第 5 章 送り手の課題と受け手の展望
第2節 仮説的課題の検討
(1)敗戦後の新聞の対応
ラジオの謝罪について触れる前に、まずは新聞社が敗戦後どのような対応をとったのか を見てみたい。放送同様に政府による検閲を受けながら紙面づくりを行っていた新聞社に はどのような対応があったのだろうか。新聞の戦時中の検閲については山中恒がその著書
『新聞は戦争を美化せよ!』(註7)の中で詳しく書いている。当時の情報局による新聞へ の検閲実態の全容を未公開資料の分析などによって明らかにしたものだ。当時の軍部や政 府がどのような記事を差し止め、どのような指示を報道機関に出していたかがわかる内容 になっている。それでは新聞の敗戦後の対応について二つの例を取り上げたい。
朝日新聞 1945 年 8 月 23 日 社説「自らを罪するの弁」
朝日新聞は 23 日の社説に以下のような自社の見解を示した。
(略)思ふに事志と違って邦家が今日の悲運に立到つたについては、天の時、
地の利ともに因をなしているとはいへ、人の和についてなほ遺憾な点があっ たことは否めない。然らばこの点に対する責任は、決して特定の人々に帰す べきではなく、一億国民の共に偕に負ふべきものであらねばならぬ。さりな がら、その責任には自ら厚薄があり、深浅がある。特に国民の帰趨、輿論、
民意などの取扱に対して最も密接な関係を持つ言論機関の責任は極めて重 いものがあるといはねばならない。この意味において、吾人は決して過去に おける自らの落度を曖昧にし終らうとは思っていないのである。いはゆる
「己を罪する」の覚悟は十分に決めているのである。過去における周囲の情 勢と、その間に拠し来つた吾人自身の態度とについては、多くの場合、止む
を得ない事情もあり、それぞれ一定の理由も説明せられないでもない。しか し今となってみれば、吾人の為すべき道は外になかったかどうか、仮に外に なかったとしても足の運び方は今一工夫あって然るべきではなかったかど うかを虚心坦壊に省る必要があるのである。
冒頭に一億総懺悔の考えを主張してはいるものの、それでも特に言論機関の責任は極め て強いことを述べ、新聞社自らの責任を明確にしている。更に今後取るべき対応について も落度を曖昧にしてしまわないこと、他にとるべき道がなかったのか省みること、という 具体的な指針を述べている。この社説は戦後の混乱の中にあって実に鋭く誠実な対応であ り、報道機関としての責任と謝罪を現したものの一つとして評価に値するのではないだろ うか。一つ加えるならば、人々に多大な影響を与えてきたことに対して直接的な人々への 謝罪がない点が指摘できるだろう。
毎日新聞西部本社版 1945 年 8 月 15 日〜18 日 2 面は白紙
毎日新聞西部本社版の紙面では敗戦から 3 日間にわたって全 2 ページの紙面の内、1 面 には終戦の詔勅と公的機関の発表・時事経過のみを記載し、2 面は白紙で発行を行った。
白紙にすることを決めた高杉孝二郎編集局長はこれについて「その日まで戦争を謳歌した 大新聞の責任、これは最大の形式で国民に謝罪しなければならない」(註 8)と述べている。
この「白紙」という対応は謝罪としては異例の対応ではあるが、責任を感じ謝罪をしよう とする思いが強くあるもののどのような形が最善であるかがわからずにとられた方策であ るように感じられる。この対応にも新聞社の責任と謝罪の気持ちが伝わってきたのでここ に紹介した。
なお朝日新聞、毎日新聞は社長以下重役と編集幹部が総辞職をおこなっている。
(2)謝罪の検討−ラジオは 謝罪 を行ったのか?−
一方でプロパガンダとして戦争に加担してきたラジオの対応はどのようなものであった のだろうか。「ラジオはプロパガンダとして戦争に加担してきたことに対する謝罪を行って いないのではないか」という仮説的課題を検討していく。
新聞は自らの紙面を使って対応をしたが、ラジオは玉音放送直後の番組の中で謝罪に関 する放送は一切行っていない。それは第 3 章第 3 節で明らかになったとおりである。よっ て番組以外の手段から謝罪を見つけていきたい。ここでは戦争中の政府の検閲に対するラ ジオの対応を合わせて見ながら、それを踏まえて戦後の「謝罪」について検討していく。
