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ライフイベント(人生上の出来事)

青井(1987:385‐386)によるとライフイベントは,標準的出来事としての「発達 的 出 来 事 ( developmental events ) 」 と 非 標 準 的 出 来 事 と し て の 「 歴 史 的 出 来 事

(historical events)」に分けられる.発達的出来事は,出生,入学,就職,結婚,

子の出生,子の養育,本人の引退,配偶者の死,本人の死など,ノーマルな人生の出 来事を指す.そして歴史的出来事は天災,戦争,不況,事故,大病などであり,発達 的出来事の時期をずらしたり,順序を入れ替えたりして人生に影響を及ぼす出来事を 指す(森岡・青井1987).

それゆえ本章では,ライフイベント(人生上の出来事)を「発達的出来事」と「歴 史的出来事」に分け,賀川のライフイベントが彼の社会福祉実践・思想の形成にどの ように作用しているのかについて分析する.ここで筆者は,発達的出来事の中で,個 人の主観的経験世界を含めたい.これは,賀川が徳島中学校に入学したことで,キリ スト教に出会う機会を持つようになったと考え,発達的出来事に入れることにした.

また,歴史的出来事については社会の全般的な状況を加味した上で,言及していきた い.

29 ライフコースとは「歴史的・社会的状況に置かれた個人が地位・役割移行を伴いながらたどる 人生の軌跡であり,ライフイベントが時機(タイミング)や移行時間,間隔,順序などについてど のようなパターンをもつかを示したもの」である(今津 2005:176).これはアメリカのエルダー

(Glen H. Elder Jr,1977:282)がライフコースの研究を「個人が年齢別の役割や出来事(events)

を経つつ辿る人生経路(pathways)である」と定義したことによる(森岡 1996:1).

第1節 発達的出来事

賀川の発達的出来事を出生,キリスト教との出会い,「主流派」の学校から「非主 流派」の神学校に分けて論じていく.人によってはキリスト教との出会いはノーマル な出来事ではないが,賀川にとってキリスト教との出会いは,徳島中学校の入学とと もに彼の主観的経験世界の中で,最も重要な出来事なので,ここに含めることにした.

1.出生:妾の子どもというコンプレックス

賀川(1955a)は彼自身が複雑な家庭で生まれ,孤独で感受性が強い青少年時代を 過ごしたと回顧している.1888年7月10日(戸籍では7月12日),父純一と母かめの次 男として兵庫県神戸市で生まれた賀川30は,実は妾の家庭で生まれたのである.父純 一が15歳のときに賀川家の婿養子になってミチと結婚したが,ミチが生来病弱で,性 格的にも純一と相容れなかったことに加えて,二人の間の子どもがいずれも夭折した ため,結婚生活がうまくいかなかった.そのような中,父純一は若き日に徳島内町の 芸妓であったかめ(芸名は益栄)と共に生活し,その間に5人の子どもが生まれた.

その一人が賀川である(図1‐1).

【図1‐1】賀川の家系図 出所:横山(1951);林(2000);雨宮(2003)より筆者作成

30 名 前 の 由 来 は 父 純 一 の 故 郷 , 徳 島 の 大 麻 比 古 神 社 の 祭 神 豊 受 大 神 と 猿 田 彦 大 神 に 因 ん で い る

(賀川 1950:39,下線‐筆者).

賀川盛平

セイ

磯部家 (傳次郎)

純一 萓生かめ(益栄)

1856‐1893.1.17

長女:ミチ 次女:ヒサ

(間宮正身家へ 嫁入り)

純一 1849.3.17‐1892.1.19

端一 1875.

6.13‐

1904.

12.9

喜敬

1891.

2.14‐

1945.

3.18

益慶 1893.

1.3‐

1971.

9.10

修三(病死) 1872.5.10

‐1873.3

於醇(病死) 1877.5.7‐

1878.6.12

1879.

1.2‐

1931.

1.13

豊彦 1888.

7.10‐

1960.

4.23.

しかし,生まれたときから賀川自身は妾の子どもであるという自覚はしていなかっ たはずである.4 歳の時に父を,5 歳で実母も失い,姉の栄とともに徳島県の賀川家 に引き取られてから,賀川は逃れようのない事実を自覚するしかない環境に追い込ま れたことだろう.特に人間の心は人間関係の中で育てられるが,賀川の場合,幼い頃,

急に親を亡くし,一緒に住んでいた兄弟と別れ,賀川の本家という新しい環境に身を 置かざるを得なかったことによって,彼の心の状態がどのような状況であったのかが 推測できる.次の文章は,当時の賀川の心理的な状態が感じられるものである.

お祖父さんが十九ヶ村の大庄屋であつたものだから,お祖母さんはたゞ私を亂 暴な言葉で叱りつける癖があつた.それで私は,家庭では,愛といふものを殆ど 知らずに成長した.私の義理の母は,表にさへ碌々でてこない人で,一日の中で,

私に言葉をかけてくれることは殆ど稀であつた.私が満十歳頃になつてから,や うやく,養母は私に言葉らしい言葉をかけてくれた.養母からは私の生母に對し て,呪ひと侮蔑の聲をよくきいた.その度毎に,私は蔭に入つて泣いた.そんな ことのために,私は他所の家にいつて心持ちよく遊ぶ勇気がなくなってしまつた のだ(賀川1927a:85).

