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送り手と受け手のあるべき姿とは

ドキュメント内 目次 (ページ 160-187)

第 5 章  送り手の課題と受け手の展望

第3節  送り手と受け手のあるべき姿とは

 

     

(1)送り手の課題−無責任体質の解体を目指して− 

 

第2節ではラジオが謝罪を行っていないということを示した。それでは謝罪を行わなか った要因として考えられるものは何であろうか。第2節の最後に指摘した四点と本論文全 体を通して見ることのできるラジオの送り手側の問題点を、謝罪のなかった要因としてこ こにまとめておきたい。 

 

①戦時中の検閲に対する対応や後に出された資料からプロパガンダに対するラジ オのやらされたという受け身の姿勢つまり被害者意識が強く見え、一方で自らが プロパガンダを担ってきたという加害者としの自覚が極めて希薄である。 

②第 3 章で明らかにしたように敗戦直前は玉音放送に向けての準備に全力が注がれ ており、謝罪どころではなった。 

③第 5 章第 1 節で述べたようにラジオには玉音放送によって人々を混乱から救った という自負がある。よって加害者としての意識がますます低下している。 

④同様に第 5 章第 2 節で述べたように戦後の民主化において貢献したという自負が ある。よって加害者としての意識がますます低下している。 

 

これらのことから見えてくることは、送り手側にある自らに対する甘さの面である。そ れは新聞社が社説で述べていた「『己を罪する』の覚悟」のなさとも言える。戦時中のプロ パガンダによってラジオが人々に与えた影響の大きさを充分に自覚し、自らを省み厳しく これを戒める態度がラジオからは感じられない。むしろ玉音放送や戦後の民主化に関わる 番組による貢献を自ら評価する面が全面にでているのだ。 

私はここでラジオに対して「すぐさまラジオは謝罪を行うべきだ」と主張するつもりは ない。それよりもラジオに対して主張したいことがあるからだ。謝罪を怠ったラジオは根 底にある「自らに対する甘えを払拭し、自ら省み厳しくこれを戒める態度」を身につけな

ければならない。そして、謝罪を行っていないという事実もさることながらこれらの態度 が欠如しているということはラジオの無責任体質につながる問題でもある。ラジオの持つ 甘さゆえに責任に対する自覚が軽薄なのだ。 

第2章を中心に述べてきたように、報道ことにラジオは戦争の中にあって国策徹底・戦 意高揚などの役割を通して戦争に多大なる貢献をしてきてしまった。空襲警報としての重 要な役割を加味したとしてもこのことの重大さは決してぬぐうことができない。今後考え ていかなければならない問題として、例えば当時行われたような思想統制をしない・偽り の報道をしないといった報道のあり方に関することが言及できる。けれどもここではそう いった問題を大前提とした上で、それらの根本にあるラジオ側の持つ意識の問題点につい て指摘したいのだ。 

それがつまり「自らに対する甘えを払拭し、自ら省み厳しくこれを戒める態度」を身に つけるということであり、無責任体質の解体である。 

         

(2)受け手の展望−私たちに課せられた責任−

 

けれども然るべき態度を身に着け無責任体質を解体するためにラジオ自身が何をしてい けばいいのか、というのは非常に難しい問題だ。数十年にわたって払拭されることのなか った甘さをいかに変えていくのかは簡単に提示できることではない。それだけに内部から の変革は困難を極める。 

第 2 章第 3 節で述べたように当時のラジオにもプロパガンダに対して疑問を抱き実際に 抵抗を行った人物がいた。しかし内部にこのような人がいたとしても全体はそう簡単に変 わるものではないのだ。 

 

そこで送り手側の視点ではなく受け手側の視点からこの問題を解決する糸口を見つけ出 していきたいと思う。ラジオ内部からの働きかけが難しいのなら、ラジオ聴取者である受 け手がラジオに対して外部から働きかけることができないだろうか。これまではラジオが 謝罪を行っていないのではないかという仮説的課題を軸に玉音放送の送り手側の問題点を

