――目次――
論文
1,
宗教的実存, 藤田健治, Religious Existence, Kenji FUJITA, pp.1-20.
2,
ウラジーミル・ソロヴィヨフの宗教思想, 田口貞夫, The Religious Thought of Vladimir Soloviyov,
Sadao TAGUCHI, pp.21-40.
3,
近世参詣の国民化:抜参りと御蔭詣で, 新城常三, The Spread of the Custom of Pilgrimage to the Ise
Shrine in Tokugawa Period, Tsunez
ō ARAKI, pp.41-62.
4,
「出会い」と「安らい」, 田辺正英, Begegnung and Ruhe, Shōei TANABE, pp.63-88.
5,
廬山慧遠における道の究極, 玉城康四郎, The Ultimate Way of Hui-yüan in Lü-shan, Kōshirō TAMAKI,
pp.89-115.
書評
6,
中沢洽樹著『第二イザヤ研究』, 後藤光一郎, Kōichirō GOTŌ, pp.116-123.
7,
増谷文雄著『アーガマ資料による仏伝の研究』, 土屋光道, Kōdō TSUCIYA, pp.123-129.
8,
加藤玄智著『神道信仰要系序論』, 小口偉一, Iichi OGUCHI, pp.129-130.
Posted in 1963
(昭和38)年
実存に相当するエクジステンツ︵ し乙 ㌍の 民 存在 ︶という言葉が本来エセン ツ ︵ 巴 おの ロド 本質︶に 対応したもので ある事は言 う 迄もないであろう。そして存在と 本質とが普通の事物においては別個であるのに 対 して、神においての みはその本質の中に存在が含まれており、その 上 七味で本質と存在が一つであるとされたのほ 、ア ンセルムスの神 里仔 在の存在論的論証に見られ、 又 近世においても﹄ ア カルト等においてなお取られている考え方であ る 事は人の知るとこ ろである。このような考え方に対して本質と存在 との 異 別を唱えたものとしてカントの周知の百 ターラーの議論をあ 存 げる事が出来よう。ただ 百 ターラーに つ い て 当然その事が言えるのは先行哲学者達も承知し ていたのであるから、 問 実額はその議論が同様 神 存在の場 ムロ にも避け 得られないと見るところにカントの新しい立場が あると言える。カントの ね この議論は彼が神存在も信仰の対象として でなく現実の世界の存在としてか、或はそれに 準 ずるものとして考えられⅠ
教る限
・ り 、やはり概念 スは 本質から存在は導 き 出せないという事で、やがてそれは対象の存在 ほ ほ直観を必要とすると︵ 三 @ @ ソ丁て い,っ 彼の折口学の根本的立場の表明に外ならない。 従ってカントはそれによってこの神の存在論的 論証を切り捨て、 神 Ⅰ宗教的実存
田
藤
健治
信仰は別に﹁単なる理性の限界内における宗教 ﹂として成立させようとするのである。 然し神は信仰の世界においても存在を欠く事は 出来ないであろう。それが少なくとも哲学者の理 論 と違った現実の︶ 信仰というものであろう。事実 神 が人の苦悩に 救済の手を差しのべるものである限り、 又 それ 故 に人の祈りの対象で︵ ベル だ|ンりツ ヒカイト ある限り、神は存在しなくてはならない。そこ に 新口学者の求める絶対者と違って神には位格性を 欠く事が出来ない 理 由 があり、その限り父神は厳に存在しなければ ならない。ではその神の存在はいかに考えられる へ きか。 へ| ゲルは神の本質と区別される神の存在と ぃ, っ ものをたとえ考えてみても、やがてそのような 存在も結局本質 に帰 著するとみている。それは神存在に限らず へ| ゲル哲学の根本的立場、概念又は本質と存在 自身との同一を主 張 する立場から出て来る当然の帰結なのである ると等しく、それ以外に存在を考えてみてもこ 一般にある事物の概念はいかにして得られる のような本質を具えたものというに過ぎないから かを考えてみるならば 、勝義においては 存 それはその事物の本質に対する洞察によって 得 られると言わねばならない。例えば 机 というもの の 概念とは 机 とはど ういうものかという問いに答えたもので、若し その場合 机 とはその上で字を書いたり本を読んだ りするものであると 言,っ ならば、それが 机 というものの概念である。 このように概念とは主観が事物を把えてつくる ものとみれば、それ に 相応して客観の側には机の本質があって 、概 念はそれを 担 えそれと一致する。そして本質とは それが具わる事によ って机が机である事が出来、それを欠けばもはや 机 でなくなるようなもの、一口に言えば机を机 として机にその存在 理由を与えるものであろう。もとより机の本質 と 机の存在とは依然区別して考える事も出来よう 。然し我々が机を机 として認め 机 として取扱 う のは勝義においては @ ﹂のような本質を具えたものとしてであり、それ 以外に色々な性質を 具えていようとも、それは机にとっては非本質 的なものであって度外視する事が出来る。ところ ですべての事物はこ のような本質の点においてのみその存在が認めら れそれとして取扱われるとすれば、本質をとら えれば存在をとらえ 在は 本質を措いてなく、従って存在と本質とは 等しいといっても差支えないであろう。 へ| ゲル のい,ヮ 概念は本質に
