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第四部会 

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ノ う :  しは  を力  三十  に プ 

   来、 

八九  善を 

   中濱  教篤  戦時中におけるキリス・ 

ト 

教の大陸伝道 

満洲事変以後における日本キリスト教の中国布教につ いて︑ 

その基本的性格を分析する︒ここで日本キリスト教の 対 中国 伝 

道の基本的役割の一つ む 指摘するとすれば︑それは 英 米 キリス 

ト 教の対中国伝道が︑その国の対中国政策に利用され ていたこ  出席し︑帰途ホノルルでフォスター夫人と知りその 帰 佐を受 け 

た ︒一八九六年ポール・ケーラスに招かれて再び渡米 し ︑翌年 

五月に合衆国ではじめて ウヱ一 サカ祭を催した︒セイ 百ンに帰  った 彼は神智協会とわかれて独力で仏教復興につとめ︑ 一八九  九年にはインドの各地を旅行して部落の解放を叫び︑ マドラス  に 支部をつくり︑タ々国 や ビルマに宣教 し︑プダ ガヤ の 復興を  訴えた︒一九 0 二年から四年にかけて三度アメリカに 行 き︑そ  の 援助のもとサールナートに工業学校を建て︑コロン % に 病院  なづ くった︒一九一五年セイ ロソ に暴動がおこり︑ 彼 も 五年間  カルカッタに抑留されたが︑その間にカルカッタに 精 舎を建て  た ︒一九二二年病気治療のためヨーロッパに行 き︑ロ ンドンに  大菩提会を創立し 円訂 ㏄ 由 ︵ @ のオし仁隼 らニまを創刊し た ︒帰国  後︑彼は病床にあったが︑一九三一年サールナート ヘ 行 き︑三  三年一月十六日 ゥパ サンパ ダ を受け︑四月二十八日後 事 なバリ 

シンハに托して サ一 ルナートで逝去した︒ 

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@  トも 

  

とに関連して︑日本のそれは︑これまた日本軍国主義 0 対中国  工作に使われ︑両者の矛盾がそのままキリスト教の対 中国伝道  にもあらわれているということである︒要するに帝国 主義諸国  の中国植民地化政策にあらわれた矛盾︑衝突が︑キリ スト数十 

国 伝道にも明白にあらわれたということである︒ 

その一例をあげれば︑一九四 0 年 ︵昭和一五︶に鷲山 第 三郎は 

﹁ 北支 修道院見学報告記﹂︵これほ参謀本部および興亜 院 に提 

出したもの︶のなかで﹁学ヰ戎車 ノ 行動 昌 直接 ノ 障碍 ヲ ナセル 

ノミ カ其ノ後ノ 国際関係 ニマデ 遺憾ナル影響 ヲモタラ セシハ英 

米プロテスタント宣教師 亜 Ⅰ彼等 ノ 指導スル教会︑諸 学校二行 

ハレタル排日的意識 拉 二行動ナリ﹂と記している︒ こ @ ﹂には カ 

トリックとプロテスタントとの宗派的セクトもあるが ︑それ 以 

上に﹁支那事変勃発当時︑日本の基督教会は︑日本政 府 当局 よ 

り ︑支那の民衆に軍国主義的方法による︑平相と繁栄 と 善隣 と  を 招来するために努力する よう 要請された︒日本の基 督 数ム衣は  践曙 することなく︑感激をもって︑しかし何等の見 通 しなくし  て 行動を開始した﹂と戦前十五年間日本で伝道した 

ア 

フンボー 

氏 が語っていることに通ずる︒また一九三九年︵昭和 一四︶ 八 

月 に決定された日本基督教聯盟の﹁国民精神総動員 新 展開 ノ基  本方針 ヰ対 スル基督教 ノ 実施強化 案 ﹂には﹁各国基督 教 諸機関  ヲ適ジテ我邦ノ 根本目的二対 シ 正当ナル理解 ヲ遂ゲシ ムル二心  要 ナル方法 ヲ講 ﹂ずることが力説されるとともに︑ こ の年の四  肩 には満洲日本基督教聯盟が奉天に創設されている︒ また︑ と 