エリクソン(Erik Homburger Erikson,1902.6.15‐1994.5.12)の心理社会的 発達理論(メイヤ著・大西監訳 1976:70‐71)によると,幼児後期の子どもは元気 があるため,失敗はすぐに忘れ,前向きで一生懸命に事を始めることができるもので あると述べている.反面,幼児後期の子どもに失敗してもすぐ忘れたり,前向きで一 生懸命にことを始めたりする経験がなかったり,活動に拘束されたりすると,罪悪感 と不安の念を生じさせる.賀川の場合は,継母から生母に関する呪いや侮蔑の声を聞 かされたり,祖母から乱暴な言葉を聞いたり,いわゆる幼児後期に不安を感じる日々 の中で,愛を感じるどころか,自分のせいでもないのに叱られるたびに罪悪感さえも 感じていたと考えられる.それに対する賀川の反応は次の通りである.

子供に罪はない.私生児に生れたからと云つて,何も悲観すべき必要はない.

斯くいふ私は,父が戸籍謄本を偽造してゐなければ私生児の列に加へらるべき運 命にあつたのである.私は戸籍面に於ては義母の正統なる子供になつてゐるけれ

ども,私は妾腹の子に生まれた.それで私は私生児に対して非常に同情を持つて 居る.否持たざるを得ない(賀川1937a:371).

意識的にせよ無意識的にせよ,賀川の心の中では,「私生児」や「妾腹の子」とい う傷が残り,世の私生児に対して同情するほど,コンプレックスをもっていたのであ る.また小学校でも妾の子とからかわれた(賀川 1950:31;横山 1951:11)ため,

賀川は家にいても学校にいても好意を寄せることができる場所,居場所がどこにもな かったものと考えられる.思いがけない親の死によって賀川の人生が一気に変化した わけである.新しく継祖母と継母とも暮らし始めた賀川は,突然妾の子として扱われ,

どこにいても愛されない存在として大変孤独感を感じていただろう.しかも唯一の肉 親であった姉栄の存在も彼の支えとはならなかったようである.

私の姉も,殆ど私と同時に,神戸から田舎に歸つてきたが,ヒステリツクな私 の姉は,少しも私を愛してくれないで,奥に入つて泣いてばかりゐて,とうとう 數ヶ月の間に,病床についてしまつた.私は姉と一度も遊んだこと はなく,一度 も姉弟らしい言葉を交わしたことはなかつた(賀川1927a:85).

継母も,継祖母も姉も仲が悪く,わたしはおさないながらに姉に同情していた.

この姉はわたしの兄弟のなかで,もっとも不幸な一生を送った女であった(賀川 1955a:93).

9 歳の差もあった姉栄は,賀川に反して継祖母から田舎での過酷な労働を要求され た(シルジェン 2007:27)ため,栄自身が弟の賀川を世話する心の余裕さえなかっ ただろう.息詰まるような雰囲気から逃れるために,賀川が選んだ方法は兄端一に頼 んで,徳島中学校に行かせてもらうことであった.

また妾の息子ということ以外に,家族へのコンプレックスもあった.父純一や兄端 一に関する賀川の感情は次の通りである.

お父様.私はお父様を愛して居るのです.然しお父様が株式や投機に手を出し て,女遊びに身を窶すのが嫌ひです(賀川1920:81).

繁太郎のお父さんは,大酒飲で,少しも,繁太郎をかまつてくれません.お母

さんは義理のなかで,繁太郎のほんとうのお母さんは,繁太郎が六つの時に死な れました.今のお母さんは,二人の連子があるので,繁太郎を少しも可愛がって くれませんでした.繁太郎は,二月の寒いときでも,印袢纏一枚で,長い着物は ありませんでした.お父さんは,船から荷物を陸にあげる仲仕でした.けれど,

儲 け て き た お 金 は み ん な お 酒 を の む の に つ か つ て し ま い ま し た ( 賀 川 1951 : 377).

My Brother lived a licentious life. He kept many girls. He went from one to another, and died in Korea. Though my father had been secretary to the Privy Council of the Emperor of Japan, he also had lived licentious life. He looked pretty good outside but was not happy at home because he kept many wives. Therefore I found out that it is necessary to live a pure life Christ the example for life (Kagawa1931:1).

上記のように賀川の家族への感情は肯定的ではなかった.つまり,「妾の子」とい うコンプレックスは,父親の生活様式と兄端一の放蕩な生活,そして姉が弟に対して 無関心であることによって家族へのコンプレックスまで拡大していったものと考えら れる.それゆえ,賀川自身が自ら純潔な生活を強く求めるに至ったのかもしれない.

もちろん神への信仰によってすべてが克服され,一生節制された人生を歩んできたと 言えるが,彼の文章から見られる家族への感情は,消えないコンプレックスとして残 されていたことであろう.岸(1968:109)は賀川が述べた徳島に対する思いを次の ように記している.

「私にとって徳島にはあまり楽しい思い出はない.それなのに名誉市民に推し てくださったと聞き,これまで徳島へ行くものかと考えていたこと自体が恥ずか しく,今はただうれしさでいっぱいです.」

昭和三十三年二月六日,賀川は徳島県下をキリスト教伝道中,徳島市が彼を名 誉市民に選ぶことになった報道を聞き,こう新聞記者に語っている.

上記から徳島での賀川の思いがそのまま伝わってくる.1893年から徳島に住み始め,

1905年に明治学院に入学するまで,約12年間も徳島に住んでいたが,賀川は楽しい思

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