戦後の謝罪を検討するにあたっては以下の3点に着目しつつ進めていきたい。
① 新聞の対応を参考にしつつ、「謝罪」という言葉の条件をここでは以下のようにする。
「第一に事実をきちんと認識していること、第二に形だけではなく真に反省しているこ と、第三に正式な形としてラジオの受け手に対して謝罪が行われたこと、第四に反省を 踏まえた今後の展望を述べていること」本論分ではこの四点を共に含んで謝罪としたい。
更に、戦時中のプロパガンダにラジオがどのような態度で取り組んでいたのかという ラジオの姿勢にも着目して謝罪を検討したい。なお第三の「正式な形」とは公の場での 代表者からの言葉や放送協会としての公文書の中での記述などのことを指す。
② 謝罪が敗戦後すぐ、即ち玉音放送直後に行われていなくては意味ある謝罪とは判断し ない。玉音放送という前代未聞の大放送が行われた直後、放送界が混乱の中にあったと きにこそ放送側の態度の真意が問われるのではないだろうか。戦時中のプロパガンダを 強いられて自分の意に反して悔いながら行っていたのだとしたら、混乱の中にあっても まずは謝罪に向けての何らかの動きをするのではないだろうか。放送界が落ち着いてか ら後日的に行われるのではなく、戦争の終結直後に真っ先に行われた放送界の取り組み が謝罪であってほしいという希望を半面に抱きつつ検討したい。
また第5章第2節で述べるように新聞社の謝罪が8月15日と23日に行われていたと いう事実に基づいて、玉音放送「直後に」謝罪が行われたかどうかという点に意義をも って検討していきたい。なお「直後」とは何日以内なのかという規定はしないが、玉音 放送から数ヶ月または数年後の謝罪と数日中の謝罪とではまるで重みが異なると考える。
③ 謝罪があったかどうかを調べる資料としては放送協会が発行している『ラジオ年鑑 昭和18 年』、『ラジオ年鑑 昭和22年』と『20 世紀放送史・上』を用いる。放送協会 自身が作成した資料から調べることで、当事者がどのように戦時中のラジオの歩みを評 価しているのかまたその対応をどのように行ったかを如実に知ることができると考える からだ。これによってより一層謝罪についての検討が意義あるものとして行われるだろ う(註9)。
「戦中の検閲に対するラジオの対応」からみる
第2章第2節と第3節で詳しく述べたようにラジオは戦中に検閲を受けていた。この検 閲に対してラジオはどのような対応をとっていたのだろうか。ここでは検閲を一つの事例 として、これを通してプロパガンダに対するラジオの姿勢を検討していきたい。果たして ラジオはメディアとしての役割や人々に多大なる影響を与えるという責任を感じてこの検 閲に対して抵抗をしたのだろうか。制約がある中にあって少しでも真実を伝えるために何 らかの努力をしたのだろうか。検閲の目を潜り抜けて何か策略を立てたのだろうか。
しかし実際のラジオは検閲に対して決して抵抗などはしていなかった。驚くことにラジ オは検閲が厳しくなる中にあって検閲を免れるために事前の自己規制を行っていたのだ。
それは検閲によって削除・修正を指示される手間を省くために行ったもので、自らの手に よる検閲だった。これに関しては『20 世紀放送史』の中にも「軍や逓信省に手足を縛られ ただけでなく、自ら手足を縛ったのであった。」としっかり記述がある。これはまさにラジ オがメディアとしての役割・責任を全く考えていなかった証拠であろう。当時の検閲につ いて言及する際「軍部の命令でやらされていたのだからラジオには責任がないのではない か」という意見を持つ人もいるだろう。もちろん軍部の責任は多大にあるのだが、だから といってプロパガンダに加担したラジオに責任がないとは言えない。戦中にあってラジオ の情報を頼りに耳を傾けていた多くの人々がいたことは事実なのだ。この検閲が逃れるこ とのできない強制力をもったものであっても、ラジオにメディアとしての誠実さがあった のならば少なからず抵抗があったのではないか。その抵抗が結果的には失敗であったとし ても、放送のプロであるはずの関係者が知恵を出し合い少しでも検閲を逃れる努力ができ