第 3 章 展 開
本章では第2章で叙述された彼女の組織論の起点で、の基本論理が,どのよう に「統一体」の形成過程として構成されるのか,その際の統合のキイとなるリー ダーシップ層はどのような位置をしめ,かつ構成されているのか,を検討しよ う。さらに,彼女の「集合的自己統制」の論理が,個別の経営を越え,産業全 体の統合にまで展開していくのを見ょう。
第
1
節 統 合 へ 一 一 労 使 関 係 と 参 加1
フォレットが自らの「集合的自己統制」過程を展開させていくにあたっての 最大の課題は,それを「統合」過程として, I統一体」の形成過程として構成す ることである。「かりに民主主義が,すべてが参加することのみを意味するにす ぎないならば,私は民主主義を信頼しない。われわれが求めるものは,組織で あり,諸部分の関連化であり,共に機能する有機的な相互活動であるj
[FC
, p.1 3 ( 3 7
頁),他に,DA
, pp.1 5 5
,1 7 7 ( 2 6 2
,2 9 2
頁〉など]。すなわち,組織参 加者の先にみたような主体性を基盤としていかに持続的で発展的な組織の存立 を弁証するか, とL、う課題である。この課題に彼女は, I機能」概念を媒介にしつつ,いわばシステムとしての組 織観を持つことで答えようとする。1) この組織像を彼女は,
I
統合的単位( a n i n t e g r a t i v e u n i t y )
j,I
機能的全体( a f u n c t i o n a l w h o l e )
j,I
機能的単位( a f u n c t i o n a l u n i t y )
jなどと呼んだり,端的にシステム概念を引照したりしてい る。しかし, I共に機能する有機的な相互活動」の深化=機能的相互依存関係の 深化は,容易に理解されるように「集合的自己統制」過程の展開と同じことで はない。アリやミツバチの社会の高度な機能的相互依存関係の存在は,その社 会の成員の主体性・能動性を基盤とした「集合的自己統制」過程の存在を弁証しない。
160 IV 産業・経営の統合論へ
それゆえ,本節では,次の二つの論点に着目して「集合的自己統制」過程と 統合との関連を検討したい。それは,第一に,経営体の通常最大の分裂要因と 考えられる労使の対立をどのように彼女が取り扱っているかという点である。
第二には, I機能的全体」の中で諸成員の参加がどこまで実質的意味を持つよう な論理構成がなされているかという点である。
2
第ーの点について。彼女は, I資本と労働とは,戦うかさもなければ結合する かしなければならなし、
J[DA
,p . 4 4 004
頁) J
とし,そのうえで以下のような 方法での完全な統合を要求する。すなわち,まず労働者の「独立の権力J
要求 が否定され,そして「共同決定制J=I
健全な組織制度としての従業員代表制度」に基づく労働者参加による統合が追求される。
彼女によれば, I真の権力は能力
( c a p a c i t y )
である」からそれは委譲され得 ない。「労働者の主な問題は,資本ないし経営からどれだけの統制力を無理に奪 いとるかということでは決してないJ I
このようなことはまったく名目的なオー ソリティにすぎず,やがて速やかに労働者の手から離れていってしまう。彼ら の問題は,どれだけの権力を彼ら自身で成長させることができるかということ である。労働者統制の問題は,よく経営者がどれだけ放棄する用意があるかと いう問題だと考えられているが,これも同様に,実際には,どれだけの権力を 労働者がとることができるかという問題なのであるJ[DA
, p.8 0 ( 1 5 3 ‑154
頁) J
。しかし, このような労働者の生産管理能力・経営能力は,労働者の独立 の力として発展させられるべきではない[DA
,p p . 49‑50 ( 1 1 1
頁‑112
頁) J
。 なぜなら, I唯一の正当なボス,つまり主権は,考察の対象となっている活動の ある機能的部分を果たしている者全部の互いに絡みあった経験であるJ [DA
