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中国特派員が書いた書籍・雑誌記事にみられる「認識の枠組み」

本章では歴史を踏まえながら、中国特派員たちの新聞記事以外の著作物である書籍・雑誌 記事を対象に、彼らの「認識の枠組み」を探究し、各期の特派員の中国に対する認識は組織 レベルでの認識と違うのか、また、その認識は職業的意識とどのような関連性を持っている のか、などの問題を検証する。

第1節 中国特派員の小史

日本の新聞各社は凡そ20世紀初頭から、正式に本社で国際ニュース報道の専門部署を立 ち上げ、海外で支局を設立し始めていた63。1930 年代までには、各社の海外取材網が整え られ、取材拠点はアジアから、ヨーロッパや北米へと拡大していた。中には中国を含めるア ジアが取材拠点としても報道対象としても、最初から高いニュース価値を保持し続けてい た。特に第一次世界大戦後、朝日新聞と読売新聞は外報部からそれぞれ支那部(大阪朝日 1920年6月)と東亜部(読売新聞1937年4月)を独立した部署とした。

ただし、日本の新聞社は本格的に中国に特派員を派遣し始めたのは、日清戦争の時からで ある。その後日露戦争、第一次世界大戦、さらに日中戦争と20世紀半ばまで、戦争が多発 したため、中国特派員は(従軍記者も含める)戦場が主な取材現場で、戦況報告が多くを占 めていた。

第二次世界大戦終戦後、日中両国は冷戦構造や台湾問題など国際情勢の影響下で、国交が ない状態が続き、中国に駐在する特派員がいない時代となった64。しかし、1960 年代に入 ると、冷戦構造が揺らぎ始め、日中関係も新たな転機を迎える。1960年8月、周恩来首相 は鈴木一雄日中貿易促進会専務理事と会見し、対日貿易三原則を提示し、日中民間貿易の再 開の兆しが見えてきた。そして1962年9月、自民党顧問の松村謙三が訪中し、周恩来首相 や陳毅外交部長と会談し、日中関係について「積み上げ方式」を確認した65。さらに同年11

63 朝日新聞社の社史によれば、同社(朝日東京)は19111113日に編集局制を実施し、外報部が政 治経済部、内地通信部、社会部、調査部とともに編集部を構成した(朝日新聞社史・資料編1995)。読売 新聞社の外報部については、読売新聞国際部が出版した『20世紀随想:国際報道の現場から』では1933 1月に発足したと記しているが(読売新聞国際部2000:340)『読売新聞百年史 資料・年表』に記載 されている、同社の6代目社長が就任した1919101日の幹部陣営を見れば、「外報部」がすでに入 ったことが分かる(読売新聞100年史編集委員会1976:241)

64 朝日新聞社史・資料編によると、19572月に共同通信社に続き、朝日新聞も特派員の北京駐在が認 められたが、8月に中国側から岸首相の「反中国的態度」を理由に打ち切られたため、わずか6カ月で終 わってしまった(朝日新聞社史・資料編1995:239)

65 「積み上げ方式」とは、民間レベルの経済・文化交流を漸進的に増やすことで、関係を改善しようとす る現実的な外交の進め方のことである(川島・服部編2007=池田:277)

月に、日本側は高碕達之助氏、中国側は廖承志氏が「日中貿易に関する高碕達之助・廖承志 の覚書」、いわゆる「LT貿易覚書」に調印する。

この「LT貿易覚書」の調印をきっかけに、日中両国のマス・メディアも相乗りする形で、

政府間レベルで記者交換について交渉を進む。1964年4月19日に、廖承志事務所と高碕

(達之助)事務所との間で「日中新聞記者交換に関する会談メモ」と呼ばれる日中記者交換 協定が調印され、同年9月に新聞社六社(朝日新聞、読売新聞、産経新聞、日本経済新聞、

