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一 触書絶対 考 究極者探究の心と態度で︑最後に究極固定唯一の 善 があると
の共通前提を持っが︑此等は封建制遺物なりとし︑﹁ 原理とか 規範とか法則とかは︑個々の即ち ュ ニ一ク な 諸伏 位絃
円仁りま 0 宙ヲを 分析する知的な道具てはなかろうかし︵哲学にお け る 改造︶
と 道具主義 ぎ降きヨ の三
%のヨ といわれる立場が明瞭 である︒ り
生長が善で理想追求の努力の立場から功利主義に反対 する︒
長所では社会の安寧幸福を最上標準と人々に思わすが ︑欠点 卸 デューイの宗教論と倫理学 然 観の弊害等 か ︒ 0 も排せられる︒彼の倫理説は結論的 には生長 が 善であり︑諸原理︵自然科学︶もその生長の道具と して価値
られる︒既に述べた如く目的 観 思想は︑一元論的︑ 汎 神論的方れとにがい眼で見られたが︑人間性への
理解欠乏が侮蔑の最初 向を要求するから︑目的論的思想との関係に 掩 いて 彼 の 宗教観原因︵人間性と行為︶︒社会生活民主化 | 上人間性尊重で︑近世 を 考える場合︑彼の宗教観はキリスト教によって育て られ︑ 展 以来超越的神のみ考えるのから去り所謂 自然科学的研究による 聞 されながらも︑最も本質的な点でキリスト教と異 り︑そこにの
て ︑ルソ 一 はこの面の強い先駆者とす る ︒彼の倫理学は﹁ 人 又ョ一 ロッパの近代化の根本的意味が示唆されている と 考え ろ 間性に味方の倫理﹂とも称される︒ 超自 黙約力の信仰は︑ a 直定を排し生長の立場︑ b 近代的自然科学と宗教的なる ものの
一
れる︒ 致︑
c 宗教に大切なのは人間の営みで超自然力でない︑
d 種目a@
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姿Ⅴ
は ︑最大多数の最大幸福を最高固定の目的とし︑従来 の 固定 終 極 最高目的の概念を疑問とせず︑ 働 ぎが方便︑結果の 幸福が 目 的で積られ貯えられ買い得るから︑方便の働ぎは避け たく︑ 働 かずに快楽をとなり︑労働者︵生産者︶は生産所得の 資本家に 従属となる︒デューイは 働 ぎと結果は平等で固定を嫌 ぅ ︒幸福 は 固定的でなく動的である︒ただ彼は本能的欲求とし て 私有財 産を認める︒ 極楽浄土の安楽 は 真の幸福でなく︑退屈で怠 け 者だけ に壺 ‑ こ ばれようとの立場だが︑東洋思想は よ くは判らぬが と 北京大学 で 語っている︒宗教論でも社会性︑努力を強調するが ︑ 彼の系 統 に左右両派もあり︑全体主義に傾かぬ よう ︑生長︑ 人間性︑ 場 等からも︑真意を汲むのが望ましい︒彼の教育学は 実験教育
本質を追求し純粋 ェ キスを抽出すると共に︑宗教的な るもの の ︑自然科学教育と矛盾せぬ実験教育を行い︑デュ 一 イの 主張 を 補充 し 前進し︑大成せしめることは︑日本の ュこ| クなム一 ︵ ua ま o コ のもつ世界的課題と考える︒
人間の生は自覚的生である︒それは一面11自覚とは 無関係に 与えられた生でありつつ︑他面自覚につつまれ自覚 に 貫かれ
ている︑その根本矛盾を蔵した生である︒この自覚的 生を自覚
的に生ぎんとする時︑生への意志はより高 き 価値を求 め︑ 生そ のものの超越を求める︒このように単に生きるのては なくより
よ く 生 ぎんとする故に﹁如何に生きるべ きか ﹂とい 5 %@ の "
Ⅰ ra ㏄のにおいて︑自己の生とそれがその中で生きてい 8 世界が
必然的に問いに化してくる︒ところで自覚的生を自覚 的に生 き
んとする時生への意志は他面︑生の根源を求め︑生そ のものの 根拠を問 うて 行く︒かくて﹁我とは何ぞや﹂という 毛 ハの n Ⅱ qp |
幅 のにおいて自己の生とそれがその中で生きている世界 が 問 い
に 化するという今一つの必然性がある︒
ところで﹁如何に生きるべ き かしという問いのもとで 自覚的
生 が臣鰍の形で問われているところでは自己と他者 の 関係が
必然的な問題となっており︑自己と世界との関係も ︑ 特定の他
者を媒介として切実な問題と化す︒このように自己が ︵世界
な もそこにふくめて︶他者媒介的に問われているとい
つこと
@は︑ 帰する所自己の真実が問われていることを意味す る ︒かか
る 問いの窮極においてわれわれの生の根本矛盾が対自 化した時
に ︑如何にしても真実でありえないとの罪の自覚が成 ‑ 上する︒
宗教的自覚における﹁ 脱 ﹂と﹁ 転 ﹂ 阿部正雄
く 332) 62
第二部会
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63@ (333)
それとしてではなく︑超克さるべ き それとして自覚 さ れるので
ある︒
したがってラディカル・ニヒリズムにとってはこの 二 つの 原
型はあくまで原型であって同時に原型ではない︒原型 であると
い う 限りにおいてこの二つの宗教的自覚は虚無の自覚 を 場とし
