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このようなハイデッガーの現存在における実存の 立場は︑ブーバーに よ れば︑﹁独語的な現存在 ﹂︵ e ぃコ へコ ‑ のの 才 es し 舖のぎ︶として批判される︒
ハイデッガーの意味における﹁本来的﹂現存在と しての人間︑すなむち﹁自己存在﹂としての 人 間は︑
と 共に生きている人間ではなく︑自己自身との 交わりの中においての現実を知っているだけの 人 間 となっ
イデッガーの哲学は ︑ 神を失って孤独になった 人 間が ︑これまで度々再発見して来た人間学的な 闘い︑ 人
の 闘い及び存在者と人間との関係をめぐる闘いに 伐 って ︑ 別の闘い︑つまり︑自己存在との関係 における
在への闘いを提出したのである︒この闘いは︑ 自 已 に対する関係から超越を志向するにしても︑ それは 本
内部への沈潜であり︑その限り︑それだけで 完 全 であり︑それ自体ですでに絶対性にふれている ような︑
在も決して見出し得ないとフーバーは︑ハイデッ ガ ーの哲学の自己閉鎖性を捉えるのである 0 ﹁ 自 已 に対す 日 0 コ 0 ︶ o 的 ‑ |
現実に人間
ている︒八
間の本質と
人間的現存
質 において
いかなる 存
る 関係を通 またハイデッガーが︑現存在を﹁世界内存在﹂ ︵Ⅰ コ| 笘のⅠ1 % ペ の汀のの 二︶︵ 巴 2 ‑ ︶
ことを意味するのではなく︑一つの実存 時 門生ひ 8 局︵ 田 として︑事物
現存在の本質構造を意味し︑実存が一つの世界 へと﹁指し向られてい
ある︒ として規定するのも︑空間的に包括されている の事物的存在 ハく 0q ア船 コロの コ おの ぎ しとは 異 って ︑
ること﹂︵片目的の毛 ざおコ おの ぎレ を意味するので
ハイデッガーはまた︑人間という現存在を有限性 ︵ 巴コ 生日 プ宙 C として捉える︒それは﹁その 存在者のその日 親 ︵ お ︶ ︵しが・ ピの 申への 被投性 ﹂においてあることを 立 思抹 する︒この場合の﹁ 現 ﹂は︑現存在が常に存 在する場合所示すの
であるが︑また人間の自己の実存することを見出 すことでもある︒
しかも世界内存在としての現存在は︑他方におい て ︑人間的環境︵日当お目のずの C ヨ 旧土 C を も 意味し︑また自己
の 開示性︵ お 〜お田︒ お省 すの ぎ ︶を・もあらわしてい る ︒それはまた実存の在り方として︑同胞︵ 匡 コ 日の コおア の 臣 ︶の形成
する世界でもある︒そしていまや現存在が世界 内部的に出 ムロぅ の ほ ︑﹁道具的なもの﹂︵ ぎぎコ巨 目アめ ぎ︶や﹁事物的
なもの﹂︵ づ 0 〜 す舛コ 巨のコア 由 ︵︶とは 異 った存在様式 をとる他者である︒しかもこのような他者との 出合いの世界は ︑ま さに﹁共同世界﹂︵ 匡ざ 毛色むである︒現存在の 世界としての共同世界は︑他者と共になす﹁共同 存在﹂︵ 目 二のの ぎ ︶ の
世界でもある︒従ってその現存在の他者に対す る 在り方も︑﹁共同現存在﹂︵ 目ぃ ︵ &pn の ぎ ︶といい︐ フ るのである︒
それゆえにハイ ヂッガ ーは︑﹁現存在はそれ 自
って現存在が﹁ 孤
独 であること﹂︵
姜田
おぎりも︑決して共同 現 存在の否定にならないのである︒独りであること は ︑共同現存在の欠知的様態であって︑そのことはまた共同存在の 証明でもありうる︒
五
ルシ シズム ハコゅ 〜 Q@o の @ の日 ︶におちいつていること になる︒それは愛の破綻であり︑それは客体に おける反映であって ︑
