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文献からみる賀川の社会福祉思想

賀川が行った様々な活動の原動力となったのは何であろうか.第4章では,賀川の 社会福祉実践の根底にある思想について言及していく.賀川の著書に流れている賀川 の考え方を取り上げる.ただし,賀川の著書は極めて多いため,賀川の知名度を上げ たベストセラーの『死線を越えて』や当時の公的な雑誌(機関誌)に載せられた論稿,

そして農民組合の組織に力を入れたことを踏まえて『農村社会事業』などを中心に分 析していく.

第1節 小説『死線を越えて』(1920,改造社)

自伝小説である『死線を越えて』は,若手の神学生であった賀川が肺結核で苦しん でいたにもかかわらず,死を覚悟してスラム街に入り,貧民との生活に基づいて書い たものである.20歳の時に書いた「鳩の真似」が基となっており,1920年1月から5月 前半に『改造』に連載され,さらに10月に改造社から出版されたものである.当時 200版を重ね,ほぼ100万部を売り上げる大正期最大のベストセラーとなっている.後 に後続する『太陽を射るもの』(1921b),『壁の声きく時』(1924a)が出版され,

あわせて400万部以上売り上げたと言われている.この小説は1922年に初めて英訳さ れ,海外でも高い評価を受けた.ここで,賀川の社会福祉思想を探るために,小説

『死線を越えて』を取り上げた理由は,韓国において賀川から影響を受けたと述べた 人々87のほとんどが,この著書を取り上げているからである.それゆえ,賀川がどの ような思想を持っていたのかを理解するためには,この著書を分析する必要がある.

まず,『死線を越えて』の中に示されている賀川の社会福祉思想は,「共に生き る」ことである.実際,賀川は,当初から様々な事業を行うために,スラム街に入っ たわけではない.スラム街に入った当時の心境を次のように記している.

どうせ,近い中に死ぬのだから―一年か,二年か,長く生きて,三年位ゐの中 には肺で死ぬのだから,死ぬまでありつたけの勇気をもつて,最も善い生活を送 るのだと決心した(賀川1920a:145,下線‐筆者).

87 李相哲,朱善愛,金徳俊,劉載奇など,詳しくは第 7 章に述べる.

病弱であった賀川は,どうせ死ぬなら,良いことをしたいと決めたのであるが,そ れが神戸のスラム街に住み込むことであった.いわゆるセツルメントである.これに ついては先の第3章で詳しく述べている.賀川は,神戸スラム街に入った当時の状況 について次のように記している.

そして,クリスマスの前夜,十二月の二十四日,各教会には賑やかに『クリス マス』『クリスマス』と騒いで居る中を,午後二時頃から栄一は植木に助けられ て,引越をした.栄一はその時木綿縞の筒袖を着て,自分手に荷車を曳いて,兵 庫の鍛冶屋町から,葺合の新川までやつて来た.車には蒲団と衣類一行李と書物 一行李と竹の本棚一つを積んで来た(賀川1920a:146,下線‐筆者).

ここでは,賀川が『クリスマス』『クリスマス』と『』を付けて同じ言葉を 2回繰 り返すほどに,キリスト教会に対するその批判的な感情が表れている.この点につい て高崎(1984:12)は,賀川が教会の行事や建築に力を入れている当時のキリスト教 会を批判するとともに,自ら社会の下層に住むことで,民衆の伝道者としてこの世の

「社会悪」と対決して生きる決意を表明したと述べている.もっとも,賀川がキリス ト教会に対して批判的な視点をもっていたとしても,3章の救霊団の伝道活動や本所 基督教産業青年会の宗教活動からも分かるように賀川はキリスト教の伝道のことを最 優先に考えたことは事実であろう.このように賀川は,1909年12月24日からのアメリ カ留学期間(1914年‐1917年)を除いて1923年10月18日に東京に移るまで,神戸の新 川のスラム街で貧民とともに生活したわけである.そして賀川は,スラム街に入った 理由について次のように述べている.

貧民窟へ来たのは貧民の救済と感化に来たものである.然し心配してくれるな,

労働者をも尊敬し,貧民をも救済せんとする私が,人を殺すなどと云ふ事は決し て企てはしないから安心をしてくれ.私は凡ての人を尊敬する.労働者をも凡て の人を尊敬する(賀川1920a:208,下線‐筆者).

このように,賀川が初めてスラム街に入った理由と10年後に『死線を越えて』の中 で述べているスラム街に入った理由が異なっていることに気づく.当初は,すでに述

べられているように,どうせ死ぬなら良いことをしたいという理由からであった.賀 川にとって良いことは何を指すのだろうか.それは,最初は「救霊」のための伝道活 動であった.しかし,貧民との接触が多くなったことで,彼らの痛みや住んでいる地 域のニーズを把握しながら,それに応じる事業を行うようになった.その具体的な事 業が貧民の救済と感化事業であったのである.10年という時間が,伝道活動だけでは 足らず,貧民と接触する中で彼らのニーズに応じなければならないというように賀川 の考えを変えたのである.すべて「共に生きる」ことから始まったのであろう.貧民 との交流で彼らと痛みを分かち合い,貧民の生活を支援しながら,社会環境を改善し ようとしたことが,いわゆるセツルメントと繋がっていく.