等しく、本質は存在に等しい、一言にすれば 思 惟と 存在とは等しいというのはこのよ りな 意味で あって、すべての 存 在 ほこの立場から見られ、神とてもその例外で はあり得ないのである。 このような本質と存在との一致を説く立場に対 して再びその典則 を 三振したものとしてシェリン グ をあげる事が出 来る。もとよりここにシェリングの哲学とい, ヮ のは、シェリング後期の哲学の事で、それは前期 の 自由意志論あたり からはぐくまれて来たものであるが、一層明瞭 には神 話と - 啓示の哲学において展開されるもので ある。このような シ ェ リングは へ| ゲル以後の哲学の反 へ| ゲル的な 動向の魁と言え且つ、実存哲学と密接な関連に あるものであるが、 兎 も角 ここで再びカントのとった本質と存在の異 別の立場がとりあげられ、殊も結果はカントの よ - ソに神 存在に対して 不 ガティヴではなくて、むしろポジティヴに そ の 存在面の強調に向うのである。シェリングに よ れば神を本質の面 か ら 見る限り、若し神が存在するとすればそれは ナ ﹂のようなも 小 りであると舌ロうに止り、そのような 神 が事実存在すると いう事はそれからは決して出て来ない。 へ|ゲ かめ 絶対者はもとより神とされたが、 妖し 弁証法 的 発展の終極に出て 来る絶対者は、依然すべての相対的規定を止揚 された契機として綜合し、その点で真なるものは 全体であるという へ | ゲルの立場を表わすものに 上 る。それが神で あるとされるのはただそ う 名付けられただけで、 真に苦悩する人問が 求める位格性をもった神とは言い得ない。それ は 精々が見られた 神 、概念的普遍であるが、真の 神とほ 個 酌人間によ って求められ、従ってそれ自身 値 である神でな ければならない。そしてへ | ゲルの絶対者はこの ような要求を満たす
ング の新しい立場から神は如何に考えられるか。 シェリングによれば、 第 美一に理性的概念的思惟は本質を把 え 得ても 存在自身を把 え 得ないから、存在を真に与えるも のは概念ではなくて、 広 的 義の経験であり、 神 存在の場合もその例外 ではあり得ない。第二に概念的思惟によって 把、 えられる本質は当然理性的 教 であるが、存在はそれでは尽せない限り 非 理性であり、非理性はこの場合意欲を意味し 、従 って上にいう存在を与え
宗る
経験も実は意欲を以て意欲に働きかける 体験の事であり、かくして 神 存在自身も意欲に根 差し意欲的体験の中に自 3 ( 3 )実
あ り た 得 し を っ て っ方 純
も在
その意味で純粋な現実性︵ ac ︵己ので 目 ∼目しである。 第四に本質は概念である限り普遍であるが、 存 在 はあくまで あり、個である限り他を以て置きかえられない 掛け替えのなさを 現お すのは当然である。神もま たその意味で 個的 存在であり、 個的 存在として人間の個的 存 在 と一対一の絶対的関係にあるものである。この よ う にして 一 惟 ・理性・概念・本質・可能性・普遍という系 別 と他方に存在・非理性,意欲・現実性・ 個 とい ぅ 系列とがあ 立し、その対立項の後の方に強調と優位をおく め がシェリングの新しい立場という事になり、 そ れは神につい ると共に 、又 すべてのものについても言えるので ある。 神 存在の規定は、人間が存在の一つである事によ っても、又とりわけ神の似 姿 として造られたもの である事によ 、 当 鉄人間存在にうつせるのである。シェリング はその後期の哲学が神話と啓示の哲学である事に よって 神 存在 としたから、人間についてはかたねら触れるに 上ったが、キェルケゴールは神信仰を全体として 逆理としてむ 開存在に焦点を絞ったので、シェリングが神拝 在に 於てみてとったその事をそのまま人間存在に 感じたと言い 。キェルケゴールが人間存在にあてた実存とい, ヮ 概念の成立にシェリングが如何に歴史的事実と して直接与っ かはにわかに決し難いが、理念の連続を辿れば 両 者の関係は否定すべくもないのである。それだ けス 逆に シュ が キ ェ ルケゴールに先立って後者が人間存在に 感じたものを 神 存在に見出したという事は特記す へき事なので してキェルケゴールの実存概念にはさきにあげ た シェリングの神存在の規定がそのまま当てはま るのである。 思惟を以て尽せない神の前に立つ一人一人の単 独 な個酌人間存在である。神を求めるものがこの 意味の純粋な ら をあらわにする。そして意欲はかくする事も しない事も可能である限り、 神は あくまでも理性 側 であり本黒であり自由である。第三に概念は 何かが存在するとすればかようなものであるとい ぅ 本質規定を示すだ︶ けであるから、それは可能性に止るが、存在日 体は何かがあるという事であるから、当然それは 現実性を現わす。 神 ︵
な きものとがあるから、従って 神 なき実存主義 の場合には実存 は 必しも宗教的な色合を帯びると は 限らないのであ る 。もとより実存を芸術的道徳的人間存在にも用 いる事は 、 キェルケゴール自らが人生行路の諸 段階、美的道徳的 宗 教 的のそれを二一つの実存領域︵串の @ 鵠准降 の口器 吝 wh の③とよぶ点にも見られるが、ただ彼の場合 は あくまでも宗教的段 階 が根 抵 的でも中心的でもある事は疑えないの である。然しこのように実存概念を拡大する事は 或 意味では当然とも 言える。何故なら実存が宗教的であると言って も 、それは実存が人間のあり方として人間存在の 根本を形造っており 存 それが宗教において最も よく 現われたと 見 るべきであるから、それは 又 他の領域、美的、道 徳的 あり方と結んでも 現 実 われ得る可能性をもっからである。