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賀川は,2 回も臨死という特殊な体験をしている(横山 1951:39‐40;47‐48).

1 回目は 1907 年,豊橋教会を応援するために路傍伝道をしていたとき,40 度の発熱 が十数日も続き,医師が死の宣告を下した時である.2 回目は 1909 年,結核性の蓄 膿症で手術を受けた際に出血が止まらなくなった結果,賀川は亡くなると考えられ,

葬式の手配がされた時である.その際に,賀川は二つの夢を見たが,その一つが「夜 明けになつて見たのは,栄一が店を捨てゝ独り,朝鮮の方へ徒歩旅行して居ると,何 処か砂漠の様な処へ差しかゝつた」という夢である(賀川 1920:143‐144).つま りその夢を見たことから韓国へ徒歩で旅行することを意識し始め,それから間もなく 韓国への訪問が実現されたわけである.

99 ここでは 1919 年 3 月 1 日のことを指す.

米沢(2007:30)は,「1929 年 2 月賀川は,大連・旅順で,神の国運動を実施,

これ以降,満州・台湾・朝鮮・樺太の“外地”も含めて展開する」と記し,賀川が韓 国の訪問を計画していたと述べている.つまり,賀川の韓国への訪問は,「神の国運 動」100の一環として行われたことが推測できる.また,1929 年以前にも韓国へ訪問 したことを示すいくつかの痕跡が見られる.ここでは賀川の著書に基づいて,賀川の 訪韓歴を整理する.

第1節 初めての訪韓

韓国の訪問について初めて書かれたのは,賀川の自叙伝小説『壁の声きく時』であ る.賀川の主観に基づいて書かれているものの,自伝小説なので,事実を書かれてい るものとする.1924 年に出版されたことを考えると,賀川はすでにこの時点で,韓 国を訪れたことがあるものと考えられる.内容は次のようなものである.

天津から,彼は満州を廻つて,朝鮮に下つた.山海関を超えて,万里の長城を 後に見ると,天地が変つたやうな心持ちがした.家は小さくなり,山河の荒れた

100 以下の表は賀川のキリスト教伝道者として海外伝道した日程である.

1924.11.25

‐7.22 アメリカ,ヨーロッパ各国 1938.11.15

‐3.18 インド(世界宣教大会)

1927.8.16‐ 中華民国 1941.4.5

‐8.16 アメリカ(平和使節)

1930.7.19‐ 中華民国 1944.10.20

‐2.5(1955) 中華民国 1931.1.13

‐2.13 中華民国 1949.12.22‐

イ ギ リ ス , ド イ ツ , デ ン マ ー ク , ス ウ ェ ー デ ン , ノ ル ウ ェ

1931.7.10

‐11.12

カ ナ ダ , ア メ リ カ ( 世 界 YMCA大会)

1950.7.15

‐12.28 アメリカ 1934.2.‐

3.14 フィリピン 1953.1.28

‐6.24 ブラジル 1935.2.16

‐7.30

オ ー ス ト ラ リ ア , ニ ュ ー ジ ーランド

1954.7.1

‐10.25

ア メ リ カ , カ ナ ダ ( 第 二 回 世 界キリスト教会議)

1935.12.5‐ アメリカ 1957.1.23

‐2.22 夕イ 1936.7.8‐ ノ ル ウ ェ ー ( 世 界 日 曜 学 校

連盟大会) 1958.1.22‐ マ レ ー シ ア ( 国 際 協 同 組 合 同 盟東南アジア会議)

出所:http://www.core100.net/works/works05.html(20121224 閲覧)により筆者作成

黒田(1983:154)は,11 月 26 日に横浜を出帆していると記している.また,国内及び海外の 伝道日程の中で,黒田(1983:127‐249)の資料では韓国の 1939 年 11 月 6 日から 25 日までの伝 道日程は抜けている.残念ながら,その理由は不明である.

姿が甚しくなる.奉天に近づくと共に,蒙古の砂塵が明瞭は つき り見える.北の空は,い つも大都市の空を見るやうに濁つてゐる.何となく物浅い.

朝鮮に這入ると,乞食の国に来たやうな気がする.京城に這入つても何だか少 しも落ち付いた気がしない.日本人は日本人で一所に集つてゐる.朝鮮人は朝鮮 で別になつてゐる.両人種は間にある征服被征服の関係が明かに見える.京城の 貧しい家を見て廻る.腰をかゞめなければ這入れないやうな低い家でも きちん、、、

と して生活してゐる.何となく奥床しい.支那の貧民窟などとは全く趣きが違ふ.

如何にも教養ある国民のやうに感ぜられる.朝鮮人に対する尊敬の度が高まる.

釜山から門司に渡ると,山奥から大都市に出て来たやうな気がする.凡てが便利 で,きちん、、、

として居る.その代りこせこせ、、、、

して狭苦しい.米国から帰つて来た時 と同じやうに,満鮮から帰つても日本の島々に人口の多いことは,すぐ気が付く

(賀川 1924:575,傍点ママ,下線‐筆者).

