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第1節 「認識の枠組み」の概念――ギデンズの構造の二重性理論を手掛かりに 1、ジャーナリズム研究における「個人の記者」

ジャーナリズム研究は、権力や制度や慣習など「システム」の問題と比べ、「個人」レベ ルでの記者の行為および認識の問題にあまり関心を示さなかった。もちろん、記者を対象と するさまざまな意識調査が行われ、それらの調査を通じて、記者の職業や社会的責任、技術 や権力など諸要素に対する全体的な考え方を把握できる。しかし、この種の調査だけでは、

記者の思考を彼らの実践に表れる行動様式に関連付けることや、個々の記者の主体的行為 がメディア組織、社会、世界の生産および再生産に関与することの意味を示すことなどの問 題をうまく扱ってこなかった。

「個人の記者」および彼らの認識の問題が敬遠される理由は主に二つ挙げられる。第一に、

ジャーナリズム活動は、個人的というより、組織的に行われているものであり、個々の記者 の行動は常にメディア組織やさらに広範なメディア環境、社会制度によって大きく左右さ れるからである。そして第二に、認識とは個人の内なる意識的なものであり、直接に観察す ることができないゆえ、研究対象として扱いにくいからである。例えば、さまざまなアンケ ートやインタビュー調査で、記者の記述や説明を把握できたとしても、それらの表現が「本 音」を反映していると確認する術がない。

この二つの理由は社会理論における伝統的な二つの二元論、すなわち、決定論に関連する

「個人と社会」「主体と客体」という二元論と、認識様式に関する「内的意識」と「外的世 界」という二元論をそれぞれ引きずっている。第一の理由は、社会的全体がその構成要素と なる行為者や人間主体に対して優位に立つことを考えている。それは個人に対する組織や 社会の客観的な拘束が強調されている。そして第二の理由は、個人の「内的意識」など「非 言説的なもの」「述べることのできないもの」を「無意識」と見なし、「社会的な世界」やそ れに関する「言説」から切り離すものと捉えることである。

このような二元論的な考え方によって、組織や社会の再生産に対する記者個人の行動を 議論する必要性と、記者の認識にアプローチする可能性を検討することさえ困難に陥って しまう。したがって記者の「認識の枠組み」の研究に取り組む際、まずこれらの疑問を払拭 し、個人的なものを社会的なものから分離する、伝統的な二元論の亀裂をふさぐ必要がある。

その時、ギデンズが「構造化理論」で提示した「構造の二重性」の概念が(Giddens 1984=2015)

が有用である。

ギデンズは構造の二重性を、社会生活の本質的な再帰性と説明した。再帰性とは、ある活 動や営みが巡り巡ってそれら自身に立ち返ってくる性質を表す。ギデンズは構造の二重性 が社会的実践の中で形成されるものであると述べ、つまり、社会構造が行為者の行為を規制 しつつ、行為の実践によって構造それ自体も変容する。さらにギデンズはこの社会的実践を、

実践的意識とともに、社会理論における伝統的な二つの二元論を媒介する重要な契機と見 なしている(Giddens1979=友枝他1989:5)。

しかしながら、ギデンズの構造化理論は複雑であり、その全般を検討評価するのが本論文 の目的ではないため、構造化理論の諸原理から、本論の中心となる記者の「認識の枠組み」

と密接に関わる「行為する主体の理論」に焦点を絞ることにする。そして「行為する主体の 理論」に軸足を据え、その中心である「実践的意識」を記者の「認識の枠組み」を議論する 時の理論の礎とする。

2、ギデンズの行為する主体の理論

ギデンズによれば、社会的実践(人間の社会活動)は再帰的であり、それは社会的行為者 によって一から作られているのではなく、社会的行為者が自己を行為者として表現する手 段を通じてたえず再創造されている。つまり行為者は活動において、あるいは活動を通して まさにその活動を可能にしている条件を再生産する。そして、その過程で最も重要なのは行 為者が持つ「反省性」であり、この反省性は自己の意識としてだけでなく、常に変化する社 会生活の特性を監視(モニタリング)することとしても理解されなければならないと彼は指 摘している。行為者は反省的モニタリングによって、自身の活動を他者や社会に関係づけて いるのである(Giddens1979=友枝他 1989:61)。さらに、人間行為者が持つ知識能力に固 有の反省的な形式こそが社会的慣習の再帰的秩序化に深く関与し、ある社会的慣習の継続 性は「反省性」によって実現され、逆にその「反省性」も慣習の継続性の存在を欠いては成 立できないと述べている(Giddens 1984=門田2015:28-29)。

ギデンズの理論を踏まえれば、行為者としての記者による主体的なジャーナリズム活動 と、それを取り巻く社会全体の構造との関係について以下のように理解できる。記者はジャ ーナリズム活動において/を通して、「記者」として活動するための経済的、政治的、職業的 諸条件を再生産する。そしてそのプロセスに不可欠な記者の反省性とは、記者としての職業 的行為から社会制度まで、社会生活全体に対するモニタリングを土台にしていると理解で きる。

つまり、社会システムや制度を構成する諸要素や諸条件は記者を抑制するものだけでな

く、記者がそれらを再構築するための資源でもある。記者はジャーナリズム活動でそれらの 要素に依拠しつつ、諸要素が適切なものであるかどうかと、批判的に吟味した上で自分の

