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共 存 ぁ 客体 て、
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七
生の哲学から出発して実存哲学に深い理解を示 しつつも︑その﹁克服﹂︵ C ヴの Ⅰ 毛ぃ コリ 仁コ ㎎︶の必然 性 ︑不可避性を強 諭 する ボルノゥ もまた︑実存の立場を︑﹁人間 という現存在が︑無気味で守られていないとい ぅ ことを余すところ
なく徹底的に顕わにした﹂︵ 4 ︶哲学として捉える︒
実存主義は︑折口学としてまじめにとりあげる︒ へ き 連動であり︑その中にはわれわれの現代の精神 的 危機が表現きれ ているものとして見過すべきでもなく︑否定す︒ へ きでもない︒またしかし︑それはただわれわれ の 現在の危機の表現 ︵ 毬 ︶ であって︑その危機の解決︵ こ Ⅰ 潟す三 3 目とお ︶を意味してはいないのである︒
従って﹁現代の精神的状元﹂︒ ︑ァ ︵ " 4 ︶ は ヤスパースも 分 析 するごとく︑﹁人間の全面におおわれた不安﹂ ︵Ⅰのすの コ のの 目 ぬの ま ︶ 卜卜
よってのみ特徴づけられており︑ここからのみ︑ 実存主義の誕生も正しく理解され ぅ るのである ︒しかし実存主義に ベルジャーエフは︑一面においてフーバーとは 異なり︑ハイデッガーのごとき︑不安と顛落の 中 で︑先駆的に死を
決意することによって本来的な自己存在に還 帰 する立場を否定してはいない︒しかしその実存の ま場には︑人格的な 他者や汝との間に存在する 愛 と人格の出合いは 少しも語られず︑従って世界を通しての﹁安らい ﹂ ホオ 亡ずの︶が存在し ないとする点でほ︑フーバーに共通した批判を するのである︒そのことはハイデッガーにおいて は︑ ヤスパースの い ぅ 無責任社大衆的現存在の立場を残すものであ り ︑その﹁実存なき現存在﹂︵ し 拐のぎ︒ ずコ の 鱗独 ㌔
だ 自己存在と客体化の中にとどまっていて︑ 人
えられた現存在は ︑斬 らしい人格的実存の共同の 格 的な 汝 との世界が十分現れていないとべ ル ジ ャ
世界の中でのみ︑本来性を回復し︑そのことの 中 で﹁存在﹂の世界 |エ フ は みる︒
この人間を﹁守られていない﹂︵目口的のす 0 ︵㏄の コり ものとして︑﹁ 被投性 ﹂︵のの 毛 0 〜 す 手色︵︶におけ るものとして︑ 捉
もすべて 顕 わになるとするのである︒
「出合い 」と「安らい」
これは通常︑ニヒリズムとして特徴づけられる ﹁ 無 ﹂︵ イ c ア ︵の︶とは全く異ったものであり︑ あらゆる﹁否定﹂
︵く % 三斗巨晶︶の中にありながら︑一つの﹁ 絶 射的なもの﹂ 2% 卜芽 0 す汀 ︶を見出して来たの である︒それゆえに︑
ヤスパースは︑﹁実存すること﹂八円 甑の ︵ @ の ﹁の 口 ︶ と ﹁超越すること﹂︵ ゴ目総 の 口日 のおしは︑互いに 唯 一 不可分の過程にお ︵ 磁 ︶ いてのみ可能であることを明らかにしているので
の 出合い﹂の場所で
もある︒
しかしハイデッガーをその 種 として実存哲学は ︑ ﹁このような絶対的なものを︑自己自身の魂の 最も内なる中核 に おいてのみ︑人間の最も希望のない孤独化の中に ︶︵ う らのⅡ す 0 曲目ヒコ㏄ ム 0 ㏄の㏄︵のコ ソト のⅡの ヨ の曲Ⅰ コけコ 内廷 の の目の コ のの ア のさの中に 見出している﹂︵㏄︶点にこそ︑その限界が存在し ぅ るとボルノウ は捉える︒そこでこそ人間の意義あ る 生存は︑いかに 実 存的 体験の危機の中にあり ぅ るとしても︑孤独 化を超えて探究されね ば ならない︒