その上ゐ ホ教は正に単独者としての人間の心の機微に触れ 、その深奥に透徹する 処 的に成り立つから、逆にそのような深奥な 機 微に 基づく人間関係において先ず何よりも実存が あらわになり、やがてそ , 教 れが宗教に発展するとも云えるのである。 例 えば死は宗教成立の契機として最も重大厳粛な 問題であり、宗教的立場︵ 心木 においてのみその解決が与えられるものとされ るが、そうあるのは死において実存が最もあらわ になるからである。 プレオⅠⅠ -- イツシユ 的 実存と規定する事すら冗漫であると云 い 得 よ, フ 。ただ現代の実存折口学にはサルトルの呼称に従 えば 神 あるものと 神 おいて、人間存在をさす事に移り、全く宗教的 な 系譜において成立した事は明らかであろう。 そ の 意味で実存を宗教 以上によって ェク ジステンツという概念が本来 神の存在を指すことに始まって、やがて一対一の 神と人との関係に ほ 始めて現実性を得るのであり、自己自らに 関 保 する存在として絶望にさらされながら無限性の 情熱によって永遠の 真理を我がものとする内面性に徹する存在でも ある。 @2 ︶ 何 であ けて、 れ等の 替えの る 事はシェリングの何よりも強調した処であった 。そしてキェルケゴールがシェリングの へ|ゲ ル 批判を ,フ へ| ゲルのような論理的体系性や世界史的普遍性 の 立場からしては真の人間は稀薄化されて失わ ね 、従って そ 見地からは割り切れない処に実存の成立すべき 事を主張したのは当然の帰結であった。実存とは 神の前の掛け な い 純粋な個酌人間存在である、神に随順して 決意し実践する行為主体であり、その道徳的現実 性 によって 人
としての自らの存在を真に実感するのであり、 又 死 こそは我々にとっては、不可避的にふりかか る 運命であり、然も 何故という問いに対して何等合理的解答の得 ら れないものである。成程 生 あるものの死ぬ事は当 然 であり、有機体と しての人間の生理 は 死を必然とするであろう。 然 しそのような説明は死が当人の意志したもので ない限り、当人にと っては全く外的な理由付けであり、従って死は人 間 にとってただ偶然という外はない。その意味 でそれはシェリング のいう﹁必然的偶然﹂の一つの場ムコであり、 そナ ﹂で理性がムロ 理 約説明を見出し得ないで挫折する 限界状況である。 然 もその故にこそこの必然的偶然という限界状況 を 通じて 今 此処にある此のものという 個 酌人間 存 在 があらわになるの である。同様の事は愛についても云える。愛は 本来パーソナルなものである。それは一対一の 関 係 において成り 丈 ち 、自我 愛 において最も強く単独の自己に結び つくと共に、やがてそこから翻って他愛において 最も強く単独の他に 結びっく。もとより一切の愛がパーソナルとい, ヮ のではない。そこに普遍への愛が ハ それが単に生 命 的欲動に基づく 愛 であろうが理念への愛であろうが︶成り立ち得る にしても、然も愛 は 本来自他において単独である が 故に 又 そこで単独 者としての人間存在が最もよくあらわになるも のである。ヤスパースが実存的交わりや語らいの 何 として真の友を得 るとか一生の伴侶を得るとかい う 場合を語り、 実 存的 交わりや語らいが 畢寛愛 の 戦 ︵ -@ の す の口印の∼ 木 曲玉でこであるとい ぅ のも愛において実存の開明が可能だからであ る 。ここに戦というのは実存があくまでも自己を 失 う 事なき単独者で ある限り、その単独者の相互関係は正に常に他 が 自らに融かし切る事の出来ない自体存在として 自らと対立争闘する 事なくしてほあり得ないからである。但しこの 戦いは普通の戦が自らの手の内を出来得る限り 秘 めて他を奇襲する事 に 勝利を求めるようなものであるのと違って 、自 らのすべての武器を他に委ねての戦である。 そ うしてさえ相互に心 例 とし、ハイデッガーが人間の本来態を死への 存在としての自覚から導き、ヤスパースが死を実 存 が開明さるべき 限 ︶ 罪状況の一 つに 数えるのもそのためでなければ ならない。事実死において始めて人ほ全く自らの 孤独を 、 即ち単独者 て それ 故キエ ル ケ 。コールが実存の内面性と結合し てのみすべては真に意味あるものとなるという 事 を 述べるために死を
宗 教 的 実 存
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である。道徳もそれが善の理念の実現を目指す 限り精神の世界に属する。ただ道徳が科学や芸術 と 異なる所は、科学 や 芸術の場合にあってはその理念の純粋性を求 める限りそれだけ益々個に究極 し 、所謂天才概念 に 到って殆ど掛け替 ためない個にまで達するが、道徳の場合には、 乙 、 れが道徳的理念の内容に関する限り同様道徳的 天才に到るにも拘ら ず 、本来道徳がすべての人間によって守らるべき 規範であるという性格から来る普遍 性 乙矢うわ けにはいかないので ある。従って科学や芸術の場合にも普遍性への 要求はあるにも拘らず、必ずしもぞれを必須とせ ず 、科学的人間や芸 術 的人間の孤高が許されるのに、道徳的人間に あってはそれが許されない。ここに同じく理念を 目指す精神であって も 科学や芸術と道徳とではその方向に相違があ る 。同時に 又 生命に対 十る 関係でもそれ等 は 相異 する。科学や芸術は 生命の世界に対してはそれに 土 4 口付けられるだ けで、たとえその理念は生命への奉仕がら自らを 切り離す事によって 成立しその限り生命から自由となる関係にある にしても、それ以上に生命の欲望自体に対してそ の 内部に立ち入って これと対決しない。