くに重要なことは同じころ申文宗教大同聯盟が発足し たことで  ある︒この組織は主として仏教であるが︑基督教も関 係 

をも㏄ 

ち ︑その指導は上海新市政公署と上海特務機関によっ て 行われ 

た 0 このことは︑ 中 支の布教に︑伝道が特務機関の エ 作 

と密接㎝ 

不可分であったことをしめすものである︒また同年国 内では神  仏基 三教対支布教協議会が文部省の主催で開かれてい る ︒そこ  で ﹁ 円 布教師の仕事として 見 ゆる機会を捉へて日本の 支那に 対  する意図︑今次事変の由来︑支那の将来辿るべ き道︑ 日本文化  東洋文化の本質等を充分理解せしむること㈲支那各地 に 設置す  る 教会には必ず相当大規模の日本語学校︑医療施設等 0 社会事  業 を行 ひ 所謂物心両面の救済に精進せしむること﹂ な ︒とが決議  されているが︑これから見れば︑ YMCA などが上海 その他 へ  医療班などを送り︑日本基督者医科連盟まで組織され たことの  客観的意味がおのずから明らかとなるであろう︒この 年に ノモ  ンハン事件が起っていることも 明 記しておいてよかろ ‑ Ⅰ ナ ノ 0  というのほ一九三八年︵昭和 一 三︶ セ 月に︑ハルピン YMC  A は北米 YMCA 同盟の手をほなれ︑日本 YMCA 同 盟の手に  その経営が う つったが︑このハルピン YMCA は ロシ ャ人のた  めの教育事業が主だったといわれていることが思い出 されるか 

らである︒ 

一九四二年︵昭和一セ︶すなわち太平洋戦勃発の翌年︑ 日本  基督教団は 一 1 戦時布教指針﹂なるものを発表したが︑ その綱領  には﹁国体 ノ 本義 ヰ徹シ 大東亜戦争 ノ 目的完遂Ⅰ 遼進 スベシ ﹂  とあり︑実践要目にほ﹁大東亜建設 こ於 ケル基督教 ノ 使命ヰ鑑  ミ国内ハ回 ョリ進 ンデ海外布教 ノ 発展昌秀 メ之 二対 ス ル 信徒 ノ 

     

第四部会 

  

ト 

Ⅱ 

道教経典の成立は仏教経典の訳出と相表裏して考えな くては 

ならない︒輪廻転生を説く仏教は本来万物一体観に立 御 してい 

る ︒これは基本的には人権の平等を肯定するもの てあ る ﹂人間 

は 本来平等であるという考え方は︑儒教的な身分差 さ 基調とす 

る 礼の世界に拘束せられていた中国人にとっては革命 的な思想  であった︒王侯貴族も庶民も宗教 人 としては︑即ち 仏 教 信者と 

‑ しては平等である︑ということは︑特に被治者階級 の 一般大衆  一には魅力に富んだ思想であったことは 察 

するに 

難 くない︒ た 

一 とえば︑呉の康借金訳出の六度 集 経巻八の摩諦三縄 をみると︑ 

吉岡  義豊  道教経典の成立について 

関心 ヲ 喚起 シ ︑青年信徒ヲシテ献身セシム ニ とある︒ @ ﹂れより 

三カ午後の一九四四年には︑日本 YMCA 

の第一回 

現地︵ 申 

国 ︶派遣 員 協議会と中華青年会全国協会幹事会が行わ ね ︑これ 

に 日本代表も参加して﹁キリスト教の精神にもとづく 大東亜 圏  内 諸国 YMCA の善隣友好運動五ヵ年計画﹂が協議さ れてぃ  る ︒これはさきに記した﹁戦時布教指針﹂の精神をも っ ともよ 