その克服の方向は︑実存の哲学によって︑排除 された生と世界の哲学の再検討の立場︑それへの 復帰の方向に一つ の 活路を見出しうるとポルノ ヴ はいう︒それは︑ 実存の立場に充ちている﹁個々の実存の孤独﹂ ︑﹁希望のない孤独﹂ ︵㌔︶ ﹁内面的な自我の実存哲学的孤立化﹂︵日のの性の︵の コ お臣 ono づ圧ぉ訂 ㌃三 % ヨコ 的 ︶からの脱出とし て ︑実存を基底にし つつも︑実存が否定したところの自然︑文化︑精 神の領域に新しい生命を与えることを意味する ︒それはまた︑実存 哲学に先立つ生の哲学の基盤であり︑孤独より 共同の関係に︑理性をも含めて遣帰することに 外 ならな 実存哲学においてなおざりにきれている生の他 の 領域として︑信仰︑愛︑感謝すべき信頼︑未来 への希望と確信に 充ちた勇気等が考えられ ぅる 領域である︒実存 的な孤独の束縛を解き放し︑人間を支えている 連 関を人間の外の現実
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の中に︑自己本来の人格の内奥の核心に︑人間の 最後の支えを見出そうとしているゆえに実存 と して捉えられるので ハ ㏄︶ ある︒ あっては︑この重圧的な気分に安らっているの ではなく︑あらゆる外的な﹁支え﹂︵ 由 已むの 崩 壊の中で︑自己自身
にまでとりもどすことの中に︑脱出の方向があ る ︒そのような現実は︑自己以外の人間や︑人間 0 社会やまたその 社
会を形成してきた組織をも︑それとしてあげ う るし︑また精神的な世界の力︑人間に意味と内容 を 与える永久的な何
かや︑信頼すべきものにおいても示し ぅる ︒
﹁このように実存哲学がぶつかって︑そこで自ら を 越えて突き進まざるを得なくなる限界は ︑絶 望から新しい信仰 ハ︐ハ 5 ︒︶ ︵ お ︶ へ︑﹁敬虔﹂︵ 臼ぎ 荘内方 の ︵︵︶ へ向 わねばならない 地点にある﹂とされる︒
人間は自己の究極の内面性の中に引きこもり︑ 世 界は世界の在り方に委せるということを長く続 けることはできな
い ︒従って︑これは︑人間は決して実存の傍を皿 バ 関心に通り過ぎることはできないが︑またその 中で立ち止り︑頑固
にしがみついていることはできないことをも示唆 するのである︒
それほ︑まさに﹁実存的に切迫した人間存在の 非守護性︵ C 口 ㏄ 宇 ︒おのコア︒ @ の体験から︑いま や ﹁守られている﹂ ︵ 7 5 レ ︵のの サ oH 的のコア 住 ︵︶とい︐ ワ 新しい感情への道である ピ それはしかし実存の体験を止揚するものでは なくて︑その体験を
通して︑そこから脱出︵申す ア の 印 ︶をはかり︑ 実 存の拡張︵ 申 毛色 8 目 コ もとして︑更に高い地 平において展望を広
くする境地の開拓であって︑この新しい安心は 何の疑いもない素朴な人間の安全感ハ組 臼 のぺ プ の @ ことは当然区別しな
ければならないのである︒
このように︑ポルノ ウ においても︑実存の孤独化 の 批判を通して︑その克服の方向 は ︑﹁出会い﹂ ︑ ﹁われと 汝 ﹂ の 実存的共同︑﹁存在への信頼﹂︵のの ビ 留の︵︵ ぺ au 臼 ︶にあると︑肯定的な生と世界への再建を︑実存 の 体験を通して︑ 現 ハ % ︶ 実の世界に探究することに求められた︒このこ とは︑すでにヤスパースの﹁実存的交わり﹂ 宋バ ‑ の