そこでは主体 は 自己自身の中に留まり︑自己 自 身から赤み出ない︒ 外 ならぬ客体が主体を主体 自 身の中にとどまらせ
て ︑他者の中へつれ出さないことによると考え も れるのである︒これらは︑すべて世界内存在に おける﹁他者の問題﹂
の 不徹底に対する批判にもっながるものであり︑ 自己存在の閉鎖性と表裏をなすものに体ならな いのである︒ハイメ ア
ッガ ーにおける﹁他者存在﹂こそ︑﹁汝の欠如 態 ﹂といわれる独在論を解く 鍵と 見ることができ る ︒
ね ︑顧視︵ オむ 音の @n ア ︵ロロ 年 zP の芽 @ のア ︵︶がなされ ︑道具のごとき配慮︵田の 0 お 目︶︑ 配視 ︵ C 日 紅 のず︵︶の対象ではな
いことは確かである︒
しかし顧慮には︑可能の諸様態が存在するが︑ 一般に無関心と欠如の様態こそが日常的かつ 平均的な相互存在
︵ 絹 ぎの ぎ p コリ のⅡのの ぎ ︶の性格なのである︒すなわ ち ︑現存在は日常性においては顧慮を欠いてい るのである 0 もち ろ
Ⅱ ん ︑積極的な様態の面で︑他者からの心配 あ oh 笘 ︶を取り除き︑配慮しっ っ 他人の身にな ってやり︑彼のために 尽
鞄カ
する釜ニまき
ので H@% コ ︶ところの 尽 力 的支配的官田の 屯 ﹁ ぎ ののコロ与の ア の rr のり ア の 臣 ︶なも のと︑彼のために彼の実﹁ 存的 可能のために垂範してやる︵ ぎ日 40 ぶ 巳屯 ﹁ ぎ潟 こところの垂範的 | 解放的︵ ぺ ︒ひで 曲 コ ㏄の コ宙 ・すの 廿 Ⅰの @0 戸ロ︶なもの とが存在している︒しかしこれは︑﹁本来的な自 己 存在﹂あるいは﹁決意性﹂︵Ⅱ コあ り ま 0s のの コ訂ぎ Ⅹより厳密な意味で 胎 ﹁自己自身への決意性﹂とよぶ最高の迩 万 のものに属するのである︒ 従って本質的にはハイデッガーにおいては︑ 他 者 存在は︑真実なる意味での他者関係を成立させ えない地点に立っ
︵ 何 @ ものほ︑非本来的なものとして︑積極的に肯定 されない︒もちろん︑他者は現存在として︑顧慮 ︵
目
㌦ oH 港 ︶がなさしかし同時に︑ハイデッガーにおいてこの人間 の共同現存在は︑本来的な自己を開示する実存に とっては障害にな るものと考えられている点は注目されねばなら ない︒なぜなら︑現存在は共同現存在であっても ︑必然的に世界への
における現存在の存在様式なのである " その自己 とも他者ともつかぬ﹁中性的なもの﹂によって 支配された 頽落は︑ 単独的なものの本来的﹁取り戻し﹂を阻害する ものであった︒本来性に還帰することは︑この 頽 落から身を転ずるこ とでもある︒それゆえに︑共同の世界から個々 0 世界において自覚することに体ならない︒それ ゆえにまた他者的な
と 不安ヘレ コ ㏄の︵︶の中で神の前に独り立つ︒ハイ デッガーの人間ほ憂慮と不安の中で自分自身の 前に立つのである︒ ある︒すなわち単独者は絶対者との関係に入るた めに単独者となったのである︒キェルケゴールの 人間は憂慮 Gor ぬの ︶ これに対してキェルケゴールの単独者は︑神に対 してのみ開かれているとはいえ︑少くとも一つ の 開かれた体系で 質を現存せしめるために︑ハイデッガーの自己 は 一つの閉じた体系となっているとフーバーは み る ︒ ハイデッガーにおいては︑個人は自ら人間本質を 内包しており︑一個の決意せる自己となること によって︑人問 本 は 存在しないと考えるのである︒ ︵の 仁コの ︵︶としてのみ遭遇しうることである︑ と ブーバーは実存における﹁出会い﹂の神秘を語 るのである︒ ハ
ッガ ーにおいては︑現存在は自己存在の内部で
士 江成され︑決意した現存在は世界から遊離せず︑
世界内存在とし
