第3章 「送り手」側からとらえた 玉音放送
第1節 「終戦の詔勅」作成に向けて
(1)意志決定とその経緯
1945 年 7 月 26 日、ポツダム宣言(註 1)が発せられた。これを受けて日本側では受諾 するのか否か、国体護持は一体どうなってしまうのか等を巡っての話し合いが持たれてい くことになるが、本論文はあくまでもラジオ放送そのものに焦点をあてて論じているため、
ポツダム宣言受諾にまつわる経過についてはここでは取り上げない。よって、ポツダム宣 言受諾がどのように決定されていったのかではなく、あくまでもそれ以前と以降の玉音放 送に関係する対応の仕方の決定について重点をおいてみていきたいと思う。すなわち日本 の敗戦を人々に伝える方法を玉音放送にすると決定したのはいかにしてであったのかにつ いて玉音放送の送り手側の視点からみていきたい。そうすることでラジオに掛けられた期 待の大きさを描き出していきたい。
以下は玉音放送を用いることの決定および録音にむけての準備までの流れである。
(なお、「いかにして玉音放送が決定されていったのか」について直接的に重点となる 部分には下線部をつけた。)
8 月 1 日 久富達夫情報局次長が下村宏情報局総裁に「天皇自らがマイクの前に立ち国民 に終戦を宣言することが一番いい方法ではないか」という提案をする。下村はこ れに賛成し、その旨を自分が天皇に直接申し出る意志を示す。
8 月 6 日 午前 8 時 15 分、広島に原爆が投下される。
8 月 8 日 ソ連が参戦する。下村情報局総裁が天皇のもとに出向き、玉音放送についての 意見を伝える。天皇はこれを受けて必要があればマイクの前に立つ意志があるこ とを示す(註 2)。
8 月 9 日 午前 11 時、長崎に原爆が投下される。鈴木貫太郎首相(註 3)と木戸幸一内大 臣が幾度も会見をもつ(註 4)。
8 月 10 日 9 日の夜から 10 日の明け方にかけて御前会議が行われる。午前 3 時の臨時閣 議で政府は「国体護持」を条件としてポツダム宣言を受諾することを決める。い わゆる天皇の「ご聖断」。
しかし陸軍部は最後までこの決定に反対し徹底抗戦を主張していた。その様子も含め、
ポツダム宣言受諾の決定を人々に知らせるためにはどのような手段をとればいいのかにつ いて懸念されていた様子がわかる資料として「昭和 20 年 8 月 15 日(終戦と放送)」と題さ れた座談会の様子をここに引用しておく(註 5)。
島浦:そうするとこの結果(註 ポツダム宣言受諾のこと)をどうして全国 にしらせるかが問題だ。下村総裁がそれを談話の形で放送しようとし たら、主戦派の陸軍も阿南陸軍大臣談話で対抗したというわけですね。
迫水:まだご聖断がくだったということをいうわけにいかないから、国体が 護持せられ、皇土が保衛せられたら、それで大東亜戦争の目的は達し たんだというような、漠然とした趣旨の情報局総裁談を放送するつも りだったのに、あくまでたたかうという陸軍大臣談が出た。実際困っ たね。
(日本放送出版協会、1990、『[放送文化]誌にみる 昭和放送史』、
日本放送出版協会、51頁より引用)(註)は筆者
(島浦=NHK サービスセンター副理事長 島浦精二氏。迫水=衆議院議員 迫水久常氏。
1945 年当時、鈴木貫太郎内閣の書記官長。)
このように相対する主張がなされた談話がこの日の午前7時と 9 時のニュースで放送さ れた。(註 6)天皇の聖断によってポツダム宣言受諾が決定されたとはいえ、全ての関係者 が素直に納得したわけでは決してなかったことがわかる。いくら総裁が天皇の聖断を受け ての放送をしようとも、陸軍の意志は決して変わることがなかった。それどころか人々を 混乱させる恐れがあろうとも、天皇の聖断に対抗して徹底抗戦を主張する談話を強引に放 送させるほどのありさまだったのである。
敗戦を伝えることによって人々が大混乱を起こしてしまうのではないかという懸念と ともに、このように徹底抗戦を主張し続ける陸軍をいかに鎮めるかということも、いかに して敗戦を知らせるかの手段を考えるにあたっては重要であったように思われる。
一方で外務省は直ちに中立国のスイス、スウェーデンを通じて連合国側にポツダム宣言 受諾を通告。同時に、外務省次官松本俊一らは連合国への申し入れの内容を、極秘のうち に海外放送と同盟通信社の通信に乗せるように手配。よって午後 8 時の海外放送と同盟通 信社の海外向けモールス通信は、日本での正式発表である玉音放送を前にして既にこの時 点で日本のポツダム宣言受諾を世界中に伝えた。
8 月 11 日 下村情報局総裁が木戸内大臣を訪問した後、木戸が天皇のもとに出向く。さら にその後木戸が石渡宮相に「勅語をラヂオにて御放送被遊ては如何」との申し 出を行う。もう一度天皇のもとに出向き「ラヂオの件其他を言上」し、天皇は いつでもラジオ放送を行う意志があることを示す(註7)。
