• 検索結果がありません。

賢治とソローの自然における法の概念

第三章 賢治の「法」とソローの「法」

第一節 賢治とソローの自然における法の概念

当時、個人の問題よりも、自然や宇宙全体の調和を説く法華経の教義に関心を寄せ ていたことから、賢治の「法」の概念の形成に、浄土真宗から法華経への転向が影響 していることは前述した。賢治はこの時、人間だけではなく、動植物、自然現象の全 てに仏の光が注ぎ、そして自己と他の区別なく救済は全てのものに及ぶという浄土真 宗にはない法華経独自の概念に傾倒している。29 また、第一章で述べたように、賢治 の「法」の概念は、動植物はもちろん自然界の全ての微生物、ひいては鉱物や無機物 にも仏の力が働いているというものであり、この際、これら全てのものは人間と同等 の権利をもつということが大前提となっている。

ソローの「より高い法則」についてであるが、ソローの時代まで、higher laws とい う考え方はおもにキリスト教の教義に基づく神(精神)の法則を示唆するものと考え られてきた。特に1850年代において、北部の奴隷解放論者は「逃亡奴隷法」という悪 法に反対する立場から、higher laws という宗教概念を政治的に利用してきたのである。

一方、ソローの、「より高い法則」への言及はそうした同時代的な政治性とは一線 を画し、独自の自然探求の思考の中から生み出された概念であった。近年の研究にお いては、ネイチャーライティングの観点から、ソローが野生のなかに「より高い法則」

を見ようとしたという指摘が多くなっている。そこで本節では、ソローが、この「よ り高い法則」が自然の法則であると同時に、人間の法則でもあると考えていたことを 強調し、「より高い法則」の意味合いを掘り下げて探る。

第一項 賢治の「まこと」

賢治は、信仰心が強い父の影響で、仏教的な雰囲気の濃い家庭環境に育ったが、肥 厚性鼻炎手術のために入院せざるをえず高等学校への進学を断念した頃に、北山の願 教寺の島地大等の『漢和対照 妙法法華経』を読んだ。釈迦が出世の本意を説いたこ の経典について、「只歓喜し身ふるひけり」(岡田 47)と後に述懐していることから、

忘れることができない衝撃を受けたことがわかる。賢治は生涯をかけて終始信心する ことを誓い、「一心に仏を見たてまつらんと欲して、自ら身命を惜しまない」(岡田47)

と当時の心境を述べている。賢治の禁欲は、このような強い意志を貫いて修羅を克服 しようとする姿勢であった。

97

法華経の教えは、内田朝夫によると、「『利他の視野』を発見した自由」(内田86)で あったという。これはつまり、荻原昌好が解説するように浄土真宗の「ひたすら自己 を捨て、その捨てることをも捨てる、といった親鸞の教義と、自己を無限に拡大して、

更に自己に至るといった日蓮(法華経)の教義との差異である」(萩原107-108)、つま り前者の「他力本願」と、後者の「自力本願」といった差異によって、賢治が何かか ら解放され、自由を発見したということである。法華経の教義が意味するものは、父 の呪縛から解放されたということと、己の「修羅意識」に対する姿勢を変換するきっ かけを得たということの両方が考えうる。賢治は、法華経を発見してから、己の「修 羅」の問題をそれ以前より肯定的に受け止め、解決する糸口を模索し始めたと言える。

この時から、修羅の賢治は、自己を信じて、宇宙の頂点にある仏の教えに向かったと 考えられる。つまり、自己の問題よりも、他の問題の解決の方へ向かっていくのであ る。

賢治は、宇宙(自然を含む)を一つの永遠の大生命であると解釈していた。恩田逸 夫は、その永遠の大生命体を、賢治のいう「まこと」のことであると解している(恩 田「宮沢賢治の文学における「まこと」の意義」82-3)。恩田は、先行研究では充分に 扱われていなかった賢治の初期の童話「めくらぶだうと虹」に注目し、ここではじめ て「まこと」という言葉が法華経の理念として使われていると指摘している。恩田に よると、この童話で賢治が「全身を挙げて希求したのは、彼のいう『まことの力』と か、『かぎりない命』であった」と述べている(恩田「まことの意義」82)。この「ま こと」は、法華経の世界観でいう「宇宙とは唯一の生命体であり、それは時間的にも 空間的にも限りなく広がっている」(信時 141)という理念の頂点にあるため、賢治は その頂点を目指して高みに向かおうとしていた。

その頂点について、「めくらぶだうと虹」では、めくらぶどうが自分のみじめな姿と 虹の美を比べ、価値のない命であると述べたことに対して、虹の言葉で以下のように 語られる。

もしも、まことのちからが、これらの中にあらわれるときは、すべてのおとろへ るもの、しわむもの、さだめのないもの、はかないもの、みなかぎりないいのち です。わたくしでさへ、たゞ三秒ひらめくときも、半時空にかかるときもいつも おんなじよろこびです。 (校本全集第5巻 121)

