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ドキュメント内 『宗教研究』176号(37巻1輯) (ページ 81-89)

   参 

の 

ま  y@  a 

  

ざ  )  界  る 

共  存  ぁ  客体  て、 

  

(82)  82 

七 

生の哲学から出発して実存哲学に深い理解を示 しつつも︑その﹁克服﹂︵ C ヴの Ⅰ 毛ぃ コリ 仁コ ㎎︶の必然 性 ︑不可避性を強  諭 する ボルノゥ もまた︑実存の立場を︑﹁人間 という現存在が︑無気味で守られていないとい ぅ ことを余すところ 

なく徹底的に顕わにした﹂︵ 4 ︶哲学として捉える︒ 

実存主義は︑折口学としてまじめにとりあげる︒ へ き 連動であり︑その中にはわれわれの現代の精神 的 危機が表現きれ  ているものとして見過すべきでもなく︑否定す︒ へ きでもない︒またしかし︑それはただわれわれ の 現在の危機の表現 ︵ 毬 ︶ であって︑その危機の解決︵ こ Ⅰ 潟す三 3 目とお ︶を意味してはいないのである︒ 

従って﹁現代の精神的状元﹂︒ ︑ァ ︵ " 4  ︶ は ヤスパースも 分 析 するごとく︑﹁人間の全面におおわれた不安﹂ ︵Ⅰのすの コ のの 目 ぬの ま ︶ 卜卜 

よってのみ特徴づけられており︑ここからのみ︑ 実存主義の誕生も正しく理解され ぅ るのである ︒しかし実存主義に  ベルジャーエフは︑一面においてフーバーとは 異なり︑ハイデッガーのごとき︑不安と顛落の 中 で︑先駆的に死を 

決意することによって本来的な自己存在に還 帰 する立場を否定してはいない︒しかしその実存の ま場には︑人格的な  他者や汝との間に存在する 愛 と人格の出合いは 少しも語られず︑従って世界を通しての﹁安らい ﹂ ホオ 亡ずの︶が存在し  ないとする点でほ︑フーバーに共通した批判を するのである︒そのことはハイデッガーにおいて は︑ ヤスパースの い  ぅ 無責任社大衆的現存在の立場を残すものであ り ︑その﹁実存なき現存在﹂︵ し 拐のぎ︒ ずコ の 鱗独 ㌔   

だ 自己存在と客体化の中にとどまっていて︑ 人 

えられた現存在は ︑斬 らしい人格的実存の共同の  格 的な 汝 との世界が十分現れていないとべ ル ジ ャ 

世界の中でのみ︑本来性を回復し︑そのことの 中 で﹁存在﹂の世界  |エ フ は みる︒ 

この人間を﹁守られていない﹂︵目口的のす 0 ︵㏄の コり ものとして︑﹁ 被投性 ﹂︵のの 毛 0 〜 す 手色︵︶におけ るものとして︑ 捉 

もすべて 顕 わになるとするのである︒ 

     

「出合い 」と「安らい」 

これは通常︑ニヒリズムとして特徴づけられる ﹁ 無 ﹂︵ イ ア ︵の︶とは全く異ったものであり︑ あらゆる﹁否定﹂ 

︵く 三斗巨晶︶の中にありながら︑一つの﹁ 絶 射的なもの﹂ 2% 卜芽 す汀 ︶を見出して来たの である︒それゆえに︑ 

ヤスパースは︑﹁実存すること﹂八円 甑の ︵ @ の ﹁の 口 ︶ と ﹁超越すること﹂︵ ゴ目総 の 口日 のおしは︑互いに 唯 一 不可分の過程にお ︵ 磁 ︶ いてのみ可能であることを明らかにしているので 

  

の 出合い﹂の場所で 

もある︒ 

しかしハイデッガーをその 種 として実存哲学は ︑ ﹁このような絶対的なものを︑自己自身の魂の 最も内なる中核 に  おいてのみ︑人間の最も希望のない孤独化の中に ︶︵ う らのⅡ す 曲目ヒコ㏄ ム ㏄の㏄︵のコ ソト のⅡの ヨ の曲Ⅰ コけコ 内廷 の の目の コ のの ア のさの中に  見出している﹂︵㏄︶点にこそ︑その限界が存在し ぅ るとボルノウ は捉える︒そこでこそ人間の意義あ る 生存は︑いかに 実  存的 体験の危機の中にあり ぅ るとしても︑孤独 化を超えて探究されね ば ならない︒ 

