅰ八を境にした時の推移を示している と 解きれ  る ︒預言をまとめたのは第二 イ ザヤ自身で他の預言者 とちがっ  て捕 因地の緊迫した状況からそれ 程 自由に語り得なか っ たと 考  えられる︒そこで︑ある程度始めから文字で書き記し ︑回覧 し  たと思われ︑彼はその材料を︑のちにみずから 推 敵し ﹁ キ 笘 末口 件 MW Ⅰ﹂ 

を 保った比較的長い単元にまとめあげたと考えられて いる︒ 

天上のヤハウェの王座のまわりに多くの議官が集まり 会議を  ひらいているという劇詩的構成をもつ 四 0. 一| 一一 序曲にム日  まれる三なモチーフは︑前半の終曲四八・一セー二三 及び全体   の 終曲五五・六 |一 三に相呼応する︒この枠の中に第 一部︵ 第  一期︶一二単元︑第二部︵第二期︶ 六 単元が夫々第一 部 ・クロ  スと イスラエル︑第二部・ 撲 とイスラエルの関係をめ   

出 に含まれるモチーフを展開する︒各単元は一つ又は それ以上  の 主題をもち︑多少章節は前後するが大体で ソラテ ・ クストの 

ドキュメント内 『宗教研究』176号(37巻1輯) (ページ 111-121)

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