98

と、「たゞ三秒」の命でも、「まことのちから」があらわれていれば、生きることは喜 びであると答える。ここで虹は、生きている時間がほんの一瞬であっても、仏の光を 受けている命は全て尊く、生きていることが美そのものであると解することができる。

これはぶどうに限らず、全ての生き物にいえることで、命に優劣はないということが 仄めかされている。また、虹が、光がなければ輝くことはできないように、仏の光を 受けてこそ、命は輝くということが暗示されていると言える。賢治が目指している頂 点は、仏の光であって、それは時間的な概念を超えて、生きているものを最大限に輝 かせることができるものなのである。

ここで虹の2、3秒の命の美しさについて述べているように、一瞬に全てがあると する概念は、法華経で説かれている「一念三千」という概念にあたる。この概念は賢 治にとって大きな意味があった。というのも、賢治は24歳の時に、突然上京して国 柱会を訪ねているが、その理由は、田中智学の『日蓮主義教学大観』に魅かれたから であった。同書には「一念三千」という仏の理念が説かれている。「一念三千」とは、

斉藤文一によると、「一念の心に三千の諸法を具するということ」で(斉藤 130)、賢 治は「一念三千」という考え方に深く感銘を受けたのである。斉藤は、同書中の「開 目抄」の章から次の箇所を引用している。

此等(爾然)の経ゝに二つの失あり、一には行布を存する故に、なおまだ権せず、

迹門の一念三千をかくせり、二には始成を言ふ故に、未だ曾て迹を発せず、本門 の久遠をかくせり、此等の二の大法は、一代の綱骨、一切経の心髄なり、迹門方 便品は、一念三千二乗作仏を説く、爾然二種の矢一つ脱たり、しかりといへども、

いまだ発迹顕本せざれば、まことの一念三千もあらはれず、二乗作仏もさだまら ず、水中の月を見るがごとし、根なし艸の波上に浮るにたり、本門にいたりて始 成正目覚をやぶれば、四教の果をやぶる、四教の果をやぶれば四教の因やぶれぬ、

爾然迹門の十界の因果を打やぶつて、本門の十界因果をときあらわす、此即ち本 因本果の法門なり、九界の無始の仏界に具し、仏界も無始の九界に備りて、真の 十界互具百界千如一念三千なるべし「開目抄」 (斉藤 130)

ここでは、「一念三千」と「久遠実成」の二大法門が、「一代の綱骨、一切経の心髄」

99

であり、釈迦が菩提樹のもとで開目する以前、即ち無限久遠のはじめから本仏は実現 していたということが説明されている。つまり、「開目抄」では、釈迦の説教として説 かれた四経(蔵、通、別、円)は否定され 30、本門の十界の因果があらわれ出たとい うのである31。斉藤は「開目章」には、「迹門の観念では仏の本体をあかすことは出来 ず、本門寿量品によって久遠実成の本体をあらわすことになるということが強調され ている」(斉藤 130)と述べている。賢治は、浄土真宗にはない、姿を捉えにくい仏に ついて書かれたこの経典に衝撃を受けたと考えられる。

また恩田は、「『まこと』が現われるとき、各々はその所を得て、正常で幸福な営み がおこなわれ、『まこと』が失われるとき、人間は『修羅』となって苦悩するのである」

(恩田「まことの意義」 82)と解説している。賢治は、「開目抄」にあるような仏の

「まこと」の姿は捉えにくく、また到達しにくいものであるが、個人個人が幸福に生 きるためには、この「まこと」を追い求め続けなければならない、また、この「まこ と」を失わないように努力しなければならないと考えたのではないか。このような経 緯で、賢治は「法華経」を読み、鍛錬を積み、自己と他人の「まこと」の成就のため に尽力したのである。

そして、大正9年12月、国柱会へ入信するに至るが、その次の年には家出同然で 上京し、実際に国柱会の主宰である田中智学のもとで法華経の実践を試みようとする。

24歳の賢治は、保坂嘉内宛の書簡に次のように書いている。

今度私は国柱会信行部へ入信しました。即ち最早私の身命は日蓮聖人のです。

従つて今や私は田中智学先生の御命令の中に丈あるのです。謹んで此事を御 知らせ致し 恭しくあなたの御帰正を祈り奉ります。(校本全集第9巻 242)

この書簡には、田中智学の教えに一心に入念しようとする賢治の強い決意がみられる。

大正15年、賢治は羅須地人協会を設立し、農民生活をあらゆる面で合理的な改革 へと導くために『農民芸術概論綱要』をまとめた。その序論の冒頭には「おれたちは みな農民であるずゐぶん忙がしく仕事もつらい / もっと明るく生き生きと生活をする 道を見付けたい」(校本全集第10巻 18)とあり、賢治は、農民たちと共によりよい 生活を築きたいという意志を持っていたことがわかる。そして、この序文の最後には、

「われらは世界のまことの幸福を索ねよう 求道すでに道である」と記されているが、