「認識の枠組み」に取り込み、再構築することになる。こうした相互行為を通じて社会シス テムや制度に再帰的に関わっていく。

したがって、イデオロギーや権力などを外的規定要因として、制約の側面ばかり強調すれ ば、個々の記者の役割を過小評価する恐れがある。記者個人には限界があるという論理は、

一見記者を擁護するようであるが、実際には記者の活動意欲を挫き、彼らの「認識の枠組み」

の働き全体までを希釈化し、骨抜きにすると考えざるを得ない。メディア研究者は記者のジ ャーナリズム活動に影響する諸要素を科学的な手法で検証し、確認することができるが、研 究者自身は日常の活動で諸要素から実際の影響を受けることもなく、それらのダイナミッ クな動きと葛藤に悩まされるわけではない。この点で記者たちと根本的に違うことを見過 ごすわけにはいかない。

ジャーナリズム研究で、記者たちを取り巻くすべての要素が完璧に機能するという理想 的な状態ばかりを語ることや、性急にジャーナリズムの職業意識によってすべての影響に 対抗することを要求するのは現実味に欠ける。したがって、本論文で主張するジャーナリズ ム研究における「個人の記者」にアプローチすることは、必ずしも記者個人の行動でメディ ア組織や、さらに包括的な社会制度、社会的システムを再構築することを希求する意味では ない。むしろ、記者が行うジャーナリズム活動そのものの再生産に不可欠な「自省的思考」

を確認するところにある。この「自省的思考」こそ、本論文の主張する中心的概念、すなわ ち「認識の枠組み」にリンクするものであるが、これについては、次節で詳細に述べる。

ここまでの議論は、第一の課題、すなわち個人の記者と記者による活動を注視する意義の 所在を、ギデンズが提案した「個人」と「社会」の関係の扱い方で締めくくった。さらにも う一つの課題、すなわち個人の「意識」と社会的世界に関する「言説」との関係、およびそ れと関連する「意識を検証する」ことの不可能性に関する疑問に答えるために、ギデンズが 提案した「実践的意識」という概念を参考にする。

ギデンズは「行為する主体の理論」を「行為する自己(パーソナリティ)の階層モデル」、 すなわち、行為の反省的モニタリング41、行為の合理化、行為の動機付けを相互に埋め込ま

41『社会の構成』(Giddens 1984=門田2015)では「行為の反省的モニタリング」と訳されているが、『社 会理論の最前線』(Giddens1979=友枝他1989)では、「行為の自省的評価」と訳されている。本論文で は前者の訳語を使用する。

れた一連のプロセスで説明している(Giddens 1984=門田2015)。そして社会生活の中でい つも働いている「反省的モニタリング」が、行為する主体の理論の基礎であると強調してい る(Giddens1979=友枝他1989:44)。

ちなみに、構造の二重性理論では、社会的行為者が、彼らの行為によって構成し、かつ再 生産している社会システムに関する知識を持っていることを論理的に要求されているとギ デンズは指摘している。この前提に対する異論が存在していることを否定するわけではな いが、社会的行為者を新聞記者に限定すれば、この前提が成立すると考えられる。なぜなら、

それが記者としての基本的な要求であるからである。

そして行為者は知識のストックに依存し、自らの行為の根拠を説明する能力を持ち、この 能力を行為の合理化とギデンズは定義している(Giddens1979=友枝他1989:62)。通常、

行為の合理化は行為者の言説能力に密接に関わると見られているが、ギデンズは行為の合 理化には、言語によって表現する「言説的意識」だけでなく、行為を実行する際に巧みに用 いられるが、行為者が言説によって定式化できない暗黙知、すなわち「実践的意識」が重要 であると述べている。なぜなら、行為の合理化は知識のストックに依存するが、知識のスト ック自体は行為の生産・再生産に依存するものであり、社会的実践において用いられるから である。したがって行為の合理化は行為者が自らの活動の根拠についての「理論的理解」を 継続的に維持するプロセスであり、行為の合理化と知識のストックの間に、実践的意識の領 域が存在し、そこで反省的モニタリングが作用している(同書: 27,61-62)。つまりこの「実 践的意識」こそが人間活動の中心をなす反省的モニタリングの土台であるとギデンズは主 張している(同上)。

ギデンズの提案した「実践的意識」という概念は、実質的に知識の実践的特性を示すもの である。知識の実践的特性とは、他人や社会システムと、それらについての行為者が持つ知 識と不可分であることをいう。したがって、「実践的意識」の主旨は、個人の意識的なもの が実践的なものと切り離せないという観点から理解する点にある。

特に留意すべきは、言説的意識と実践的意識の間には障壁がなく、流動的であり、透過的 である点である。つまり、実践的意識と言説的意識との区別は硬直した不変のものではなく、

行為者が社会化及び経験の習得を進めていくに応じて変化しうるものであり、言語化しう ることと、本質上ただ為されるほかないこととの差異である(Giddens 1984=門田2015:33)。

したがって、実践的意識は言語によって表現することができないとはいえ、把握すること ができないという意味ではない。実践的意識は私的なものではなく、行為に基づいて「思考」