8 月 12 日 サンフランシスコ放送で「天皇と日本政府は、降伏のときから連合国最高司令 官の制限下に置かれる」と放送した。これは国体護持の条件に対する回答とみ なされるものである。
8 月 13 日 閣議と最高戦争指導会議構成員会議で陸軍などはなお戦争継続を強く主張した。
このように玉音放送の2日前(終戦の詔勅の発布は 14 日なので事実上は正式決 定の1日前)になっても意見は一致を見せず、いかにこのときの状態が緊迫し たものであったかがわかる。無事に放送が行われなおかつ日本が敗戦を受け止 めることができるのかまさにぎりぎりの状態であったのだ。
8 月 14 日 最後の御前会議で再び天皇の聖断によりポツダム宣言受諾が正式決定した。
さらにこの席で天皇は終戦についての反対意見を聞いた後でこのように述べて いる(註 8)。
「この際私としてなすべきことがあれば何でもいとわない。国民に呼びか けることがよければ私はいつでもマイクの前に立つ。一般国民には今まで何 も知らせずにいたのであるから、突然この決定を聞く場合動揺も甚しかろう。
陸海将兵にはさらに動揺も大きいであろう。」
(下村海南、1985、『終戦秘史』、講談社、141 頁より引用)
この発言に対し迫水久常はこのように回想している(註 9)。
迫水:われわれは 8 月 14 日の御前会議の席上で、初めて陛下から放送してよ ろしいとおっしゃったので、非常に恐懼したんです。
(日本放送出版協会、1990、『[放送文化]誌にみる 昭和放送史』、日本放送 出版協会、53 頁より引用)
この回想からもわかるように天皇が正式な場で自ら放送する意志があることを告げた のがこのときであったと言える。そして今からは想像し難いことであるがやはり天皇が放 送するということは「非常に恐懼したんです。」とあるようにたいそう恐れ多いことだった のである。
そしてこの日の午後1時すぎに情報局は大橋八郎放送協会長を呼び出し「終戦の詔勅を 天皇陛下が放送する。直接な まか録音かまだわからない。決まったら連絡する。至急準備せよ」
という伝達を行った(註 10)。なお、放送は審議の結果直接の放送ではなく録音によって おこなうことに決定した。
このように玉音放送を行うに向けて、書記官長迫水が終戦の詔勅の原稿を書くことにな ったが(註 11)、その間に終戦の詔勅の字句について政府内部で異論があり表現をどのよ うにするかなどが検討され訂正箇所は40箇所近くにおよんだという(註12)。詔書の内容 は10日の御前会議で天皇が述べた言葉を中心に14日の言葉も多少補充しながら書かれた。
こうして長い時間をかけ検討された末に詔書は午後8時半頃にようやく完成した。その 後佐野内閣書記官が清書を行い、すべての閣僚の署名が終了したのが午後 10 時を過ぎ、
天皇が御名ぎ ょ め い御璽ぎ ょ じを書き公布の手続きが終わったのが午後11時頃(註13)。こうして終戦の 詔勅は8月14日付けで発布されたのである。
14 日の御前会議における「国民に呼びかけることがよければ私はいつでもマイクの前に 立つ。」という天皇の発言はやはりこれまでにみてきたような久富情報局次長・下村情報局 総裁・鈴木首相・木戸内大臣らの計画と天皇への働きかけがあったからこそのものである ということができる。天皇のアイディアによって玉音放送が行われたのではなくこうした 周囲の人物の思いによって実現されたものなのだ。日本の敗戦という国民を大混乱に招き かねない事態をうまく国民に伝えるには、天皇自らの肉声=玉音によって伝えることがも っとも有効的であると考えられたのであった。
それと同時に最後まで徹底抗戦を主張し、その談話を強引に放送させたというエピソー ドにもあったように、軍内部のとりわけ陸軍の反対者たちもうまく押さえ込まなければな らなかった。この両者の意味において天皇の玉音がいわば有効的に「利用された」という ことができるだろう。最終的には天皇の決断によって玉音放送が決定されたわけであるが、
あくまでも周囲からの根回しがあった上での決断だったのだから、良くも悪くも天皇は利 用され、その結果は良い方へと向かっていったということができるだろう。
最後に下村情報局総裁のもとで行われた玉音放送に関する綿密なる検討が述べられて いる文献『終戦秘史』(註 14)を竹山昭子がその著書『戦争と放送』の中で明確に要約して いるのでそれを以下に引用しておく(註 15)。
・詔書の真意徹底のためには天皇による放送が絶対条件。
・詔書の即時、全国・全世界に通達するために新聞より放送を優先させる。
・国民の聴取を徹底させるためには予告放送が必要。