云いかえれば生命の欲望の充 足も科学や芸術成立の土台となる限りは、当然 これを許して樺から ない。然るに道徳 は 自らの成立の土台として 生 命の要求の充足を許し乍ら 、又 その生命に対して さえこれを理非曲直 の 尺度を以て裁き、時としてそれを否定する事 が 自らの土台を亡ぼす事である事を知りつっこれ と 対決さえあえてす るのである。 道徳的人間が以上のような意味で人間の善性に 根差し、 文 人間の善性は人間性の根 低 を形づくる 可能的存在としてはそれであり得る事によって 、 道徳はすべての人を包み得る普遍性を持っので ある。そして現実の歴 史的世界は勝義に於て生命の世界自然的欲望の 充足を目指す世界であるが故に、それと対決し得 るものは道徳的人間 を 措いてあり得ない。道徳的人間こそは人間の 最も根 抵 的にして普遍的なあり方と考えられるの で 為る。そして精神 の 立場に立つ限り、道徳的立場こそ究極の立場と 考える事は当然とも言えるのである。然し我々 は 精神をこえて実存 という一層 根抵 的な人間存在に達しなければな らず、それは上述のように宗教において最もよく 自らをあらわにする
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え ら力 によって破られ得る事でも明らかである。 そ の点で真に生命と対決し得るのはさきに 言, ≦通り 道徳的立場である。 それ 放 キェルケゴールが世界史的見地からどれ ほどの事業をなしたかという量の基準による個の 価値づけが人間の内 命の支配 力 に直接対決する事なく、ただ一時 そ れに目をつぶるだけである事は、それの き づく せ 界 がいつも又生命の ハウアーの洞察した通りである。残し例えば純粋 な 芸術や学問の世界に沈潜する事が真の解脱に はならず、いわば 生 右のような生命の世界ののしかかる支配やそれ に 伴う塵労から離脱するための手段を提供し得る 事は 、 既に シコ ペン 戻さるべしとするならば、それはただ精神の自 三性によるエリートとしてのそれを 言,フ のではあ るまい。若し単に失 われた自己を取り戻すだけに 上 るならば、選ばれ た 人は精神としてもそれを取り戻す可能性をも つであろう。精神が ンや ホワイト等によって示されるものもそれに 通 ずるものである。これ等の場ムロ人間存在が失わ れているが故に取り 性を失って全体の機構の中に自らを喪失 し 化するか生命的集団の中に一般化するかし 生命の世界の平均化は一層全体的に拍車を の中に説く人間存在の頽 落 態としてのマン ア ツ ニムな力の支配の下における人間はそ て 了う。この場ムロ本来 個 陛の発展によってのみ 成 立 する精神が生命に手段 て 、かくて精神の技術化や制度化、流行化や大 衆 化が生じ、それによって かけられ、個の自主性の喪失が完成する。ハイ バ アッ ガ ーが﹁存在と時間 ヒ ︵ ひと ︶のようなあり方やヤスパースが﹁現代の 精神的状況﹂の中に説く れを 呪 わし、マルクシズムのい う ﹁疎外された 人間﹂やさらにはリースマ からしてそのままでは分化に乏しく従って逆に集 固化に容易であるから、生命の世界においては 人は容易に個の自主 なさで は なくて、一人一人の掛け替えのなさ、 一 八一人と数えて万人に及ぶ掛け替えのなさであ る 。このような掛け 替えのなさは古来宗教を通じてのみ与えられた ものではないであろうか。そしてここで始めて 実 存 という人間のあ り 方が真にその全貌をづくしてあらわになると 言 い 得るのではないであろうか。 この白木教の世界で見出されたすべての人間のかけ がえなさこそ実存を最も至 醇 に伝えるもので、 それがあらゆる 場 合 に人間の個の自主性の主張の根 抵 になるもの だと言える。何故ならば生命としての人間のあり 方 はその本来の性格 ( 10・ 10
11 ( 11 ) 宗 教 的 実 存 た し
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する決 ルトル の 来 る 。 す れ し の っ 生 存 界 も 意 が の多様性を見得ると思われる。それ故に宗教的実 存の内容を明らかにする事を目的とする我々は
、
この概念がいかに 東 洋の思想に適用範囲をもっかを検討せればなら 実存の概念がキリスト教を根 抵 として成立した よ う に、もしこの概念が最も容易に適用し得る 宗 教 的立場を仏教の 中に求めるならば、それは 或 意味でキリスト教 と 共通の構造形式をもつ浄土教であると云い得る 。浄土教の世界にお ける人間存在は、依然仏の前に立つ純粋な個、 仏 に 対して一対一の関係にある単独者である。 そ の 一念 及至 十念の称 名 に答えて誓願に基づく弥陀の救いの手が差し 伸ばされ、そこに一切の自力を捨離する完全な 他 力 本願が成立し 、然 も 悪人成仏によって道徳の世界と隔絶する慈悲 の 遍照する光明の世界がひらかれるのである。 我 々は今ここで は 充分 触れる事をしないキリスト教仏教の差違にも 拘 らず、実存の概念を浄土教の場合にも移して差文 えないと見るのであ る 。然し浄土教のような場合と違って傍証を両断 にあらずとし、坐禅修行によって悟りを求める 禅 のような場合は如 何であろう。ここでは自己を依拠すべき超越者 の 存在はなくて、ただあるものは聖道の先達のみ である。もとより 阿 弥陀仏も本来人間界を隔絶する超越者ではない。 ただ同じ人間が覚者となる事によって 仏 とされ るとも言えよう。 