指摘してきた。ここからは逆に受け手側である私たちラジオ聴取者の問題点について考え ていくことで、ラジオの態度の変容と無責任体質の解体の糸口を見つけ出したい。 

第 3 章で玉音放送を「送り手」の視点から、第 4 章では「受け手」の視点から捉えるこ とによってより意義のある研究を成してきたことを踏まえて、送り手であるラジオの問題 点のみを指摘するのではなく玉音放送を巡って見えてきた受け手側の問題点を見つけるこ とで、ラジオに働きかけることができないだろうか。 

そこで受け手の問題点に関しては三つの点を指摘したいと思う。まずは情報に対する判 断能力についてである。そしてこれを具体的に実践するための方法として情報に対する議 論の必要性についてと近代史教育の欠落について述べたい。 

   

①情報に対する判断能力 

戦時中のプロパガンダによって戦意高揚・国策徹底という目的に即した偏った情報・嘘 の情報を送り手が送り続けた。送り手の問題点を指摘する一方で深く考慮しなければなら ない点は、これを受ける受け手の対応である。一方的に情報を受ける立場にある受け手が これらの情報が本当かどうか、必要な情報であるかどうか判断する能力を身に着ける必要 があるのだ。受けた情報をそのまま信じて鵜呑みにしてしまわない、ということだ。 

これに関してはハードレイ・キャントリルが『火星からの侵入』(註 13)という著書の 中で非常に興味深い研究を行っている。これは 1938 年 10 月 30 日にニューヨークから放送 された「火星人来襲」というラジオドラマを聴いた人々およそ 600 万人のうち、本当に火 星人が来襲したと勘違いした 100 万人近くの人がアメリカ中でパニックに陥った出来事に ついて研究したものだ(註 14)。「こんなにも多種多様な階層の人々が全国各地の人々が急 激にしかも徹底してこの夜ほど混乱状態に陥ったことはおそらくかつてなかっただろう。」

と言われるこの出来事についてキャントリルはパニックに陥った人々に対するインタビュ ーによってその原因を分析している(註 15)。 

 

まったくびっくりだったよ。あたしは荷造りをし、子どもを腕にかかえ、

友だちを集めてクルマに乗りこみ、ともかく北へ向かってできるだけ遠くへ 行きたいと思ったのさ。      (50 頁より引用) 

 

ラジオを聞いているうちに、だんだん興奮してきました。あたしたちはみ んな、この世が終わりに近づいていると思いましたの。 

(55 頁より引用) 

 

11 時にあれがドラマだと放送したのを聞いたんです。本当に晴ればれした 気持ちでした。まるで重荷がとれたような感じでした。  (56 頁より引用) 

 

僕はスンナリとこれが本当のことだと思いました。他に考えようはありま

せんよ。       (67 頁より引用)        

   

このようにパニックに陥った人々はこのラジオドラマが実際の出来事であると信じて 疑わなかった。キャントリルはラジオ聴取者を情報に対する判断能力の程度により、①番 組の中の手がかりからそれが本当ではないと考えた者、②それがドラマであることをチェ ックすることに成功した人、③番組の真偽をチェックすることに失敗して、結局ニュース

だと信じ続けた人、④何の疑いもなく放送をニュースだと信じた人々、の四つに分類した。    

そして受け手側にもたらされた情報をそのまま「現実」として受け取る文脈が存在して いたり、また情報に「批判的」に接する判断基準を持つ機会や能力に欠けている場合に、

パニックが現出することを指摘している。 

もちろん戦時中は国家の一方的な押しつけが堂々と行われていた時代であって、他の情 報を得るすべもない状況であるから情報を判断すると言っても簡単なことではない。けれ ども受け手である私たちはこのように情報に対してそれを読み解く力を養っていかなくて はならない。特に現代においては情報が多い時代であるからよく吟味し選択しながら判断 をしてく必要があるだろう。 

いずれにしても情報を正しく判断するため持っておく基本姿勢として、情報を鵜呑みに せずに批判的に接することが必要であると言えるだろう。ここに新聞への投稿記事を紹介 したい(註 16)。 

   

 

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