実に世界と共存し︑世界の中で行動し︑世界に 伺 って 傲 らきかけようとする決意を含んではいる が ︑しかし自己
を 突破しようとほ思わないとめらしる︒従って それを超えて出るところの存在的︵ 0 コ ︵ @ ひき ︶ な 道は ハイデッガ イデ て 現 の枠 |こ れに反して︑本質的な関わりを通しては︑個人 的 存在の枠は事実上突き破られ︑実存の深みに おける他人の現前化
が ︑つまり︑存在的な人間相互の事実的関与が 働 らくのである︒それは人間が生の流れの中で ︑ただ一種の﹁恩恵﹂ る ︒いかに他者に心を傾けていても︑他者に向 って自己を開くことなく︑むしろ傍観的に立って いることになる︒ こ フーバーに よ れば︑人間と人間との共同現存在 にとって根源的なものは︑顧慮ではなく︑本質 的な関わりであっ
て︑ 単なる顧慮においては︑それがいかに強い積 極 的な顧慮であっても︑本質的自己のもとにと どまっているのであ ているといってよい︒
﹁実際︑顧慮はその本質上︑世界の中において︑ ハイデッガーの考えているように︑他人との 単 なる共同存在から
発するのではなく︑いかなる関わりであっ ても︑人間と人間との本質的直接的全体的な関わ りから発生する﹂︵ 2 4 ︶
と︵
フーバーは︑ハイデッガーの他者の問題を批判す る ︒
「出合い」と 「安ら : 、 」
キェルケゴールにおいてほ﹁ 汝 ﹂八ロ 仁 ︶ ほ 間接的 に で は あるが存在している︒ハイデッガーの 世 界 には﹁ 汝 ﹂は存在 しない︒実在へ︑自己の全存在をもって語られた 真実の汝は存在しない︒単に顧慮をほら う に 過 ぎない相手に伺って
ほ人間はこの汝を語らないとブーバーはい う ︒
ハイデッガーの立場は︑それゆえに へ| ゲルが キ リスト教を世俗化したごとくに︑すなむち絶対 者への関係を断絶 したごとくに︑キェルケゴールの単独者を世俗化 したことになる︒本質的な﹁ 汝 ﹂の世界の開かれ ない処においては︑
また本質的な﹁われわれ﹂ ほ 存在しない︒﹁マン﹂ ︵計の目目しは群衆であって﹁われわれ﹂では ない︒﹁われわれ﹂と いう概念のもとでは︑ブーバー は 自己と自己責任 とに到達したいくらかの独立の人格の結合を ︑ まさにこの自己性 と 自己責任とに基づき︑それを通してこそはじめ て 実現される結合を考えているのである︒つまり ﹁われわれ﹂の中に は ﹁ 我 1枚﹂関係の決定的な前提である存在的 直接性が支配しているという点にその特質がある と 考えるのである︒
またキェルケゴールにおいては世界及び他者は︑ 単独者を単独者たらしめるために断念すること を 前提としている が ︑絶対者との関係を本質的なものとなす限り において独在論とはいえない︑とブーバーは キェ ルケ ゴールの立場を 肯定する︒ハイデッガーは自己自身においてⅡ 不安は︑かくして現存在を﹁単独の自己 し ︵の 0 田の
@ 璃の
︶を単独化し開示
する︒この﹁実存論的独在論 ヒ 2% の x ︵の ヰ のコ片 笘 のの︒与の @ のヨ巳 ︶ ほ ︑現存在を︑世界としての 彼 の 世界の前へ︑かく して自己自身を世界内存在として︑自己自身の ュ
っ ことを必然的な過
程 と考えている︒
らびにこの二つの関係をつらぬいて現われつつ ブーバーは人間における三重の生活関係を措定
も ︑それらを根本的に超越する存在の神秘との 関 し ︑世界及びものの関係︑人間すなむち個人及び
係 があると考える︒ 多数者の関係︑ な
この存在の神秘を︑哲学者は絶対とよび︑信仰 者は神とよぶ︒ハイデッガーにおいては第二のも のを中心としなが ら 多数の他者性を欠いており︑それゆえに真実 の 自己性も捉えられないときびしく批判するので ある︒