て 鋭く対立緊張の関係にあり︑原型でないという限り において
それらは宗教的自覚という意味を失って虚無の中に解 消し去っ
ている︒そこではある意味において 毛ぉ をも 更げ をも越え
た 宴安が現成しているのかも知れないが︑虚無の自 覚は 虚無
の 自覚の故にただそれを絶対的な 呂り 三のとしてのみ 自覚する
のである︒
(334) 64
仏性の哲学を中心とする道元の哲学
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デュ
モリン
道元の主著である㍉正法眼蔵 日 においても明らかな ょ う に ︑ 道元の思想は完結した哲学体系といったものではなく ︑ 様々な 点を手がかり但して同一の中心点に伺って行く︒ 或時 はこの面 から︑ 或 時は他の面からというようにして︑様々な 思 想の環が その中心をめぐっている " この考察は︑道元の思想の 中心を形 成している仏性の概念において︑道元の宗教的形而上 単 に入る 通路を見出そうとするものである︒ここではさし当 つ て ︑道一九 の 仏性の説を︑﹁正法眼蔵﹂中の同名の巻に 塞 いて 検 試 してみ
ようと思う︒
道元は︑大般 浬穏 経の中の釈尊の言葉︑﹁一切衆生益 有 仏 性 @ ﹂ の 解釈において︑普通の意味とほ違った︑より包括的 な把 え方
なしている︒普通の︑伝統的な解釈では︑この言葉は 次のよう
な意味を表わしている︒即ち︑生死の世界における 生 命 あるも
会 のはすべて︑その中に種子としての仏性を具えて いると︒しか
在 をも含むも 第 のとして解釈したばかりでなく︑文章の構造を独 特な 仕方で 把
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65 (335)
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盾 対立しているのではない︒むしろそれによって ︑肯 定的 表現 に 必ずつぎ ま と 5 不十分さが克服されるのである︒﹁ 無 仏性﹂
という言葉によって有への執着が越えられ︑空の洞察 へ と う な がされる︒悟りの境地においては︑ 有 仏性と無仏性と は 全く同
一なのである︒
この ょう にして否定の道は︑山里正をも否定をも越えて 行く︒
すべての限定された状態は否定の超越的な 働 ぎによっ て 打破ら れるが︑無が安住の境地としての到達点なのでもない ︒生成 流
転の世界こそ真実在なのであり︑仏性なのである︒ 道 元 はこれ
を ﹁無常仏性しと表現している︒この場合も﹁無常 ﹂は﹁尚山 住しに対立させられているのではない 0 普通の意味で ほ 仏性は 常住であり︑反対に現象世界 は 紐帯である︒しかし 大 乗の立場 からみれば︑ 浬穏と 生死とは同一であり︑仏性は常住 であると
同時に無常なのである︒
道元の独特な思惟万法は︑ヨーロッパ哲学における ヰ コラ ウ
ス ・クザー ヌスや ルネッサンスの自然主義哲学者たち を 思わせ
るものがある︒近代哲学の中では特にへ 一 ゲルの弁証 法的哲学 が ︑道元の思想的基盤やかくれた原動力を明るみに 出 すことが できるでおろ う ︒しかしこれまでのうちで最も注目す へぎ もの は ︑道元とハイデ︐ガーとの比較研究であった︒ハイ 一
のいくつかの表現を︑道元の用語をもって理解した 学 者 も見受
げられる︒ 法伏の ﹁光明 亮 に答ふる重日﹂に よ ると︑当時すでに﹁ 一念 往
生 の 義 ﹂が京都に行われていたよ う であるが︑越中に 邪見のひ
とがいてこの説を放し︑その内容も少しく紹介されて いる︒ 親 鸞 によると︑このひとは 成覚房 幸西の弟子ということ である︒
また弁長の司念仏名義 集ヒ 中巻には三つの一念義が記 載 され︑
下巻にも安心 門 重視の一念義とほかに二つの 邪義 をあ げている が ︑その 邪義 の一つは法木房村 空 の 説 ということであ る ︒しか
しこれらの邪毒には直接一念義に関係した説明はみら れない︒
このほか凝然の コ 浄土源流 章 L には幸西の一念義が 詳 諒 されて
いる︒ ところでこれらの一念義が説くところは︑一念の意味 すると ころに注目すると き ︑天台口伝法門の思想と無関係で はない︒
皇
覚の三十四箇事書
ヒの ﹁一念成仏 義 ﹂︑最澄の撰 と 伝える 円 五部血脈 L の﹁一念成仏 義 ﹂︑同じくコ大ムロ法華宗 牛 頭 法門 要纂 L の﹁即身成仏義﹂などがまず注目される︒そこ には自身 ほ 即ち 仏 と知ると き ︑ 即解 ︐即行・ 即 証して﹁一念の 頃 ﹂に 成 体 するとし︑一念を時間の上で捉えているが︑これは 遠く﹁ 往 主要 集 しにまで遡ることができる︒そして % 安 実 しで ﹁六字を連 るの頃﹂と捉えられた一念をそのなかの﹁臨終の 一 念 ﹂﹁ 最
石田端
麿一念義について
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