然 し 一度 仏 となれば西方浄土にある無量寿仏は我々 とは隔絶し超越し、我々有漏の身の有限性が 歎 かれれば歎かれるほ ど 益々仏の無限性は光明輝く絶対的存在となる のである。その点でキリスト教が絶大絶対なる 父 なる神に対して神の 子 キリストの現世への出生によってその超絶性 を 媒介するのとほ逆の過程があると言ってよいの である。 妖し 禅の場 祖師にあえば祖師を殺すことさえあえて せ ねぼ ならない。そして祖師からの衣鉢の伝統はあって も 現実に我と対する ト 教の神への随順、浄土教の他力本願を以てほか ればこれは宗教の範時に入れ難く、むしろ西欧に 類似を求めれば、 キ ュニ コス学派やストア学派のあるものに近いであ ろ う 。然しそれにも拘らず禅における完了の 体 験は正しく単独者の C 12 ) 12ものである。そしてその単独者はひとえに本来 0 面目を求めて究極の無限絶対の体験に到ろうと する。仏性と言 い主 大全 と 云い無位の真人というものはかかる人間 の 本来 態 、可能的実存である。そして師家 対 求道 者の関係は実存 と実 存の変わりであり語らいであり、この赤裸々 な る 人間と人間との対決によって真実の自己を獲得 する正に道を求めて 0 戦いであり、自利すると共に利他する菩薩道の 慈悲の戦いである。そしてここで求められる 体 験は公案が全く非合 理 的か或は公案が一見合理的な時は答 えが 非合 理 的である事によって、尋常の知性の範囲をこえ ている。その故に 禅 の 体験は神秘的としてエックハルトのような立場 に 比せられるが,然し西欧の神秘折口学者の体験 に 比せられるべきも のはむしろ真言密教の入我我入の体験であって 、 禅の場合には神秘哲学に見られる自らを没する 対象たる神や仏の存 在 がないのである。それにも拘らずこの無限性 の 体験によって求道者は救われるのである。我々 はこの場合にも禅が 宗教の別形式であり、そこにある人間存在は等 しく宗教的実存とよ ぷ にふさわしいという事を認 めてよいのではある まいか。そしてここにあるものは神ある宗教では なくて 神 なき宗教であるだけ、禅の宗教的実存 は神なき実存主義や 必ずしも直接神を前提しない実存の規定に極め てよく通ずるものをもっているのである。 然しながら我々は更に我々の視野を拡げて禅に ついて語り得た宗教的実存を老荘についても語る 事 が許されないで あろうか。老荘の立場が孔子に始まる儒教の流 れに対して何程 か 現実に疎くみられるのは、 儒 教が 本来修身済家 治 国手天下の教として道徳から政治の世界を中心 としているのに対して、老荘が常に儒教の説く 処 の 逆を行ってパラド
存ックス
を語って道徳の世界をこえた世界を 目指している事に由来すると思われる。老子は大 道廃 たれて仁義あり智志 案出でて六億ありとし、絶学は無憂、聖を絶 ち 智を棄つれば民の利百倍と語る。そして道の究 極 するところは無為自然 的であり、嬰児の未だ 弦 とならず、 乗 々として 帰するところなきがごとくと言い、 文 無名の僕 不 言 の 教 無為の益というの 数 も、 畢貢 するに一切の有は無に帰し、それ に 基づく事なくしてはあり得ない事をいうものと する事が出来る。或は又 古木 荘子が造進遊の中で北冥の巨 魚鱈 や臣 鳥鵬 の 国 雨 をかたり、大樹樗を語るのも同様の意味であろ ぅ 。それは天地の正 13 ( 13・に 乗って六気の共に御して無窮へ遊ぶものの事 であり、 ヌ それは無何有郷の広莫の野に植えて 人 は笏律 としてその 側 にあって無為であり、造進 乎 としてその下に寝 臥する事の出来るものの事であり、そこに無用の 用 があり、己なく 功 なく 名 なき至人といい神人といい聖人という 人 間 のあり方が意味されてある。文音物 篇 において 周は夢に胡蝶となっ て物 々 然 として自ら 輸 しみ志にかない周である事 を 知らないが、 俄殊 覚めれば周である。胡蝶 と 周の分は現世界の物 化であって、 蝶 周一如の境が本来の態であると される。このような老荘の世界が禅の世界と相通 ずるものを持って い る 事は明らかであろう。それは生命の世界でも 精神の世界でもなく、それを超えてある世界で、 そこには超越者たる 神も仏もない、ただ自己自らと遊んで物として 凝滞する事のな い、 云わば自在に主となる単独者 があり、然も人はそ こにあって無窮へと連なるのである。我々 は この ような人間存在についても実存を語る事が出来 るのではあるまい 玉 カ O 我々はここから再び翻って西欧の現代の哲学に上 ユち 帰るならば、ハイデッガーの最近の﹁存在の 思惟﹂ ぬ ︵ののぎの & のコ, ォ 0 目︶という立場が禅や老荘の世界に極めて近い 事を思うのである。ハイデッガーはその﹁存在 と 時間しにおいて実存 哲学ときれ乍ら、そのように呼ぼれる事を拒んで 来たが、後期においてほこのような最初の頃の立 場 、客観的対象につ いての 範 時に対して人間存在の根本的あり方たる 実存 範 時を分析し摘出する立場からすら次第に 遠ざかって存在その ものに直下に迫ろうとする。その﹁根拠 律 にっ いて L の中においてハイデッガーは﹁何ものも 根 拠 なくしてはない﹂と いう旧来の立場に対して、﹁すべては根拠なしに ある﹂という立場をあげて、何故という事なしに ある存在を語って い る 。そしてアン ゲ ・ルス,シレジ ウス の﹁バラは 何 故 なしにある。それは咲くが故に咲く。それは 自らに気遣う事なく 人の見るか否かを問わない﹂という詩を引証し ている。存在は自己自らを開示し、我々自身によ って見られると 否と に 拘らず既に現われている。何故ならそれは 我 々がその都度の存在者を体験するところで現われ ているからである。 そして 又 逆にそのような存在者はただ存在の明 るみの中でのみ自らを示すのである。それは存在 者を存在者としてあ ( H ) 14