西日本、毎日新聞)、放送二社(NHK、東京放送)、通信社一社(共同通信)の計九名の記 者が北京常駐特派員として派遣されたのである。(段編2004、浜本1998、藤野1994など)。 初代の中国特派員たちは、日中両国の友好関係の構築や、日中国交回復への理想、あるいは 目標を持っていた。初代北京特派員を務めた TBS(東京放送)の大越幸夫は日中記者交換 記念座談会における挨拶では、次のように述べていた。

初代の九社九名の特派員は、特に申し合わせをしたわけではありませんが、常に、心の奥底に、日 中両国の平和友好関係を促進しよう、両国の相互理解を一段と深めよう、一日も早く両国の不自然な 関係を正常化しよう、少なくとも歴史の歯車を逆戻りさせるようなことはしない、といった強い絆で 結ばれていたと思います。(段編・大越2004:48)

この記述から、「日中友好の推進」は初代特派員たちの「政治的認識」に内在しているこ とが垣間見える。そして、このような認識は、日本のマス・メディアと国民の共通認識であ るともいえる。例えば、元共同通信社中国特派員の中島宏は次のように述べていた。

日本が、田中訪中で米国を追い越し、いち早く国交にまで進んだ背景には、それまでの日中国交回 復を求める国民的な運動の存在があった。マスコミもほぼ一致して、日中国交を前提に報道してきた。

日中関係が国交正常化後も長らく蜜月時代が続いたのは、その余熱の効用もあった(段編・中島 2004:240)

しかし、中国は1966年から毛沢東が文化大革命を発動し、社会全体が混乱に陥っただけ でなく、中国で報道活動をする特派員にも深刻な影響を与えた。文革中は「中国に対する非 友好的な報道」を理由に各社特派員が相次いで国外追放され66、朝日新聞の秋岡家栄特派員 は一時期、北京に残った唯一の日本人記者となった(段編2004=秋岡:154)。当時の朝日新 聞は、広岡知男社長の意向もあり、中国政府寄りの論調が目立ち、特に「林彪事件」67につ

66 関連する詳しい内容は福原亨一、塩島俊雄などが『春華秋實』(段編 2004=福原:176-179、塩島:194-196)での記述を参照

67 1971913日、林彪党中央委員会副主席のクーデター未遂及びその後の亡命途中の墜落事件。

いて、海外メデイアも含める多数の報道機関が林彪失脚説を報じたにもかかわらず、朝日新 聞は林彪健在を示唆する報道をした。朝日新聞がこのように文革礼賛や、中国政府の意向に 忖度する記事を掲載し、事実を報じられなかったことは日本のジャーナリズムにとっての 歴史的な汚点だとみられている(高井2002、古森2000など)。ただし、中国全土が大混乱 に陥った文化大革命という異常な時代の波の中で、一中国特派員が正常にジャーナリズム 活動できる状況でなかったともいえる。

文革で日中間の記者交換が紆余曲折をたどった(段編・藤野2004:502)が、幸い記者交 換の方針は日中国交正常化(1972年9月)以降も続き、1974年1月には、「日中常駐記者 交換に関する覚書」が、日中両国政府当局者の間で正式に結ばれ、駐在記者の人数と駐在可 能な都市という枠が設けられた(段編2004、浜本1998、藤野1994など)。

1996年10月に日中両国政府間で、北京、上海、広州の常駐特派員数を60人から75人 に増やす口上書を取り交わし、2006年までこの人数の枠が続いていた。そして、第2章で 述べたように、1998年に時事通信社も含め、日本の一部大手通信社や全国紙が北京支局を

「中国総局」に格上げしたが、常駐特派員の人数はあまり増えていない。1998年11月現在 の中国常駐の日本人記者数は62人であり、13の枠が空席のままとなった(新聞研究