もちろん小説の一部分であり,科学的な根拠のあるものとして取り扱うには無理が あるかもしれないが,韓国に関する賀川の叙述は大変詳細なものである.それでは,

賀川が韓国を訪れたときはいつであろう.この点について,浜田(2012:98‐99)に よると,賀川は 1920 年 8 月の上海日本 YMCA での夏期講座の講師を終えた後,韓国経 由で日本に帰ったことを上海日本 YMCA 機関紙『上海青年』1920 年 9 月号で触れてい る.内容は次の通りである.

支那を見て文化が東へ流れた順序に従って朝鮮へ入り日本に着きまして,私は 抑えることの出来ない或る憂鬱に充たされて居ります.新しい光強き光が,暗き 亜細亜に照り出ねばならなぬと私は感じて居ります.(下線‐筆者)

すでに述べたように,賀川(1919:23)は韓国の独立運動が起こった約 3 ヵ月後に,

水原で行われた「朝鮮人虐殺事件101」を知っていた.そして,この事件で日本に良心 が無くなったと痛感していた賀川が,その実情を現地で見聞しようとして中国から日本

101 1919 年 4 月 15 日に起こった提巖里ジ ェ ア ム リ虐殺事件を指す.この事件は,カナダのメソジスト宣教師 であった石虎弼ソ ク ホ ピ ル(Frank William Schofield,1889.3.15‐1970.4.16)によって世界に知らさ れた(Lagault・Prescott2009:866).

に帰る途中で韓国に立ち寄ったことが窺える.これに基づいて考えるならば,賀川が 初めて韓国を訪問したのは 1920 年 8 月のこととなり,『壁の声きく時』の記述は賀 川の実体験であることが推測される.

当時の韓国は日本の朝鮮総督府(1910‐1945)の統治下にあり,経済構造が植民地 体制に変わり,韓国の様々な資源が日本に流出したため,経済成長は全く望めない状 況であった(李善惠 2009:39‐41).この事実をもとにすれば,賀川の目に写った 韓国が乞食の国のように見えたことは事実であろう.以上の経緯から,賀川の韓国に 対する第一印象は,征服民と被征服民という関係が見えたこと,そして貧しい国であ りながら,中国のスラム街とは違い,教養がある国民に見えたというものであった.

そして賀川の訪問は,次回は 1922 年に予定されていたが,神戸労働連盟会の開催 により延期されることになった.その内容が 1922 年 2 月 4 日の韓国の『東亜日報』

に掲載されている.

賀川豊彦氏来朝延期

二月上旬来朝할 豫定이든 思想家 賀川豊彦氏는 神戸勞働聯盟會開催로 因하 야 延期하얏더다라

(=賀川豊彦氏来朝延期

二月上旬に来朝する予定であった思想家賀川豊彦氏は,神戸労働聯盟会の開催 と重なったことにより来朝を延期することに決めた.翻訳‐筆者)

残念ながら,延期した期間及び二度目の訪韓の日程に関する記録が見当たらなかっ たため,これ以上言及することはできない.ただし,上記のように新聞に載せられた ことから,賀川は公式的に訪韓しようとしたことが言えるだろう.

第 2 節 1929 年頃の訪韓

次の文章は『雲の柱』1938 年 8 月号に掲載されたもので,賀川がその 9 年前にあ たる 1929 年にも韓国を訪問したのではないかと推測できる記録である.

満九年前にはクリスマス頃であつたが,鴨緑江の上でパリユ(氷橇)に乗つた 思ひ出が深かつた.その晩すぐ汽車で朝鮮に渡つた.そして京城についたのは翌 日の朝だったが,京城大学を訪問しその規模のあまり小さなのに驚き,却つて地 質調査所のよき研究を見て感心した.(中略)満九年ほど来なかつたら,京城も 間違へるほ ど美し くな つて,米国 の田 舎 の町 に行つたや うな思 ひが した (全 集 24:260‐261,下線‐筆者).

つまり賀川は,1938 年に韓国を訪問したときの内容を書きながら,9 年前のことも 思い出しているのである.おそらく中国を訪問した後に,韓国に寄ったのではないか.

その根拠は次の文章による.

大連に来て,何より驚いたのは消費組合の発達であつた.九年前であつたか,

大連に来た時には盛んでなかつたが,今度来て見ると,年千五百万円の売上高を 持つてゐるとのことで,全く驚いてしまつた(全集 24:257,下線‐筆者).

正確にいうと,「満九年前」と「九年前」という表現の違いがみられるが,満九年 前の鴨緑江での思い出と九年ぶりに大連を再度訪問したことをあわせて考えてみると,

賀川は中国から日本に帰る途中で,韓国にも立ち寄ったことが推測できる.これは,

賀川が 1929 年 2 月から「神の国運動」のために韓国への訪問を行ったという米沢の 意見102と一致する内容であろう.しかしながら,なぜ,賀川が韓国を訪れたのかにつ いては具体的に記されていなかったため,不明である.

第 3 節 1938 年の訪韓

年表(全集 24:608)によると,賀川は 1938 年 6 月 20 日に韓国を経由して下関に 辿りついたという記録が残っている.それを基にして『身辺雑記』の内容をあわせる と,【表 5‐1】のように経緯を遡ることができる.

102 1929 年 2 月,賀川は大連・旅順で,「神の国運動」を実施,これ以降,満州・台湾・朝鮮・

樺太の“外地”も含めて展開する(米沢 2007:30,下線‐筆者).

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