らわす よう に存在の真理が出来する事を意味す る 。その立場に立てば、﹁森はたたずまい、鉛の 水 はたぎり落ち、 岩 は 永らえ、雨は滴する。野は待ち、泉は湧き、 風 ほ 棲み、恵みは思 う ﹂のである。正に柳 は緑、 花は紅であり、それ こそ﹁ 質 僕なるものの華麗 さ ﹂である。存在の真 埋が 出来するとは存在が自らを与える事によっ て 歴史的運命に到る 事である。かかる歴史的運命は遊ぶ嬰児である と ハイデッガーによって言われる。それはかつて ギリシアの 音 へ うク レイトスがみてとったこの世界の永遠の時の中に 遊ぶ嬰児を憶 い おこさせる。何故嬰児 は 遊ぶの か 。それは遊ぶから 遊ぶのである。何故は遊びの中に沈み、遊びは 何故を欠く、それはただ遊びであり、それこそ 最 高の最深のものであ る 。 ハイデッガーのこのよ, ヮな 存在思惟の世界 は 何を 意味するのであろうか。それは正にこの現実の 世界・存在者の世 界を本来の世界・存在の世界の出来によって そ のままに﹁一切は許されている﹂という意味で明 るみにもち来す事で はなかろうか。それは禅や老荘の意図する世界 に 体ならず、その世界に参ずる事によって一切な 放下して和らぎに 達 する世界である。もしこの世界を上乗禅や老荘 ほ ついて述べて来た所に基づいて実存の世界、特 に 宗教的実存の世界 とよぶならば、それは正にハイデッガーの最も 強く拒む処であろうか。然しそこにある人間存在 は 生命はもとより 精 紳一般、特に道徳的人格とも峻別され、正に存 在の思惟主体としてあるが、その思惟は詩作であ り 、存在を直下に見 る 事であり、かくして存在の牧人となり、根で 地 に即きつつ自らをもたげずに居ないでやがて 頴 気の申で花開き実を 存 結ぶ事の出来る植物のような存在、ただただ 星を目指して進み、生命の世界に携わると共に 離れ、事物に放下して自在 実 となる存在、それはやはり実存とよぶ 外な い 存在である。もしハイデッガーが旧来の意味で 実存主義とよばれる事を ぬ 拒むのみでなく、以上我々が拡大した意味 での実存との関係さえ拒むなら、我々はハイデッ ガ ーの存在思惟の一切が 教 湛える深い哲学的意味にも拘らず、単なる 詩的感興に基づいて思索する概念 詩 としての悪し き意味の形面上半に陥る 心ホ 虞 れを感ぜざるを得ないのである。これを逆に してハイデッガーの存在思惟の立場は彼が西欧の 伝統の中にありなが 15@ (@ 15@)
四 我々は最後に以上様々な内容を含みながらも 一 つめ 統一概念を示す実存と現実の歴史的世界との 関係について述べ たいと思う。何故ならば実存はその概念成立の当 初において歴史的世界からの断絶を以て始まっ たにも拘らず、現在 の 実存哲学は又実存の歴史性を語るに急であるか らである。 キ ェ ルケゴールが へ| ゲルの世界史的立場をそれ がどれだけの事を世界史の進行に寄与したかと い う 量の点から 人 を 量るものとして 拒け 実存はあくまでも人がい かほどの倫理的情熱に動かされて行動したかの 質 の点から見られる 所 に成立し、結果を考慮せずにただ無条件的要請に 従って行動するのがその本領であるとした事は 既に述べた通りであ る 。然しこのように歴史的世界と断絶しながらも 、実存はその実践において歴史的世界の唯中に なければならな それ故に実存 は 実に歴史的世界と切り離し得ない という事は現代の実存折口学をまっまでもないの である。然しながら 現代の実存哲学の説く実存の歴史性はいずれか と丑口 , ヮと 一回限りの不可代置性、今ここにある 此 のものとしての性格 という点に強調がおかれており、それ以上には 精 々が過去を ぅ けて未来を苧 む 時間性である場合 が 多いのである 0 例え ば ヤスパースが実存の歴史的規定性とい, つめ竪 剛 肴であり、ハイデッガーの 被投 性を過去に企 投 性を未来におく現在 という時の構造は後者にあたるといえる。然し ながら歴史的世界成立の今一つの重大な構造契機 として我々は集団性 を 欠く事が出来ない。その意味で世界史的 個を 説いた へ| ゲルの洞察の価値を認めぬ ぼ ならない のである。ハイデッ ガ ーが民族への関係をもつ歴史的運命をとき、 ヤ スパースが現存在と実存の統一に歴史性をみと め 、サルトルが全人 類への顧慮を口にするとき、そのような見地の ある事は確かであるが、然しいずれの場合も必 ら ずしも充分と言えぬ ( 16 らそれをこえて東洋の禅や老荘の世界に通 う思 想 にまで 荊 茨の途をきり開いたことに大いなる 思 索の努力を認める 時、ほ じめてその価値を充分に認め得られるの では ないであろうか。︵ 6 ︶
宗 教 的 実 存 釣 れ う る 絶 い ら か る 清 に 事 移 に い で な 史 い 。 澄 軸 は 行 実 う の い 的 よ