︵ 0 日 ノゴ の ト ‑0 ハ 目 0 Ⅰ日 ソ ⅡⅠ @ ト目 円り P 一 ︵ じ ︶ 寸緊邑 における他者との関係の中にも示唆さ れている︒﹁ただ私は交わりにおいてのみ他の実 存の真理を見る﹂と
いわれる︒またハイデッガーにおいても︑その 転 向 ︵木のアト③といわれる﹁ 脱存 ﹂︵已イ a@ の ︵の㌧も す なむち﹁存在の明 るみに 士ユ つこと﹂八ロ い の臼のずの コぎ宙 ③日 方はア ︵ ニコ ㏄口のののの ぎ ③という﹁存在﹂が﹁思惟する﹂ 立 場 においても︑新し
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「出合い」と「安らい」
註 ︵ l ︶ K. マルクス﹁経済学・哲学手稿 ヒ ‑ 大月 版 ︶九九 |一 0 四頁
︵ 2@ 岩崎武雄コ弁証法﹂ 一 三六頁参照
同 コ 現代の人間観ヒ 七 0 頁
協合理作﹁ 人 問と倫理﹂四三頁
下 p‑ のセつ の コ ずハ ふ ︵︶ だ ︶・ + : E* Ⅰ ‑@‑ のコ a‑t@0 コ 0 ︵ ダミ Od の︵コノミ㏄ コ ︒︶ 0% ︵ 粗 日光︶九八頁
︵ 3 ︶ 本 ・ ぎ毛ぎアエ の 日構 的の r ︒おお︵沖田渕︶三七頁
︵ 4 ︶拙論﹁マルクス主義と実存主義の対立﹂︵新潟 大学教育学部高田分校紀要第 6 号一九六一年十二 月 ︶ この問題についての批判をなしたものとして次のもの がある︒
ハリ ・ こ由オ の り ㏄ 巴 メ正洋 りコ ヰ田 ‑ ずト 臣 00 仁プ 円 い Ⅰ メ 笘の目 目 の 曲 ︒ ト 0 曲㏄
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Q. ミ り コ 隼ののま 仁 しガ コむ すのⅡ 年ず巴 Ⅹ @ の ︵ e コいつず岸 ︒の 0 せアず ︒ ト のり 印
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Ⅱ・しコ ココ の 且れキず ︵ 田監モい っ年の iv 目 ずけ 由 0 巨 いづ 0 ず ︒ ト のト ㏄ @ ︒ト の下の
Z. めの Ⅱ 隼 ㎏ ぃ 0 セ @ の 一ド セり Ⅱ セが再隼 ⅡⅡ eo 年 0 日 ︒ ト の 曲 ︒ い ﹁安らい﹂の光が現れている︒しかし ぶかノク も ︑それは︑実存が人間をとび越えて﹁存在 そ のもの﹂や﹁超越﹂
と 関係するのではなく︑あくまで﹁われと 汝 ﹂ の ﹁ 出ムロい ﹂の世界︑︵ G. マルセル︑ L. ビン スワンガーにおいて︑
フーバーにおいて示唆されるところの︶愛の世界 を 通してのみ︑﹁安心﹂の世界に出ることの 可 能 性を実存主義の克 ‑ う ろ @ ︶ 服の方向として考えるのである︒
この﹁安らい﹂の究明は次の機会に捉えよ︐ ヮ ︒
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自然と恩寵の問題︵ パ ・し い ユア・Ⅱ・㏄目ロ ロ の﹁ ︐ト のの じ
信仰と実存論的啓示理解の問題︵ バ ・ し曲 〜︵ ア ・ 力 ・ロ田︵ 日 の コ日 ヲ︐ト のりの︶
神学的人間学の問題 ‑ パ ・㏄の︵︵ ア ・Ⅱ Q0% ぃ ︵︵の ロ ︒︶ oNo
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