第三章 賢治の「法」とソローの「法」
第三節 菜食主義
賢治とソローは、他の動植物を「食べる」という行為に関して、宗教的な理由、生 活信条の上での理由、経済的理由などがあって菜食という行為について考察し、また それを実践している。そこでこの節では、前節で述べた、それぞれの「法」の概念を もってして、動物の肉を「食べる」という行為についてどのような眼差しを向けてい たのかに関して具体例を挙げていく。
まず、菜食主義は、賢治とソローに共通して試みられた実践であった。ただし、賢 治もソローも菜食することを正しい行為であると考え、自らも試みていたが、常に菜 食であったわけではなかった。賢治は教え子たちを連れて、牛肉を食べに料亭へ通っ ていたし(板谷『素顔の宮澤賢治』53)、ソローはメインへの旅で、乾燥した豚肉を主 食としていた(MW 23)。ソローの場合、野生のなかの長旅であっため、それがもっと も合理的な食事であったからである。両者は、時々菜食主義者であって、所謂、すべ ての動物性食品を食べないヴィーガン(vegan)ではなかった。そこでここでは、賢治 とソローがどのようなタイプの菜食主義者だったのかを中心に考察する。
二人の菜食が上記のように、いくつかの要素を含んでいるため、まずは簡潔に両者 の記述から考えられる特徴をまとめておく。
賢治の場合、童話「ビジタリアン大祭」では、菜食の細かな理由とその正当性を述 べる者、または反対意見を述べる者を集めて会議が開かれる。賢治がそのなかのどの 意見に属するかは明確でないが、賢治が菜食を試みたのには、主に二つの理由が考え られる。一つは、仏教的な理由で殺生は避けるべきだと考えていたことであり、もう 一つは、農民たちと同じ食事をしたかったからである。前者については、年代順に童 話「よだかの星」、「ビジタリアン大祭」、「フランドン農学校の豚」、「注文の多い料理 店」などで登場人物たちの言葉のなかに表れているが、後者は、主に友人の保坂嘉内 に宛てた書簡や、童話では「グスコーブドリの伝記」の飢饉に苦しむブドリの家族や 村人たちの食生活の様子から読み取ることができる。
ソローが菜食を試みたのにもやはり二つの理由が考えられる。一つは、自己を清浄 な状態に保ち、精神を神聖な方向へ向けるためである。二つ目は、合理的に生活する ためである。前者については、「より高い法則」に「人間が肉食動物であることは、ひ とつの恥辱にほかならないのではあるまいか?」(“Is it not a reproach that man is a
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carnivorous animal?” W. 215 『森の生活』(下)飯田訳 84)と述べていることからわか
る。後述するが、ソローは、肉食をみじめなものだと判断し、肉食が想像力に調和し ないと考えている。また、「経済」の章で、「自分が育てた作物だけを食べ、食べる以 上のものは育てず、育てたものをわずかばかりの高価で贅沢な品物と交換したりしな ければ、わずか2、3ロッドの土地を耕すだけで足りる」(“if one would live simply and eat only the crop which he raised, and raise no more than he ate, and not exchange it for an insufficient quantity of more a few rods of ground,” W.55 『森の生活』(上)飯田訳 102)と も述べている。
このように、賢治もソローにも、少なくとも2つの理由の菜食主義者の特徴を認め ることができる。ここからは、それぞれの理由の詳細を具体的な引用を用いて述べて いく。
第一項 賢治の菜食主義
賢治の作品を通して考えられる菜食の思想について、童話「よだかの星」をみてみ よう。よだかは、カブトムシや他の羽虫たちが自分に食べられてしまうことを嘆き、
自分自身も鷹に食べられる立場であることを「つらい」(校本全集第5巻 87)と感じ ている。この箇所の食物連鎖のしくみに関する言及は、仏教的な無常観を示している。
本論の第二章では、このような連鎖の運命から逃れようとして、それを成功させるこ とができたよだかに、賢治が自己の希望を投影した可能性があることについて述べた。
この物語のなかでは、賢治は他を食べることは、生きる苦しみの一環であると考えて いた。
食物連鎖の食べられる側の苦しみについて書かれているのは童話「フランドン農学 校の豚」である。この物語は、大正7年、22歳の時に、賢治が実際の牛や豚の屠殺 の場面を見て、その経験をもとに書かれている。その経験の後、保阪嘉内宛の書簡に は次のように述べている。
又屠殺場の紅く染まった床の上を豚がひきずられて全身あかく血がつきました。
転倒した豚の瞳にこの血がパッとあかくはなやかにうつるのでせう。忽然として 死がいたり、豚は暗い、しびれのする様な軽さを感じやがてあらたなるかなしい けだものの生を得ました。これらを食べる人とても何とて幸福でありませうや。
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(校本全集第9巻91)