1998-12=浜本:46)。こうした現状を踏まえ、浜本は政府間の記者交換枠制度が、おおむね歴史的

な役目を終えたと指摘した(同上)。

2006 年2月17日に、中国で日本人記者が常駐可能な人数人数枠がついに撤廃され、同 時に、常駐都市として瀋陽が新たに加わった。同年、朝日・読売二紙が瀋陽で支局を開設し た。しかし、中国で常駐可能な都市は五つ(北京、上海、広州、重慶、瀋陽)となったが、

常駐可能都市の枠がまだ残されている68

2006年前後から、日本メディアの中国特派員の構成も変わりつつある。時事通信社中国 総局特派員であった城山英已も、日本の北京特派員が専門ごとの担当になり、人数が増えて いることを述べた(城山2005:56)69。さらに中国報道は2008年の北京五輪をめぐる報道 でかつての中国の専門記者の領域から、さまざまな分野の記者が取材する新しい段階に入 った(新聞研究2008=佐藤:17)。つまり、中国特派員の構成は、従来の「中国屋」と呼ば れる中国報道専門記者から、スポーツをはじめ、社会部、政治部の記者へと広がっている。

68 『新聞研究』(2006-04) (657),p84を参照のこと。

69 「世界のニュース現場から(5)変わる中国、見えぬ内側--「表」と「裏」をどう伝えるか」『新聞研究』

(644), 56-59 (2005-03)

現在、中国特派員は年齢、経歴、専門性などの差異で示すことができないほど構成が複雑と なり、元特派員も二度、三度の駐在が常態化し、中国特派員が本社に帰ると、中国報道専門 デスクになったり、編集局に就任したり、また全く別の部署に異動したりしている。彼らは 依然として中国報道に強い影響力を持ち、彼らの中国、中国報道に対する認識をどのような ものであるのかを考察することが、中国報道を理解するために重要である。

第2節 書籍・雑誌記事の選出と分析手順 1、書籍・雑誌の選出

本節では、1980年代から中国各地に赴任する中国特派員が執筆した書物と雑誌記事を分 析する。まず全国の大学図書館等が所蔵する本(図書や雑誌等)の情報の検索サービスCiNii

Booksと国立国会図書館オンライン(NDL Online)を使い、出版年を1985年以降に設定

し、それぞれキーワード「中国 特派員」「中国 報道」で検索した。そして結果から中国 報道と無関係なもの、執筆者が中国特派員ではないもの、新聞に掲載された記事をまとめた ものなど、本研究の主旨と関連性のない項目を除外した。ちなみに、分析対象として選択し た際、新聞・通信社各社のバランスを考えるほか、「ボーン・上田記念国際記者賞」を受賞 した中国特派員を一つの選出基準とした。結果、考察期間内の受賞者全員の書籍・雑誌記事 がデータに含まれることになった。そして情報誌では、学術論文や新聞記事と同じような

「報道」を中心とする記事を対象外とした。最終的に16冊の書籍と5種の雑誌等の資料を 選出した。以下、これらを総称して<書籍・雑誌記事>とする。表8はそのリストである。

これらの著作は概ね三種類に分類できる。第一に、最も多いのは、従来の新聞記事などの 報道で十分に伝えきれない中国の政治、経済、社会など諸分野の問題や課題と、それらに対 する特派員個人の解説を合わせて記述したものである。(例えば表 8:1、2、3、4、7、8、

16)。中には、城山英巳の『中国消し去られた記録:北京特派員が見た大国の闇』(表8:4)は、

配信された原稿と当事者の証言を、自らの評価をつなぎ合わせて記録している手法を取る ユニークな著作である。

そして第二は特派員が中国でのさまざまな体験を綴った随筆である。中には特派員の心 情を述懐する内容や特派員の職業に対する自省も少なからず含まれる(表 8:5、6、9、11、

12、14、15)。また中国での具体的な取材・報道活動に関する詳細な記述や、特派員の職業

意識に迫る著作もある(表8:10、13、③、④など)。