• 検索結果がありません。

第一章 宮沢賢治とヘンリー・ソローにみられる 思想的類似点

第二節 博物学的関心

賢治とソローを比較検討する際に際立った共通点として浮かび上がるのが、両者に おける自然科学への傾倒である。賢治の作品には、岩手の山や野原を舞台にして、人 間が動植物や鉱物と交流する物語が繰り広げられている。これらの多くの作品に登場 する動植物や鉱物の数をあげてみると、総数は数百種にものぼる。渡邉貞一郎は、賢 治の童話に登場する動物の種類と総数を、「哺乳類三十三種、鳥類に二十六種など総数 百二十七種に及ぶ」(伊藤 14)と述べている。植物について、伊藤光弥は次のように 述べている。

賢治の作品に出てくる野草の総数は百種を越えるものと思われる。すでに挙げた 樹木や農作物や草花などの種類をくわえると、童話も含めた作品に登場する総数 は二百五十種をはるかに越えることになろう。これは賢治の植物学の知識がいか に豊富であったかを裏付けるとともに、作品の多くが賢治をとりまく自然や風土 から生まれたことの証でもある。 (伊藤 20)

このように、作品に登場する動植物の数は、そのまま賢治の博物学の知識の豊富さを 物語っていると言えるだろう。これは、賢治が博物学的な知識を巧みに利用しながら、

独自の詩法で創作したことが「るゐをみない」と、後に述べるように佐藤惣之助が言 う所以である。

ソローの場合は、例えば『ウォールデン』だけをとってみても、そこに書かれた動 植物の数は、全部で700種以上に及ぶ(上岡『「ウォールデン」研究―全体的人間像 を求めて―』248)。動植物の生態や自然の事物や現象の変化の記録とそれに関する自 身の感想と思想をまとめたものがこの作品のほぼ全体の内容となっている。ソローの このような手法は、当時、ニューイングランドを席巻していた科学の解釈、つまりロ ックの経験主義とカントの理想主義を融合させた自然の解釈をより事実に即して解釈 しようとするものである(Walls 32)。本節では、二人の自然科学への傾倒に着目し、

それを作品にどうあらわしたのかを考察していく。

37 第一項 賢治の場合

詩人の佐藤惣之助は、『日本詩人』大正14年12月号で「この詩集(『春と修羅』(1924)

―引用者注)はいちばん僕をおどろかした。なぜなら彼は詩壇に流布されてゐる一個 の言葉も持つていない、彼は気象学、鉱物学、博物学、地質学で詩を書いた、奇犀、

妙徹、そのるゐをみない。僕は十三年度の最大収穫とする」と激賞した(伊藤 8)。賢 治は、自然の事物や現象を題材にしたが、佐藤が「るゐをみない」という彼の詩法は 心象スケッチと呼ばれるもので、賢治自身はそれを「自然の声の再録」と名付けた独 特の想像力を介するものであった。

賢治の生涯を振り返ってみると、賢治は岩手県稗貫郡花巻町で生まれ、幼少の頃か ら身近な自然に親しんでいたことがわかる。賢治の実家付近の田園風景とともに、作 品に度々描かれる山々の風景は、頻繁に登った岩手山の風景であると考えられている。

記録に残っている登山について、伊藤は次のように述べている。

(ママ)

年譜によると、賢治は明治四十三年の六月に、博物学担当の山県頼 教諭の引率 のもとで初めて岩手山に登った。盛岡中学校二年生約80名が参加して行われた 一泊二日の学校登山であったという。この登山で山の魅力に取り憑かれたのであ ろうか、その年の9月にも、青柳亮教諭の引率で行われた二泊三日の岩手山登山 に参加している。 (伊藤 30)

おそらく賢治は、この登山から「山の魅力に取り憑かれ」(伊藤 30)たのであろうと 思われる。賢治の山への関心はそれに留まらず、岩手山への登山はその後20回以上 も続き、花巻高等学校教諭時代には生徒を引率して登ることもあった。大正14年7 月『岩手毎日新聞』に記載された賢治の生徒の紀行文があるが、これは賢治が添削指 導をしたものと推測されている。その内容には多くの植物の名前が乗せられ、それ自 体が岩手山の博物誌にもなっている(伊藤42)。

賢治は植物の名前を学術用語のまま作品に取り入れることがあった。また、学名を 基にして造語をつくって詩のなかに自由に入れて使うこともあった。伊藤は、「補遺詩

篇I」のひとつを例に挙げて、賢治が洒落で造語を使うこともあったと指摘している(伊

藤 13)。その詩は、次のようである。

38 黒緑の森のひまびま

青き稲穂のつらなりて そら青けれど

みのらぬ九月となりしを あまりにも咲き過ぎし 風にみだれて

あるいは曲り あるいは倒れし

Helianthus Gogheanaかな (校本全集第3集 486)

