第3章 「送り手」側からとらえた 玉音放送
第2節 「玉音」放送に向けて
(1)天皇の肉声による録音作業
「玉音盤」とは玉音放送で使用した天皇による終戦の詔勅が録音されたレコードのこと をいう。または「録音盤」という場合もある。ここでは天皇が御名ぎょめい御璽ぎ ょ じを書き公布の手続 きを終えた 1945 年 8 月 14 日午後 11 時以降の動きを中心にみていきたいと思う。実際の天 皇による録音の様子に加え 15 日の正午に行われた放送時刻までの間に起こされた、これを 中止させるべく暴動についてもふれ、無事に放送が開始されるその瞬間までの動きを追っ ていく。それによって放送局側の様子をリアルに描き出すことが目的である。
14 日の午後 1 時すぎに日本放送協会の大橋八郎会長が情報局から放送準備の指示を受け て後、午後 3 時には既に皇居の中での録音の準備が完了していた。当初の予定では午後 6 時頃に録音を行うことになっていたようだが、終戦の詔勅の完成が難航し公布の手続きが 午後 11 時頃に終了したために録音も大変おそくになってしまった。
ところで、既にこの日の午後 9 時には「あすの正午から重大放送があるので、全国民は かならず聴くように」という予告の放送が行われている。こうして考えてみると「重大放 送があるのでかならず聴くように」といっておきながらこの段階ではまだ終戦の詔勅の正 式な公布の手続きも、その録音も行われていない状態であったのだ。さらには準備完了か ら何時間にもわたって(午後 3 時から午後 11 時のおよそ 8 時間)今か今かと作業開始を待 っていた放送班のメンバーも想像するに大変な心境であっただろう。
さて肝心の録音のほうはというと、午後 11 時過ぎに皇居の宮内省内務庁舎 2 階政務室で ようやく作業が開始された。(資料7)天皇に声が似ているという戸田侍従がマイクテスト を行った後に天皇による録音に入った。なお当時使用された録音のためのレコードは最大 でも録音可能時間が 3 分であった。終戦の詔勅は全部で 4 分半の時間を要したため、1 枚 のレコードでは収まり切らない。よって 2 台のターンテーブルを使用して詔書は合計 2 枚
のレコードにまたがっての録音となった。すなわち始めから終わりまできちんと聴くこと を考えたとき「玉音盤」というのは 2 枚で 1 組となる。
このように 4 分半におよぶ詔書の録音であったが、終了後天皇の声に震えがあり技師も 言葉に不明な点があるとして、再度録音しなおすことになった。天皇自身も声が低かった ことを理由に取り直しを提案している。こうして計 2 回の録音をもって、作業は終了した。
天皇は更に 3 回目の録音を行うという意志を示したが石渡宮相が「もうよろしゅうござい ます。」と言い再度の録音は行われなかった。すぐにその場で玉音盤を再生し、天皇は帰っ ていった。天皇の退室時刻は午後 11 時 50 分。(資料8)
天皇は 1 回目に引き続いて 2 回目の録音にも納得しなかったということなのだろうか。
おそらく 3 回目の録音を自ら提案している以上、納得しなかったと考えるのが自然であろ う。玉音放送の音源を今聴いてみても、確かに言葉のはしばしにややつっかかる様子をみ うけることができる。これは天皇特有の言い回しにおける「間」として捉えられないこと もないが、例えば「惨害の及ぶ所真に測るべからざるに至る」という件の「測る」から「べ かざる」にかけては明らかにつまっている様子がある。
このようなことをふまえて石渡が再度の録音を断った理由は何なのかを考えてみると、
録音内容に納得したからというよりは「陛下にこれ以上の録音をさせることは申し訳な い。」という思いであったのではないだろうか。申し訳ないということの中には神である天 皇にこれ以上の手数をかけることは「恐れ多い」ということと、日夜続いている緊迫した 会議、そして現在の時刻も夜中であるということもあって天皇の疲れを「気遣う」という ことの両方がおりまざっていて、そうした上での「もうよろしゅうございます。」という発 言だったのではないかと推測する。
一方でこの録音を隣の部屋で聞いていた山岸情報局放送課長は当時のことを振り返って
「陛下のお声のトーンの高低がひどいので、うまく録音がとれるのかと心配しました。」と 述べている。このように実際に録音がうまくいっているのか心配になるほどの天皇の声の 調子であった(註 19)。