当時の教会が,社会への無関心で教会内への行事や建築の方に関心をもっていたこ とを賀川が批判し,知識層を中心とした敷居の高い教会ではなく,誰でも入りやすい 教会を作ろうとしたのであろう.もちろん最初はどうせ死ぬなら,残った人生を神に 良いことをしたいということで,スラム街に入ったのが事実であるが,スラム街に入 って貧しい人々と交流することによって,「共に生きる」という真の意味について気 づいていき,そして必要に応じて様々な事業を行うことになったのである.つまり,

賀川は単なる救済または感化ではなく,貧民である対象者を尊敬し,共に生きていた のである.

次は,「弱者の権利」についてである.ここでは,「子どもの権利」を中心に述べ ていく.賀川の普段の姿は次のようなものであった.

然し此処に新しく,新見を『先生』として仰ぐ一団が出来た.それは,貧民窟 の子供等であつた.貧民窟の子供は非常に栄一が好きになつた.そして栄一も彼 等が好きであつた(賀川1920a:152,下線‐筆者).

貧民窟の子供は一体に美しい.それで,美しい赤ん坊を抱き締めて,自分一人 で『神は愛だ』と悦び興じて淋しい冬の夕暮を賑やかに送ると,何時の間にか熱 は醒めて居るのである.それで,栄一は発熱してくると,下熱剤の代りにと云つ て,二畳敷の子供の処へ遊びに行つた.縄飛び,鬼ごつこ,隠れん坊,けんけん,

子供の要求する遊びはなんでもした(賀川1920a:164,下線‐筆者).

スラム街は劣悪な環境で,貧困や犯罪など様々な問題が起きやすい地域であった.

問題は,このような環境で過ごさざるを得ない子どもが多くいることである.それゆ え,賀川は子どもが自由に遊べる環境をつくるために教会を開放し,また日曜学校を 通した児童の教育にも関心を持っていたのである.教会が子どもの居場所として役割 を果たすことを賀川は望んでいたのであろう.この志向性がおそらく今日のイエス団 の中で児童施設が多い背景となったものと考えられる.

賀川は,子どもや赤ん坊は,大切に育てられる存在であるにもかかわらず生命をも 脅かされていること(たとえば,「貰い子殺し」や「女の子の身売り」など)に,大 きな責任を感じていた.その結果が,「子どもの権利」の提唱であったものと考えら れる.賀川による「子どもの権利」は,1924年6月9日,東京深川猿江裏児童保護講話 会で,食う権利,遊ぶ権利,寝る権利,叱られる権利,親に夫婦喧嘩をやめてもらう 権利,親に禁酒を要求する権利という六つの内容を訴えたものである(賀川 1926c:

150‐153).印象的なのは親に対して喧嘩の禁止や禁酒を要求する子どもの権利であ る.今日の家庭内の暴力(DV)において夫婦喧嘩や過度の飲酒が原因となっているこ とが多いが,賀川はすでに80年前に予防として子どもの権利を訴えていたのである.

実際に1920年代には,夫婦喧嘩で夫が妻に暴力を振るうのは当たり前の話であったか もしれない.しかし,過度な飲酒の問題が暴力まで拡大していることを問題として指 摘し,その中で生きている児童を保護しようとする賀川の考えは先駆的であった.特 にこの点について,賀川は夫婦がお互いに愛し合い,尊敬し合っているとき,これを 見た子どもは両親を必ず尊敬するようになると述べつつ,夫婦が仲良くして温かい円 満な家庭を作ることを親の子どもに対する義務であると指摘している.賀川の子ども の権利の主張は,1924年9月26日に行なわれた国際連盟総会の第5会期の「児童の権利 宣言」,いわゆる「ジュネーブ宣言」88より3ヶ月前の話であった.

88 児童の権利の内容は次の通りである.

①児童は,身体的ならびに精神的の両面における正常な発達に必要な諸手段を与えられなければな らない.

②飢えた児童は食物を与えられなければならない.

病気の児童は看病されなければならない.

発達の遅れている児童は援助されなければならない.

非行を犯した児童は更生させられなければならない.

孤児および浮浪児は住居を与えられ,かつ,援助されなければならない.

③児童は,危難の際には,最初に救済を受ける者でなければならない.

④児童は,生計を立て得る地位におかれ,かつ,あらゆる形態の搾取から保護されなければ ならない.

⑤児童は,その才能が人類同胞への奉仕のために捧げられるべきである,という自覚のもとで育成 されな けれ ばな らない (参 考:札 幌市 ホー ムペー ジ http://www.city.sapporo.jp/kodomo/kenri /shiryojoyaku_L05_1de.html,2013.8.12 閲覧).

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