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る 。これに反して後者は宗教的覚りの立場から して現実の世界をそのまま許す場 ムロ で、直接対決 する事なしに現実の 生死の世界をその 儀浬 穏の世界とみる事である。 このような境地を現わすものとして 蘇 京坂の 盧 山の煙雨湘江の潮の 詩や ブラウニングのの 0 ロがぎエざず ea40 ロ ト尼ヰ 。 の Ⅱ何 % 毛 @ 目 まの 毛 oH 巨 という﹁ ピパ は過ぎ行 く ﹂の詩を引くまでも ないであろう。それは﹁すべてが許されてある﹂ 世界である。然し若し宗教的情熱の高揚の瞬間 から一歩退いてみれ ば 、現実は依然現実として塵労と汚辱の濁世で あり、それが直ちに光明の世界ではない。では 以 上の宗教的覚りによ って何事も起らないのであろうか。 否 実存の世界 では大きな出来事が起ったのである。然しそれ はあくまでも人問 存 在 本来のあり方に関する事であり、然もそれは 個の内面性の事であり、自我の本来性の事である 。それ 放 それによっ がった意味を与え、やがて現実に生きる我々の 係は本来は裏付けの関係にある。然しこのよ う に 対して裏付けの関係と呼びたいと思 う 。 と今 述べた宗教的実存の現世界に対する対決の場 て 現実の歴史的世界、生命と制度と集団の世界は 然し我々は歴史的世界は本来生命の世界であり @ 現存在の行動を変化させるのである。我々はそれ にして実存に徹する時、現世界はおのずから別の 直ちに 変 るわけではない。ただこの現実を見る 合 とは如何に関係するであろうか。宗教的実存 ﹂れに対決し得るものは道徳の立場をおいてない 眼の相異が現実にち を さきの対決の関係 眼でみられると 共 の 現世界に対する 関 と 言った。この事 に 、実存は現世界に対してこの道徳をこえた 宗 教の立場よりする道徳的な対決に進むのである。 すべての人が善悪に 拘る事なく許されるのは善悪の基準を以て人を 裁く道徳的立場ではない。然しその事を以て悪人 を 極刑を以て裁く 事 を悪しとする事は、宗教の立場を再び道徳の立場 に 転換し、宗教の立場で得られた内容を道徳的 実践に移す事である。 さきに言 う 宗教的実存の現世界に対する対決と はかくして道徳的実践と結合した宗教的実存の活 動 に外ならない。 こ のような意味で宗教的実存は現世界との関係にお いて根本において裏付けの関係にあると共に 、 ス道徳的精神を通じ て 対決の関係に移り得るのである。そしてこの道 徳 との 結 ムロを欠く時、宗教は現世への強烈な実 践的 意欲を欠いてた ( 18 ) 18
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キエ ル ケ コールの解釈について
は 拙著﹁現代哲学の系譜﹂︵創立社刊Ⅰ﹁近代哲学
卑 ℡の崩壊と再建し
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しの づオ 0 い ダ の・ 団 Ⅱ・ トの ︵ 7 ︶ ロ のも の ト円㌧ ず ㍗ 0 の 0 ㌧ 田 P ㏄ 倖 ・ ど の・ 0 ︶ 0 。 トり 丹下 山山のぬ㎝ er の e@ コ ㌍ ヰ由 Ne ざ 。㏄・㏄㏄ り b :㏄㏄拝の ルペ田 re Ⅰ。 か ︵Ⅰの 辣田づ ホい ロ グ や ・㏄ ト 0 ど . 。 白つ ㏄の 曲 ︵ 8 ︶拙稿﹁行為、その多様とその道徳性の多様とに ついて﹂参照。
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︶目の日盤曲
参照。
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ヴィ ョフ の思想 は 、想起されて然るべきであろ , フ 。かれの思想は、ロシア宗教史上、重要である ばかりでなく、 霊性 2 序 説 ウラジーミル・ソロ ブイヨフ 二八五三 | 一九 00 ︶は、十九世紀後半のロシアの優れた哲学者 、宗教思想家、詩 大 であった。かれ ば 、日露戦争の四年前に 、四 十七才の壮年で病残した。死の少し前に 、 p シア は ﹁キリストの大願﹂ ︵ ll ︶ を 成就しようとつとめない限り、日本によって 滅 されるであろうと予言した。かれは熱烈なキリ スト信者で、ロシア 的な神人の理念を奉じ、神人社会の建設を念願 した。高雅な宗教的人格から出る思想と精神は次 代 に影響をあたえ ︵ 2 ︶ た 。ラドロフは、ソロヴィ ョフ をトルストイ と比 肩して普及されるべき思想家であったといつた 。ソロ ブ 7 ョ フ の 葉 績は多方面におよんだ。ロシアの新口学者フラン クは 、かれを哲学者、神学者、独自な神秘 家 、予 言者、道徳の師表、 政治思想家、詩人、芸術批評家であったといった 。だか、ソロヴィ ョフ のかかる多様性の底に 、 古木 教的 直観とキリス ト 信仰とが一貫していたとおもわれる。かれの 思 想は 、二十世紀初頭において、ロシアで唯物論 の 隆盛に反対する 風 潮 が生じたときに、大きな感化をあたえた。 ま た 、かれの神人の理念は、最近物故した著名な ロ シア の思想家ベルジ ヤエ フによって 、 大きく ぅ けつがれた。精神の光 がともすれば消えようとする今日、ロシア的 霊 性の光源であるソロ ( 21 )
ウラジーミル・ソロヴィ
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点