その克服の方向は︑実存の哲学によって︑排除 された生と世界の哲学の再検討の立場︑それへの 復帰の方向に一つ  の 活路を見出しうるとポルノ ヴ はいう︒それは︑ 実存の立場に充ちている﹁個々の実存の孤独﹂ ︑﹁希望のない孤独﹂ ︵㌔︶ ﹁内面的な自我の実存哲学的孤立化﹂︵日のの性の︵の コ お臣 ono づ圧ぉ訂 ㌃三 ヨコ 的 ︶からの脱出とし て ︑実存を基底にし  つつも︑実存が否定したところの自然︑文化︑精 神の領域に新しい生命を与えることを意味する ︒それはまた︑実存  哲学に先立つ生の哲学の基盤であり︑孤独より 共同の関係に︑理性をも含めて遣帰することに 外 ならな  実存哲学においてなおざりにきれている生の他 の 領域として︑信仰︑愛︑感謝すべき信頼︑未来 への希望と確信に  充ちた勇気等が考えられ ぅる 領域である︒実存 的な孤独の束縛を解き放し︑人間を支えている 連 関を人間の外の現実 

83  ( ㏄ 

の中に︑自己本来の人格の内奥の核心に︑人間の 最後の支えを見出そうとしているゆえに実存 と して捉えられるので ハ ㏄︶ ある︒  あっては︑この重圧的な気分に安らっているの ではなく︑あらゆる外的な﹁支え﹂︵ 由 已むの 崩 壊の中で︑自己自身 

にまでとりもどすことの中に︑脱出の方向があ る ︒そのような現実は︑自己以外の人間や︑人間 社会やまたその 社 

会を形成してきた組織をも︑それとしてあげ う るし︑また精神的な世界の力︑人間に意味と内容 を 与える永久的な何 

かや︑信頼すべきものにおいても示し ぅる ︒ 

﹁このように実存哲学がぶつかって︑そこで自ら を 越えて突き進まざるを得なくなる限界は ︑絶 望から新しい信仰 ハ︐ハ 5 ︒︶ ︵ お ︶ へ︑﹁敬虔﹂︵ 臼ぎ 荘内方 の ︵︵︶ へ向 わねばならない 地点にある﹂とされる︒ 

人間は自己の究極の内面性の中に引きこもり︑ 世 界は世界の在り方に委せるということを長く続 けることはできな 

い ︒従って︑これは︑人間は決して実存の傍を皿 バ 関心に通り過ぎることはできないが︑またその 中で立ち止り︑頑固 

にしがみついていることはできないことをも示唆 するのである︒ 

それほ︑まさに﹁実存的に切迫した人間存在の 非守護性︵ 口 ㏄ 宇 ︒おのコア︒ の体験から︑いま や ﹁守られている﹂ ︵ 7 5 レ ︵のの サ oH 的のコア 住 ︵︶とい︐ ワ 新しい感情への道である ピ それはしかし実存の体験を止揚するものでは なくて︑その体験を 

通して︑そこから脱出︵申す ア の 印 ︶をはかり︑ 実 存の拡張︵ 申 毛色 目 コ もとして︑更に高い地 平において展望を広 

くする境地の開拓であって︑この新しい安心は 何の疑いもない素朴な人間の安全感ハ組 臼 のぺ プ の ことは当然区別しな 

ければならないのである︒ 

このように︑ポルノ ウ においても︑実存の孤独化 の 批判を通して︑その克服の方向 は ︑﹁出会い﹂ ︑ ﹁われと 汝 ﹂ の  実存的共同︑﹁存在への信頼﹂︵のの ビ 留の︵︵ ぺ au 臼 ︶にあると︑肯定的な生と世界への再建を︑実存 の 体験を通して︑ 現 ハ % ︶ 実の世界に探究することに求められた︒このこ とは︑すでにヤスパースの﹁実存的交わり﹂ 宋バ ‑ の 

︵  0  日 ノゴ の ト ‑0  ハ 目 Ⅰ日 ソ ⅡⅠ @ ト目 円り P 一 ︵ じ ︶ 寸緊邑 における他者との関係の中にも示唆さ れている︒﹁ただ私は交わりにおいてのみ他の実 存の真理を見る﹂と 