ただし前述したように天皇の言葉には確かに多少のつっかかりが認められるが全体とし てそのために何を言っているのか分からないということはない。「高低がひどい」というの は天皇の緊張や言葉のつっかかりに由来するもではなく、天皇特有の言い回しからきてい るといってよいだろう。私たちが普段使っている喋り方と比べると詔書を読む天皇の声に は不自然なほどに抑揚がついている。例えば詔書の中で何度か使われている「臣民」という
言葉をとってみても印象的なまでの抑揚をつけて発せられている。天皇の声の抑揚という のは送り手にとってもまたそれを聴き取る受け手にとっても難解さと印象深さを与えたで あろう。
以上述べてきたようにして録音作業は行われた。ここに「天皇による終戦の詔勅の録音」
という点において誰にとっても初めての経験であったこの録音作業に立ち会った人々が誰 であったのかを記しておく。
放送に立ち会った人々
・ 石渡宮相 ・藤田尚徳侍従長 ・下村宏 情報局総裁
・加藤祐三郎第一部長 ・山岸重孝情報局放送課長
・川本信正秘書官
(四侍従)
・ 三井 ・戸田康英 ・徳川 ・入江
(日本放送協会)
・大橋八郎会長 ・矢部謙次郎国内局長
・荒川大太郎技術局長 ・近藤泰吉現業部副部長
(技術者)
・ 長友俊一 ・春名静人 ・村上清吾 ・玉虫文一
次に録音が無事に終了してから 15 日正午までの間に玉音盤がどのような運命をたどり 放送に行き着いたのかについてみていきたい。
玉音盤の保管は徳川侍従が担当し、皇后宮事務官室の軽金庫に保管しておいたという。
録音班の人々は録音直後に外に出たところで玉音放送を阻止しようと企む兵隊によって捕 らえられ衛兵所に入れられてしまった。そこで軟禁され朝になってようやく釈放された。
中には録音した部屋を案内させられ弾丸をこめた銃を突きつけられながら玉音盤の行方を 問われた者もいた。結局皇后宮事務官室に保管してあった玉音盤は奇跡的にも発見される ことから免れたのである。
これらは陸軍省軍務局の畑中健二少佐ら一部軍人によって企てられたものであった。彼
らは終戦の決定を知り、近衛師団長森赳を射殺したうえ、偽物の師団長命令を出して戦争 を継続する為に天皇の玉音盤を奪い放送局を占拠しようとしていたのだ(註 20)。けれど も結局は玉音盤を発見することができなかった。
そこで彼らは内幸町の放送会館(玉音放送はもちろんここから放送された)を 15 日午前 3 時半に占拠した。近衛第一連隊の一個中隊がピストルをかまえて報道部やスタジオに入 ってきたために宿直していた職員は第一スタジオに集合させられる。畑中少佐は柳沢副部 長にピストルをつきつけ、午前 5 時に「戦争継続」を全国放送させるように要求した。ち ょうどその時に東部軍情報が流れていたので、保木玲子技術員は「今警報発令中なので放 送は全部東部軍でやっている。ここからの放送はできない。」とこれを拒否した。今度は館 野守男放送員(アナウンサー)にピストルをつきつけ放送を要するがこれも拒否される。
このような緊迫したやりとりが繰り返されるが結局は全て拒否され反乱軍は放送を断念し 引き揚げていった。
この占拠事件によってこの日の放送は通常より 2 時間あまり遅れて午前 7 時 21 分によう やく始まった。そして「同日正午から重大発表あり」という予告の放送が館野アナウンサ ーによって行われた。この予告放送の内容によって玉音放送を多くの人々が聴くことがで きるようにととられた処置を知ることができるので、その予告内容を詳しく見てみたいと 思う(註 21)。
謹んでお伝えいたします。畏きあたりにおかせられましてはこの度詔書を 煥発あらせられます。畏くも天皇陛下におかせられましては本日正午おん自 ら御放送遊ばされます。洵に恐れ多き極みでございます。国民は一人残らず 謹んで玉音を拝しますように。なほ昼間送電のない地方にも正午の報道の時 間には特別に送電致します。又官公署、事務所、工場、停車場、郵便局など におきましては手持ち受信機を出来るだけ活用して国民もれなく厳肅なる 態度でかしこき御言葉を拝し得ますよう御手配願ひます。ありがたき放送は 正午でございます。なほ今日の新聞は、都合により午後一時ごろ配達される ところもあります。
(茶園義男、1989、『密室の終戦詔勅』、雄松堂出版、187〜198頁より引用)