(22)@ 22クラジーミル・ソロヴィ ョ では、真のロシア宗教精神は奈辺にあるかと ワ 問題にうつろう。而して、ソロ ガ イ ョフ の歴史 的 位置 ず けを試み よう。 ︵ 6 り ロシア正教会は、一見、受動的にみえるが、 ョハ ネ 神秘主義に淵源する黙示性を宿している。 十 一世紀中葉以来、 ロシア教会は、教会分裂によってローマ ック 教会から分れた。当初のキエフ時代の社会 生活や政治にほ西欧 2 註 ︵ 4 ︶﹁正教神学研究会﹂二九六三年六月一日︶に おける、樋口俊、大越兼三、牛 丸 東夫 氏 等の討論によ る 。 - 未 公刊︶ - 二 リ ︶円仁ゆの口の中 0 Ⅱ ぺ 。 ド Ⅰ けづ ず一 -0 ㏄。で オヒ ① 0 ずⅡ ホ 甘のコ口。 の コ カ目のの ず @Z ず 0 下のいのⅡ 伍 ずの︵ b 。︶の 註 。 つつ 想 訳思 、 士可 の な 認識しかもっていない。ロシア正教の深い 精 神 、根源的なロシア精神を探究することは、希望 にあふれる新時代の 人々の欲求であろう。ロシアの宗教哲学はたし かに、同民族の小説や詩ほどにほ人気がないが、 民族が偉大な言葉を 語る場合は、通常、古木 教 的言葉で語るのであり、 ロシア宗教思想こそ、世界におけるロシア人の 使命の根底に胚胎 す -55 ︶ る 。﹂ ポーンも、つぎのようにいっている。﹁ロシア いっている注目すべきであろう。 0 間 題は 、現世代の世界的課題である。われわれ ほ 、この偉大な民 族を無視することは出来ない。なんとならば、 一 九一二年に、ベルジ ャ エフがすでにいっている ように、ロシア およ び 東洋と西洋は現世代をゆり動かす世界的課題 である。われわれは、しかし、ロシアの宗教思想 ほ ついて非常に皮相 た ねち、 正統派か 最近、 れている ろ う 。 な 十九世紀より二十世紀にかけての自由宗教思想 家ノ已 卜ロ ブ 、ソロ, ヴ 4 ョ フ 、ベルジ ャ エフなど の 思想や 、 らぽ 、それほど評価されなかった 聖 セラフィ ム などの精神において、とりわけ、輝いたとおもわ れる。 アメリカ合衆国において、東方ロシアの真相を求 めて、ソロヴィ ョフやべル ジ ャエ フなどの研究 がおこなわ と 聞く。合理性のつよいかの国にあって、よう やく、 p シア 的非 ムロ 理 的なものへの関心が高まっ た 結果であ お 、わが国において、現在、一部のロシア正教 研究家が、ロシア的 霊 性の復活の繭しがみえはじ めていると
船 に乗り、能力ある船長の誘導によってそこへ 到ろうとする。新教でほ、めいめいが個々の船に 乗って海をわたる。 的 封建主義の傾向があったが、文化はビザンチ ン 型であった。キエフ時代の開花した文化は 、タ タールのロシア征服 によって破壊された。しかし、ロシア教会の精 神の中にビザンチン や ギリシアの伝統が ぅけっ が れた。ロシア教会の 精神は、最初の聖人であるボリスとグレーブ や、 僧院では 聖 テオドシウスなどの人格に現れた。 この精神的傾向を ケ ノーシス︵卑下しと呼ぶ。それは自己を辱しめる こと、キリストを模倣することでだった。他 人 による屈辱を甘受 し、 世の嘩笑を忍び、それにたいして挑戦しな いことであった。僧院の長老達は、この禁欲的 神 私的な伝統を ぅけつ ぎ 、貧困、沈黙に徹した。神秘的精神的な祈り に 専念した。ロシアの深い精神生活を知る上にお いて、この祈りは 重 要 であろう。ロシアになぜ、 ケ ノーシスの精神 や 、敬虔な冥想的祈りが生じたのであろうか。 ま た 、それに関連があ ると思われるが、極端な禁欲的現象もみられた。 柱 行者 俺往 に住んで、苦行した ぺ 生きながらの 火 あぶりなどがおこ なわれた。宗教者ではない、無神論者 ドプ ロ リ ュ ボ ブ のような人も苦行をなした。こういう 傾 向は 、ロシアの民族 性 に根ざすところが多かったと考えられる。 べ ル ジ ャエ フは、ロシア人は街 往 者であり、地上 には幸福を見出さな いといった。また、 賎 しめられ、辱しめられたも のにたいして限りないあわれみの念を抱き、 罪 人 にたいして異なる Ⅰ ロけ - 態度をとり、高い地位に立ったときに、人民の ために大地へ体を投げつけようとする衝動に駆ら れるといった。いず れにせよ、西欧のムロ 理的 精神では理解し難い性 格が 、ロシア人の中にあるものとおもわれる。お そらく、タタール な どの 異 民族の圧迫、膨大な国土、農奴制などに よって、長期間、拉がれてきたことなどにも 影 饗 されているであろ ぅ 。ともかく、かかる民族性から生じた、卑下、 ア 宗教精神の特色であるといってよかろう。 こ, つ して、ロシアでは義ではない愛のキリスト教が 終末感、神の国待望、復活の意識、聖霊時代へ はぐくまれた。神は の 憧れなどは、ロシ 愛 をもって人間を抱き、人問 は 無心に神にすが った 。神人の暖かい関係が生れた。ソログ イョフ は 、つぎ 小 いように @@ 口 っている。﹁完全に自由で内奥的な神と人間の結 合 こそ、われわれの 向ぅ べき至上の港である。 ほ 教では、人々は 大 ( 24・ 24
しかるに、正教では、人々は 、 既に港にあると 思 ,ワ ﹂︵ 9 0 ︶正教では、神と人間との関係は理くつで はなく、なじめから 融合していたといってよかろう。なお、かかる 神人の関係から、神と人間の仲保者であり、神の 受肉である神人キリ ストにたいするりよい信仰が生じたと考えられる さて、ホミヤコブの﹁霊の共同体﹂、 フヨ ドロフ の ﹁死者の蘇生﹂、ソロヴィ ョフ の﹁万有の神化 ・統合︵万有一如 払沖 ︶﹂などの思想は、いずれも如上の神人関係の 幅広い発展の様態であったといつてよかろう。 神人の作用は、かれ ら 自由宗教思想家運によって 、 個々の人間の救 済から、人類愛、世界・宇宙の変貌へと広がった 0 聖 セラフィ ム も 、 単なる冥想的な祈りを越えて、神人キリストの 祈りによって 、 神と人間との深い交わりを求め 、神力の賦与を期待 し 、聖霊の恵みを 獲た 。神秘的共同体の建設を祈 願 した。 二十世紀初頭において、唯物論の隆盛にたいする 反動が勃興した。一方において享楽主義の風潮 も生じたがハアル ツ イバーセフの コ サーニンしなどが広く読まれたⅠ 真 の ロシア正教を求めよ, つ とする運動がおこった 。ところが正教正統