  いわれる︒またハイデッガーにおいても︑その 転 向 ︵木のアト③といわれる﹁ 脱存 ﹂︵已イ a@ の ︵の㌧も す なむち﹁存在の明  るみに 士ユ つこと﹂八ロ い の臼のずの コぎ宙 ③日 方はア ︵ ニコ ㏄口のののの ぎ ③という﹁存在﹂が﹁思惟する﹂ 立 場 においても︑新し 

巳 ) 84 

「出合い」と「安らい」 

註 ︵ ︶ K. マルクス﹁経済学・哲学手稿 ヒ ‑ 大月 版 ︶九九 |一 四頁 

︵ 2@  岩崎武雄コ弁証法﹂ 一 三六頁参照 

同 コ 現代の人間観ヒ 七 頁 

協合理作﹁ 人 問と倫理﹂四三頁 

下 p‑ のセつ の コ ずハ ふ ︵︶ だ ︶・ + : E* Ⅰ ‑@‑ のコ a‑t@0 コ ︵ ダミ Od の︵コノミ㏄ コ ︒︶ 0% ︵ 粗 日光︶九八頁 

︵ ︶ 本 ・ ぎ毛ぎアエ の 日構 的の ︒おお︵沖田渕︶三七頁 

︵ ︶拙論﹁マルクス主義と実存主義の対立﹂︵新潟 大学教育学部高田分校紀要第 号一九六一年十二 月 ︶  この問題についての批判をなしたものとして次のもの がある︒ 

ハリ ・ こ由オ の り ㏄ 巴 メ正洋 りコ ヰ田 ‑ ずト 臣 00 仁プ 円 い Ⅰ メ 笘の目 目 の 曲 ︒ ト 曲㏄ 

の ・Ⅰ 仁寸の ぃ田しずいの ト の︵ び nE コ いものⅡ せの Ⅱロロ ロ ︵︵︒︶のり 印 

目 ・Ⅰの 敵す弍 Ⅱ 空 Ⅰ︒Ⅱ パ掠 ︵の 目 ︵㍗ 一 が日 Ⅰ 七の 

Q. ミ り コ 隼ののま 仁 しガ コむ すのⅡ 年ず巴 Ⅹ @ の ︵ e コいつず岸 ︒の せアず ︒ ト のり 印 

ナ H,. Ⅲ 一 一 u‑ ︵︵〜 ぅニプミ の︵ @w ユ の ‑ 目 @@ ︵︵︶ ‑w の︵ 吊 〜か つ 0‑ 三 @@0 ト アト一つ下一の 

パ ・ ロハ の も の 弓 ㏄ セの Ⅱ コけコ円 ︵ 仁コ 色目日毎 の ︵ つ めⅡ 臣缶 百円︵ ‑ コ目 コの Ⅱ Ⅱ のぎ︒ ト のり う 

お ト右メ のすけ 才 Ⅱ宇土 Ⅱ ヒピ トリコの コ串 Ⅰ 日 づ ︵ Ⅱの目の 住 日 セ ︒ トの ㏄   

Ⅱ・しコ ココ の 且れキず ︵ 田監モい っ年の iv 目 ずけ 由 巨 いづ ず ︒ ト のト ㏄ ︒ト の下の 

Z. めの Ⅱ 隼 ㎏ ぃ セ の 一ド セり Ⅱ セが再隼 ⅡⅡ eo 年 日 ︒ ト の 曲 ︒  い ﹁安らい﹂の光が現れている︒しかし ぶかノク も ︑それは︑実存が人間をとび越えて﹁存在 そ のもの﹂や﹁超越﹂ 

と 関係するのではなく︑あくまで﹁われと 汝 ﹂ の ﹁ 出ムロい ﹂の世界︑︵ G. マルセル︑ L. ビン スワンガーにおいて︑ 

フーバーにおいて示唆されるところの︶愛の世界 を 通してのみ︑﹁安心﹂の世界に出ることの 可 能 性を実存主義の克 ‑ う ろ @ ︶ 服の方向として考えるのである︒ 

この﹁安らい﹂の究明は次の機会に捉えよ︐ ヮ ︒ 

85  ㏄ ) 