その場面の赤い血が印象深く記憶に刻み込まれ、その死の瞬間の光景を目撃したこの 経験の後、肉食をしないと決意していることからも(板谷『素顔の宮沢賢治』53)、賢 治にとって屠殺という行為の残虐さは強烈な印象を残すものであった。そして肉食は、
回避すべきものとして考えていた。屠殺は殺生であるので、仏教的な理由でも避ける べき行為である。
この物語のなかでは、農学校は家畜撲殺同意調印法という法にのっとって、豚から 死亡証書に承諾のサインをもらうことになっていた。校長はヨークシャイヤをなんと か説得してサインをさせようとするが、ヨークシャイヤはそれを拒みつづけた。しか し、ある日とうとう校長を怒らせてしまい、それまで贅沢なエサを与えてもらってい た恩もあり、ついにサインをしてしまった。ヨークシャイヤはその場を保つために自 分の命を断念した。こうしてヨークシャイヤは、どんな悪徳も不条理も受け入れて、
自らの命を犠牲にする。
賢治がこうした豚の姿を書いたのには、いくつかの理由が考えられる。ヨークシャ イヤは生きていたいので恩があるために校長が言うままに契約書にサインをすること に「つらい」と感じた(校本全集第7巻 139)。そうした生き物を食べる人間は傲慢で あり、また読者に食べられる側の感情を伝えようとしているということである。校長 や農学校の教職員は、この豚の命の輝きを知る由もなく、まるで日常茶飯事の一こま のように、ヨークシャイヤを殺してしまった。賢治は屠殺の現場を目撃した体験を、
そのままこの物語に豚の側の物語として再現した。
「注文の多い料理店」では、「フランドン農学校の豚」の場合から、人間と動物が逆 の立場になるが、ここでは山猫の残酷さが露わに描き出されている。「料理店」に登場 する山猫が、人間を騙して食べようとするという逆説において、矢野智司は賢治が野 性的な世界の活力を表現しようとしていると指摘している(矢野「風が贈与する生命 の倫理と心象スケッチ」131)。この物語の野生動物が人間を「食べる」という行為は、
人間と自然の間のエネルギー交換を暗示していると考えられるのである。これを賢治 の仏教の世界観からみてみると、奢る人間への戒めとも捉えることができる。動物の 側に主導権をもたせた時、食物連鎖に逆転が起こるが、この時山猫に捉えられたハン ターが感じる恐怖は、よだかが食べてしまうカブトムシや羽虫や、屠殺される豚が感
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じる恐怖と同様のものである。しかしこれは単に山猫の復讐劇ではなく、このような 自然の復讐する力は、全ての生き物の平等性の現れであり、仏の「まこと」の光が一 様に全ての命を照らしているということを物語っているのである。
「ビジタリアン大祭」は、世界各国からニュウファウンドランド島に集まった学識 者のべジタリアンとその異見派の大会での討論会の話である。ここでは、ビジタリア ンを大きく「同情派」と「予防派」に分けて、前者を仏教で説かれているようにあら ゆる生物の命を惜しむ者、後者を病気の予防のために動物質を食べない者としている。
式の前座で会議が行われ、人口論、動物心理学、生物分類学、比較解剖学の立場から のベジタリアンへ反論が出された。ベジタリアンが世界に飢餓を起こす原因になるこ と、動物に人間と同じように死を嫌がる心理はないこと、バクテリアのような植物で も感情があるのに植物を食べることは間違っていること、人類が犬歯を持っているの は肉食をするためであって混食をするのが自然であること、などの反論演説が行われ たのである。はじめは、これら異見派の方が優勢であるかのように見えたが、ようや く式が始まると、ベジタリアン派の反論がはじまった。
肉食をしなければ享楽は得られないという反論に対し、祭司次長に呼ばれた牧師ら しい老人は「肉類を食べるときその動物の苦痛を考へるならば到底美味しくはなくな るのであります。」と述べ、続いて一年もすれば肉類の臭いに不快感をもつようになる こと、また、「よい感官はよいものを感じ悪い感官はいゝものも悪く感ずるのでありま す。」(校本第7巻 80-81)と述べている。この「よい感官がよいものを感じ」るという 思想は、ソローの「内なる精神が発するもっともかすかな、しかも絶え間ない警告」
を感じ取ることができるように肉食をせず、「より高い法則」に従っていこうという考 えに類似している。ソローの肉食をしない理由は、人類の進化のためには、肉食をや めていく必要があるからであって、そのような進化には、自己の内面の天性が導くよ りよい方向性を感じることが前提となっている。
その後「ビジタリアン大祭」では、異論は科学的な分析や統計学的な見地から述べ られるが、まず動物の神経が衝動や本能ばかりのものであるという意見に対して、「そ の本能や衝動が生きたいということで一杯です。それを殺すのはいけないとそれだけ でお答えには充分であります。」(校本全集第7巻 84)と、若い男が答える。ここでは
「衝動」や「本能」という感覚に苦しみを与えることは人間に苦しみを与えることに 等しく「感覚のあるものはやっぱりみんな苦しい」(校本全集第7巻 84)と続けて反