この詩の造語Gogheanaの基になっているのは画家のフィンセント・ファン・ゴッホで、

風にみだれ倒れているのは、Helianthus という学名からヒマワリであることがわかる。

ゴッホの『向日葵』の絵画のイメージと岩手の稲穂のイメージを重ねているのだが、

稲賀繁美によると、賢治は『白樺』の同人たちによって紹介されたゴッホの作品に反 応した詩人の一人であったという(稲賀 92)。自費出版した童話集『注文の多い料理 店』の表紙に菊池武雄による向日葵が描かれていることから、賢治にとって向日葵の 花は特別な意味をもつ植物であったと考えられるだろう7

リンゴが「銀河鉄道の夜」の創作のモチーフに使われていたことは多く研究者に指 摘されている 8。石井竹夫によると、「ひかりの素足」や「なめとこ山の熊」でも、賢 治が「赤い実」9という言葉を使う時、それには死や遭難が暗示されているという指摘 がある(石井 52)。確かに、童話「銀河鉄道の夜」では、船の事故で遭難したらしい 姉弟と付き添いの男性が列車の中に現われる前にカンパネルラはリンゴの香りを嗅ぐ。

灯台看守から差し出されたリンゴをその3人とジョバンニ、カンパネルラも食べるの だが、列車が行き着く先では、もうリンゴもその他の美味しい食物も食べることがで きない「そのひとそのひとによってちがったわづかのいゝかをりになって毛あなから ちらけてしまふ」(校本全集第7巻 276)のであった。つまり、灯台看守が話している のは死後の世界の話であるが、そこは、付き添いの男性が男の子を諭すように述べた

「神さまのところ」で、そこは「ほんたうにもう明るくて匂がよくて立派な人たちで いつぱい」(校本全集第7巻 272)な場所である。そしてそこは味もあるかないかわか らない場所で、人のように食べ物も食べることがない世界のようにほのめかされてい

39

る。ここでは死後の世界に導くモチーフとしてリンゴが使われているのである。

鉱物に関して言えば、賢治は幼少期から鉱物に興味を持ち、道端で見つけた石を拾 っては集めていた。あだ名が「石っこ賢さん」だったことは有名である。盛岡高等農 林学校在学中は、土壌学を専門として関豊太郎教授のもとで土性調査に関わり、その 後研究生として学校に残り、卒業後は助教授として推薦されるほど賢治はこの分野に 関しては専門家であった。しかし、その職は辞退し花巻へ戻り家業を継ぐことになる のである。妹トシ子の看病のために上京することもあったが、この間にも賢治の鉱物 への愛着は失われることなく、将来は人造宝石店を営む計画などを立てていたと言わ れている10

賢治の童話「十力の金剛石」、「楢ノ木大学士の野宿」、詩「オホーツク挽歌」などで は宝石や鉱物を中心主題にしている。「楢ノ木大学士の野宿」おいて賢治は、数千万年 という岩や鉱石の命の時間の流れについて人間の時間を引き合いに出して、自然の営 みが人間の生活と同じようにとり行われ、しかし人間よりももっと長い時間をかけた 重厚なものであることを想像させようとする。これは、山々がカミのように語るとい う、賢治のアニミズムが垣間見える作品となっている。この物語では、蛋白石を探し に山へ出掛け、野宿することになった大学の教員の夢の中で、擬人化された四人兄弟 の山々が、周辺の山々などに起こった数千年間の出来事について口喧嘩をしている会 話が聞こえてくるのである。「気のいい火山弾」は、稜がしっかり残っている火山弾た ちや、自分についた苔にさえもいじめられながら、最後には丸くなった「ベコ石」が その姿について、人間の研究者たちに立派であるとほめられて研究室へ持っていかれ る話である。「ベコ石」は、噴火のなかでしっかりと目をあけて勇気を振り絞ってクル クルと回っていたからこそ他のゴツゴツしたままの火山岩とはちがって貴重なものと なったのである。賢治はこのように、強者のいじめや弱者の逆転劇といった、人間社 会の縮図のような光景を何千年の岩たちの社会を舞台にして表現する。

「十力の金剛石」では、石は奇麗な宝石で、一国の王子と大臣の子どもの上に降る 雨として描かれる。ダイヤモンドやトパーズやサファイアの雨が降り、周囲の草花も 宝石でできている場所に迷い込んだ子どもたちは、金剛石の本当の雨が降る様子に感 嘆し、絡み付いた木の枝も最後は丁寧に扱う配慮をもった人間になるという話である。

ここでは、金剛石が表すものが人間の理解と言葉を越えた有り難い現象であることは 示唆されているが、それが具体的に示すものが何であるかは示されていない。ただ、