小 0 ︶ 

ハー︶ 小 ノ Ⅰ 20 2 ︶ ︵ 94 3 く リ ン 

     

19   18   17  16  15  14  13  12  11   10 

     

ヲ白 

㏄ 仁 すのⅡ 弔 小曲 笘の コト Ⅰ︵ つ ぎ︒ ト 0% ぃ 

n.. イ ・〜の @ ︵ @@n@ ︵円︶ひ @H@@H 目 〜 ‑ 〜の cc ゐメヲト の 一 @@@ 笘の︵Ⅰ︶ +@ 田 0@w0h@+@@@ の ︒ ト 0% ヒ 

由 ・ 内 けず 三 ㏄織のぬ コ目 コ ヨぎ驚日之ピ 圧の︒︶の き 

Ⅰ・㌧・の 曲 Ⅱ︵Ⅱ り 亡 " ⅡⅩぁヰ つゴ田 ‑ の日 ee ㏄円仁 目ず 白日 Ⅰ︶ い ぁ Ⅱ ヒ ㊦ " ト の下ウ 

耳目のざの一匹㎡ 一 円目サミ 缶臼ソ 立目 宙 出の 日仁 ㏄︒︶の本の︒の・のⅡ 

自然と恩寵の問題︵ パ ・し い ユア・Ⅱ・㏄目ロ ロ の﹁ ︐ト のの じ 

信仰と実存論的啓示理解の問題︵ バ ・ し曲 〜︵ ア ・ 力 ・ロ田︵ 日 の コ日 ヲ︐ト のりの︶ 

神学的人間学の問題 ‑ パ ・㏄の︵︵ ア ・Ⅱ Q0% ぃ ︵︵の ロ ︒︶ oNo   

Ⅱ・ 呂り @ 目 日 いコ目 Ⅱ ポずド ︒ ロぃ ㌧ す目 の ㌧ ずげ ずサ コ隼 @ 的 年 ト 円 トや ︒ⅡのⅠ 卜  巾 ・ エ 四二の ヨ笘コ目 Ⅰの コ のの臣の ユ ののⅡⅡ ‑ のヰ ㊦ 目 ︵ ‑ 主 ‑ の 目白 の ︒ トの印   巨坦 Ⅱ り三 い り㏄㌧ す臣 の で ゴ ぽの 曲 Ⅰ げ Ⅹ ずヰ 目 ce トの Ⅰ 肝 ︵ 舟肪 輌 ・ 刮闘理 ︶ 十  之 ・し音吐 ヒお ヌ 巳村 下白土日の目﹁の 一 ︵ 印 ㌍ 庄の オ ︵の ︐ お ㌍︵ キ Ⅰ 刊 ︶  の ・ パ ‑ の Ⅱ オ ㏄ 幅 pp ﹁ 口 Ⅱ コ ︵ 毛 の年のⅠ 10 ⅠのⅡ︵ ののぃヨ臣目 う 窯の坦﹁の ︵ ガの ㏄ L.H コ ︒ の  の ・ ︵ ト 一 @@@q ︶︵ @@ ㏄ u@D@ ︵ レ @@ @Q@@@ の D@ @@@ ︵ ︵︵︶ @@@‑ ︵ の @ メヌ @@@@ ︵︶︵ m@ Ⅰ り ︵ @. と︑Ⅰ・︒の・ ト り 切 Ⅱ す 山山口 せゲ の・ し肚 ㏄ Ⅰ す 三口 &.1 ︵︵︒の・︶ の 

︶ b@ 宙 ロ口 せ Ⅱ︒の・ 憶 

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北森喜蔵﹁神の痛みの神学﹂ 

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㊦・ パ @ の ﹁ オ の拍の ぃ Ⅱ 年 トハ Ⅱ 甜 ガロ のⅡのの的の コセくぃ Ⅱ︵︒ ト の下の 

匡 ・し手 浅 ‑ し舘下 ニ 日 詣 の 鼠り 吊目 ︒︶のちの︵ 遥師 卍ご 九七頁 

之 ・ ロの 缶 ㎏ い の v: ぎ田 ・ フ 〜 ト ︶ す @ 宙 ・ づ ︒の㏄  トの帝  頁 

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ドキュメント内 『宗教研究』176号(37巻1輯) (ページ 81-89)

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