第 2 章 起
占本章では彼女の産業・経営統合論の起点に据えられるべき人間観とそれを基 にした基本論理を示す。その際,付言しておかねばならないのは次の
2
点であ る。第一に,当然のことながら,この基本論理の抽出はわれわれの問題関心にそっ た一つのありうる解釈を示すものにすぎないということである。第二に,以下 の叙述においては,彼女の基本論理の抽出とその歴史的基盤,現実適合性の叙 述を意識的に節によって区分した。それは,彼女の論理をそのまま内的整合性 にそって把握し:構成する際に現実適合性の評価を混入させることによって彼女 の論理構成自体の統一性や内的矛盾の検証があいまい化するのを避けるためで ある。なお歴史的基盤については第
3
節で言及される。第
1
節 組 織 形 成 の 論 理起点と方法
1
c .
バーナードの言うように 1)組織論の検討の際にはその基盤とする人間観 を始めに検討するのが適切であろう。ここでは,フォレットの人間観を,テイ ラーのそれとの対比において検討し,二点ほどその特質を抽出する。第一点は,動機論についてである。テイラーの「科学的管理法」におけるい わゆる功利主義的仮説は有名である。「自らの生活を通じて,テイラーは高賃金 こそ管理者が労働者の協力を獲得することのできる最も効果的な手段である,
とL、う信念に固執していた
f )
幻)そして,テイラーの人間観における動機論が基本的に賃金刺激を重視すると いう意味での功利主義的仮説であるとするならば,フォレットの組織論におけ る動機の中心は, I人間の力の発展」にある。それゆえ,その点を無視すれば当 然反抗が生ずる。「労働者側が反抗する理由は,経済学者が説明するような金で もなく,また心理学者が言っているような自尊心の本能などでもない。基本的
142 IV 産業・経営の統合論へ
な宇宙の法則は,生命の増大であり,人間の力の発展であるということである」
[D
A. p.5 2 ( 2 5 0
頁) J
。もちろん,賃金要求も否定されることはないが,それ は非常に限定した意味しかもち得ないとされる。3)以上のようなフォレットの動機論上の特質を第ーとすれば,第二には,諸個 人の能力についての考え方の相違を,見いだすことができる。
科学的管理法の基本的な「人間的要因」へのアプローチは, Iあらかじめ設定 された課業への適応能力を問題にするにすぎなかった」九労働者は,迅速に言 われたとおりのことをなすことが期待される。
これに対してフォレットの組織論の前提は,I自分自身の生活を自分で支配し たいとL、う気持ち」が「あらゆる人間の心の中にある最も根本的な感情の一つ」
[DA
, pp.32‑33 ( 8 8
頁) J
であり,そのうえ「たとえ万一非常に些細であろう とも,ほとんどすべての人聞はある程度の管理能力を持っていることが承認さ れるべきであるJ[DA, p.5 7
(12 1
頁) J
という点にある。だから,計画と執行,管理と労働とは絶対的には区別され得ないことが強調される。それゆえ, I一組 の人聞が計画の全部を行ない,他の人聞が執行だけを全部行なうといったこと」
はないのである
[DA
,p.5 9 ( 1 2 4 ‑125
頁) J
。さて,以上の二点,すなわち,動機及び能力についての科学的管理法からフォ レットへの人間観の転換をふまえたうえで彼女の組織論をみると,その組織く形 成〉的視点引が浮び上がってくる。すなわち,自己発展の動機を持ち,計画,管 理能力を持った複数の人間たちがその基底に据えられ,彼らが自らその能力を ひき出し,互いに調整し,関係づける過程,状況に対応し創造的に働きかけ統 一的に力を産出してL、く過程として,組織は位置づけられる。もちろん,この 組織観は,基本的に彼女の地域統合論における自治的組織観の継承といってよ い。彼女のこの組織像を,われわれは彼女の言葉に従って「集合的自己統制
( c o l l e c t i v e s e l f ‑ c o n t r o
l)J[D
A. p.2 7 3 ( 4 2 3
頁) J
の過程としての組織像とい うことができょう。2
この組織参加者によるく形成>=I集合的自己統制」過程としての組織像を展 開させる前に,彼女の 叙述の方法"について言及することが必要である。
第2章 起 点 143 彼女は,自らの組織像を単なる生の規範としてうち出すのではなく, Iおそら くあり得ること
J I
多分そうなるであろうことJ ( w h a t p e r h a p s may b e ) [DA
,p . 5 ( 4 8
頁)]として,すなわち現実に内在する可能性の抽出として,示そうとした。6)
このことは,フォレット解釈の二つの方向を生む。第ーに,彼女の組織像を 既存組織の動態的過程的側面の認識として読む方向である。チャーチ流の組織 制度論に対する組織過程論の主張として読むのである。この意味では,一方で,
既存制度の固定的構造の本質的に状況的な性格の自覚,さらに言えば,フィク ション性の自覚にも連なっている。次に,第二の解釈の方向では,彼女の組織 像をすぐれて変革のための像として読む。この意味では,先の組織構造のフィ
クション性の自覚は,組織変革の可能性の自覚であって,これを基にしたある べき組織像の潜在的あるいは明示的提示こそが,彼女の組織論の核心というこ
とになる。
この二つの解釈方向は,フォレット組織論そのものの内に含まれるもので あって,その意味では,解釈者のフォレット組織論に対する問題関心に依存し ている。われわれとしては,さしあたり後者の解釈をとりたし、。それは,第ー に,すでに,前章で言及した
I V
でのわれわれの視角による。第二には,彼女の 組織論の形成にとっての価値命題の構成的な介入を,われわれが重視したいと 考えるからである。この点については若干の敷桁を要しよう。彼女の組織論がその中に多くの価値命題を含んでいることは,明らかである。