, p.78‑80 ( 1 5 3
頁) J
からである。すなわち, フォレットによれば,I
機能的単位」としての企業全体の権力=能力の発展のために,機能資本家層,経営者層,労 働者層の意識的統合が追求されるべきであるとされ,その文脈の中で労働者の 権力要求も位置づけられるのである。結局,問題は,企業組織における集合的 統制 参加の実質化の問題に収飲してしまうことになる。
ただし,注意しておくべき点を,二点あげておきたし、。第一に,以上の議論
第3章 展 開 161 からみて明らかなように,
I
不在所有される資本C a b s e n t e e o w n e dc a p i t a D
Jは 正当化され得ないということである[DA
,p.6 9 ( 1 3 7
頁) J
。そして,第二に,単純な労働組合否定論ではないということである。労働組合の多くは,その労 使関係での敵対的態度ゆえに批判されるが,すくなくとも次のようなリアリズ ムはフォレットにおいても持たれていた。「現在,団体交渉はもちろん必要であ る。団体交渉がなければ,賃金も労働条件も最低限度の標準以下になるだろう」
[DA
, p.8 7 ( 1 6 3
頁) J
と。それゆえ,I
現在,労働と資本の交渉力の不平等を 少なくするためにあらゆる手段が講じられるべきことは,正しい。が,同時に,もっと先を見,異なったことをその究極の目標とすべきであるJ[DA,
p p . 8 5
‑86(161
頁) J
。つまり,彼女にあっては,当面の団体交渉の必要性の一応の承 認と,同時に将来をめざしての「企業の再編成計画における機能的単位への努 力J[DA, p.8 7 ( 1 6 3
頁) J
の要求とが並存することになるのである。この「再編成計画」の内容こそ,先にも述べた労働者参加に基づく分権的組 織形態である。これは,特に「健全な組織制度としての従業員代表制度」の導 入として論じられる。結局のところ,彼女の労使の統合についての理解は労使 の団体聞の関係としてではなく,すぐれて企業の組織における参加制度の実質 化の方向において構成され,労働組合の役割などは当面の問題に限定されるば かりか,この参加制度の実質化の中で解消されていくものと考えられていると いってよい。
3
それでは,いったい参加2)はどこまで実質的なものとして構成されているか,
という第二の点に移ろう。
「参加は,二つの基礎に基づいている。すなわち,理解することと調整する ことである
J [DA
, p.1 8 7 ( 3 0 7
頁) J
。つまり,第一に,参加を「意義ある」も のとするためには,自らの機能の機能たることの認識,全体的機能連関の理解 が必要であること,第二に,この機能と能力・オーソリティ・責任を一致させうる組識構造とリーダーシップを確保すること,である。
まず,第一の点, I理解」について。各労働者は,どこまでその認識を広げな ければならないか。「近代の企業を構成している各部分が非常に絡みあっている
162 IV 産業・経営の統合論へ
ので,労働者は彼自身の問題だけについて何らか理性的な意見を持つために もj,I工程,設備j,I新機械の導入の影響,労働者の訓練j,I生産面と営業面 の関連j,I販売組織の効率」についてもある程度知らねばならない。さらに,
「単位原価j,I信用確保の条件j,I全般的な企業政策一一需給調整,有望な契 約,新市場の開拓さえ」についての知識までも要求されてくる
[DA
,p p . 60‑61
(1
2 6
頁) J
。このような組織成員の「理解においては二つの要素,すなわち,公 開性( o p e n n e s s )
と明示性( e x p l i c i t n e s s )
が」特に留意されるべき点であると 彼女はいう[DA
,p p . 1 8 6
,1 8 7 ( 3 0 5
,3 0 6
頁) J
。つまり,事実的な情報の公開性 の問題と,機能連関の像の意味的解釈を含む「シンボ、ル」の問題である。もち ろん,これは分析的にのみ区別され得る。情報の公開について最大の問題の一つは,経営者のもつ企業秘密の労働者(及 び消費者,同業者〉への公開の問題である。フォレットの立場は明確である。