彼女が「原則」などを提出する時,価値命題,規範命題の主張がなされている ことは容易に見てとることができる[例えば
DA
,p . 2 6 2 ( 4 0 8
頁〉以下]。また,彼女が,
I
事実」として述べる場合でも,I
賢 明 な 経 営 者J[FC
, p.6 8 033
頁)],I
優秀なセールスマンJ[DA
,p . 1 5 ( 6 2
頁)]などの例が語られる場合も 多く,この場合には,もちろん,その叙述の中に価値命題が容易に混入してく る。このような彼女の明らかな価値命題の主張を,事実と価値の峻別の立場から 価値命題の無原則的混入として非難することも可能であろう。そして,彼女の 業績の検討の際も,そのなかから事実命題を意識的に分離してその実証的検討
144 IV 産業・経営の統合論へ
を行うことも可能であるし,またその必要もあろう。しかし,われわれとして は,彼女のもつ価値的立場が,どのような形で構成的に介入して,後に「予言 者的
J
7}(H. R.ポラード〉とさえ言われる現実適合性を持たらしたのかに関心 がある。今村のいうごとき8)Iバーナードに始まる現代組織理論へと一直線に つらなる鋭さをもちJ,ホーソン実験で明らかにされた事実を「完全に予期され た事実」たらしめたフォレットの視角の現実性の存在は,その現実性にもかか わらず価値規範が外在的に導入されてしまい「ユートピア的」叫(水口憲人〉性 格を持つに至ったというよりも,その逆に,まさに彼女の実践的価値規範の存 在・導入自体が彼女をしてその先駆的現実性を生み出さしめたという視角から 検討される必要があると思われるのである。この意味からも,われわれは,先 の解釈の二方向のうち,後者の方向をとることが有意義であると考える。われわれは,先の事実的かっ価値的命題で、ある彼女の人間観を出発点として,
その「集合的自己統制」過程がどのように論理的に展開し,現実の企業組織と いかなる形で交錯していくのかを追求しよう。以下の叙述は,この方法による 彼女の組織論の一つの再構成の試みで、ある。
第
2
節 二 つ の 論 理 系 列彼女の「集合的自己統制」は,そのうちに二つの論理系列をもち,それらの 統合として考えられている。彼女は現実の中にある二つの統制についての「傾 向」を指摘しつつ,同時に,その可能性を最大限引き出すべき命題としてそれ
らを提示する。すなわち,
①統制は,人間による統制
( m a n ‑ c o n t r o
I)でなく,むしろ,事実による統制C f a c t ‑ c o n t r o
I)をますます意味するようになりつつある。②中央の統制は,上から課せられる統制
( s u p e r ‑ i m p o s e dc o n t r o
I)でなく,むしろ,ますます多数の統制の関連づけを意味するようになりつつある
[DA
, p.2 6 0 ( 4 0 6
頁),FC
, p.7 7 C l 4 7
頁) J
。前者, I事実による統制」は,情報,技術的知識,特定分野における特殊知識 群などに基づいた管理の増大傾向を,後者,
I
集合的統制( c o l l e c t i v ec o n t r o
I)J
[DA
,p . 2 6 1 ( 4 0 7
頁) J= I
共に関係づけられた統制( c o
・r e l a t e dc o n t r o O J [FC
,第2章 起 点 145 p.
7 8 ( 1 4 9
頁) J
は,大規模化,複雑化した近代産業組織における「多数の統制 の関連づけ」の不可避的拡大傾向を指している。この二つの命題は,総合的に発展させられなければならない。というのは,
それぞれが, I専門家
( e x p e r t )
の原理」と「代表者の原理」として展開され得 るからである[DA
,p.2 7 7 ( 4 2 8
頁) J
。一方で「事実」の保持者としての「専門 家J(1専門職( p r o f e s s i o n )
Jではなしうによるテクノクラート的支配,他方で 利害の取引きによる妥協的解決や単なる多数支配になりがちな「代表者」によ る支配との両方向を牽制しつつ,彼女は,原理的に,また組織制度的に,いか なる統合方向を提起したか。まず,その原理的統合の試みを,われわれは,彼女の「状況の法則」をめぐ る議論のうちに見ることができる。
フォレットが「事実による統制」の傾向の一例として挙げる科学的管理法の 下では,いったん専門技術者によって設定された「標準業務」や「課題」から は,管理者も作業者も共に「非人格的」命令を受ける。彼女は,この「非人格 性」を高く評価する。しかし,彼女は,二つの方向でこの方法に修正を加える。
すなわち,第ーに,その「標準」などの設定を常規的作業の枠から解放し,流 動する状況の下での管理業務に至るまで「科学的研究」の対象になり得,その 特定の状況に「非人格的」命令が発見され得るとしたこと
[DA
,pp.29‑30
(83‑85
頁) J
である。常規性への限定から流動的状況への拡大,作業への限定 から管理業務への拡大の二重の対象の拡大で、ある。第二には,その「非人格的」命 令 =I状況の法則」の発見の主体が,専門家のみにではなく,特定の状況に かかわる「関係者全部」に置かれたこと
[DA
,p.2 9 ( 8 3
頁) J
である。そして,彼女にあっては,第一の対象拡大と第二の主体の拡大は不可分のものとして考 えられている。10) こうして関係する諸個人の代理し得ない「経験
J [CF
,c h a p .
1
,I I
]が,特定の状況の共同研究にとって不可欠とされて,専門家支配は否 定される。「状況の法則」の共同発見とし、う認識過程が組織論の中にとりこまれ る。注意すべきは,この過程が, I事実」の発見過程であると同時に,また,集団 的価値定立過程であるということである。すなわち, I意味と価値とを人間の相