すなわち「これまでのように知識を抑圧し,大部分の経営的事柄を管理者の間 だけに知らせて,他には知らせないような管理戦術は,もしわれわれが従業員 代表制度を成功さぜるつもりならば,なくさなければならなL
、
j[DA
,p . 1 4 0
( 2 4 1
頁) J
。また「賃金は,生計費グラフや時間研究,生産費に関する帳簿の会 開j[DA
,p . 7 6 ( 1 4 8
頁) J
によって決定されるべきであるとして,彼女は,原 価公開までも経営者に要求する。彼女の参加論が原価公開にまで至る情報公聞 を含んでいることは,注目に値する。しかし,ここで問題となってくるのは, フォレットがこの経営に関する情報 公聞が経営者自身によって行なわれるはずだとしていることである。もちろん,
彼女も「事実を表面に出さない方法が,支配的権力を得るために用いられる」
[DA
, p.7 7 ( 1 4 9
頁) J
ことを知っていたし,実際,情報公開,なかんずく原価 公開については「大部分の雇主は不可能であると考えているj[DA
,p . 1 8 7 ( 3 0 6
頁) J
ことも知っていた。そこで,彼女は,まず次のような論理で、企業経営者たちに情報公開の有利性 を説く。第ーに, I今日成功は過去におけるよりも遥かに組織と管理
J
,及び,「労働者から得られるすべての助けを経営者が得ること」にかかっているから である
[DA
,p . 1 4 3 ( 2 3 6
頁) J
。第二に,競争企業聞においてもその情報の交第3章 展 開 163 換,公開によって「得るところの方が大きいことがしばしばある
J[DA
, p.2 7 2
(420‑421
頁) J
からである。すなわち, フォレットの視角からすれば,企業の 経営能力,特に企業の生産力的向上のためには情報公聞が有利であるというの である。しかし,国民経済的な意義はともかくも,個々の企業経営者は,競争 下においては情報秘匿による企業防衛を指向するのが通常であろう。そこで,彼女としても,当然彼ら経営者にその公聞を迫る方策を必要とせざるを得ない。
彼女は,これを,組織の一般成員たる経営内の労働者層の力に求めることなく,
経営者層の専門的職業人としての団体形成に求めていくのである。この展開を,
われわれは次節において追求していくことにする。
ここでは,次のことが確認されればよい。すなわち,労働者の参加の実質化 のために彼女が要求する「公開性」は,個別企業の利潤原理を大きく制約する
ところまでも進むということである。彼女の「集合的自己統制」の論理のこの 展開に着目しておきたし、。
次に, i理解」の第二の側面, i明示性」について。これは機能連関の像の意 味的解釈を含む「シンボル」にかかわる問題である。彼女は,特に諸主体の主 張が対立的な場合には,その主張の表面に現われている利害を「再評価」する ことによって「真の」要求・利害を導き出し,これを統合の基礎とすることを 主張する。ここで問題としている労使関係の文脈においては,当然,i労働者側」
といった統合シンボルにそって結集させず,これを虚偽であるとして退け
[CE
, pp.1 6 7 ‑168J
,経営を「機能的単位」として認識させることが必要となってくる。
この文脈で,われわれは次のような彼女の言及に着目したい。「多くの労働組 合員たちが,労働者の産業での利害関係は,団体交渉にではなく,有用な企業 を維持することにあることを理解し始めつつある。これが,機能の理解である」
[DA
, p.1 0 5 ( 1 8 8
頁) J
。言うならば,経営目的の社会的有用性こそが,企業統 合の際の核心的シンボルのーっとなり得るし,なるべきだという主張である。それゆえにまた,経営者たちには次のような要請もなされる。「自分だけに優利 な立法を求め,あらゆる種類の独占的利益を求めるような種類の個人主義,あ る一つの階級の諸個人を他の諸階級から守ることを意味するような個人主義」