く あらわしたものといえる︒ 

要するに日本のキリスト教は︑米英のキリスト教に﹁ 大東亜  共栄 圏 ﹂を美化して理解させる役割を大陸伝道におい て 背負わ 

されていたといえる︒もちろんこれは成功しなかった が  身に八戒を持し︑月に六斎を奉ずることをすすめてい る ︒そし 

てそれを 奉 持したと ぎ は﹁上は導 行 の 英士 より下は黎 民 におよ 

ぶまで上に尊卑なし﹂といい︑また﹁捕吏には賢をも ってし︑ 

貴族をもってしないしともいってある " ﹁ 専 行の 英士 ﹂とは 冶  音階級の支配的地位の人々を指したものであるから︑ 仏法の前  には 人に尊卑がないことを明らかにしたものである︒ ﹁賢をも  ってする﹂というのも︑この 賢は 仏法信者を指したも のである  から︑大臣宰相の地位は門閥貴族に よ るのではなく︑ 仏法の信  者であれば︑何人でもその地位につくことができる︑ という生母 

味 である︒ 

仏教のこのような思想を受け入れて実践に う つした のが︑ ほ  かならぬ初期道教 | 原始道教1 0 人々である︒仏教 伝 来 のはじ  めにおいては︑中国社会におけるその実践的なにない 手は ︑実  は 原始道教とよばれている宗教集団の人達であったこ とを注目 

しなくてはならない︒後の教団的に分離対立した仏教 と 道教と 

が ︑その初期においては︑決して対立的な二つの宗教 ではなく  て ︑相互にからみあい︑ 混離 しあって存在する同一系 統の宗教  信仰として出発したものであることを忘れてはならな い ︒ 化胡 

説 というようなことも︑一般にいわれているよ う に 道 教 側の ︑ 

ためにするための作為的伝説ではなく︑ 化胡 思想が考 ︐ えられな 

げれば︑仏教の中国受容もあり得なかったのではない か ︑とい 

    ぅ ことを認識する必要がある︒       中国人が彼等の伝統的な社会生活の中において︑人格 平等の  理念を確立することは容易なことではない︒たとえ 仏 

典の説くⅢ 

拍︑   

  

どころに根拠を得ても︑それをそのまま所依の経典 と して奉拝  するには無理があった︒そこで彼等の伝統的な思想や 生活感情  に ︑より密着した聖典を造作する必要があった︒この ような 要  請 のもとに成立したのが道教の経典である︒道教経典 は 形式に 

おいても内容においても︑きわめて多くのものを仏教 から取っ 

ているが︑その根底に中国人の民族感情が流れている ︑という  点 において両者は顕著な相違をもっている︒仏教は思 想 として  宗教として第一級のものである︒社会の表舞台で知識 階級にも  てはやされるのも当然である︒道教はこれに反して 民 族 的な ァ  クが 強く 混 くさい印象さえある︒はじめから知識とし てもては 

やされるような宗教思想ではない︒しかし中国人の信 何 という 

面からみると︑道教が土台や柱である︒仏教は壁や屋 根 にはな 

ることができても土台になることはできない︒座敷に 入ること 

はできてもムロ所にいるわけにはいかない︒ムロ所にいっ た 仏教は  もはや仏教というには相応しくないほど変容したもの である︒ 

概括的にい う ならば︑仏教は知識として︑道教は信仰 とし  て ︑この両者が一本となって中国人の宗教を形成して いる︒ 仏  典が 漢訳されると︑道教でもまた新しい経典が造作さ れた︒ 仏  教は中国人に受容せられたけれども︑仏教でい う 平等 思想は ︑  道教という形式で受けとめられて︑そのすがたで実践 

せられ 

た ︒したがって中国社会に受容せられた仏教の正確な 理解は道 

教の研究から出発するのが︑新しい課題ではあるまい カ 

(372)  隆三世マンダラは詳しくは三界最勝マンダラといい ︑欲界 

︵本能的世界︶色界︵ 形 あるものにこだわる世界︶無色 界 ︵ 精  押界の領域︑例えば善に執着すること︶の三界に う ち 克つこと 

を 示すマンダラである︒ 

掩護訳の三十巻教正経隆三世品を概観すれば大自在天 ほ 三界  の 主なるが故に如何にするも三宝に帰依しない︒そこ で 世尊は  金剛サッ タ に懇懇金剛の姿を現ぜしめ︵ す 白み︶なる 大明を話  し 遂にこれを降伏する︒大自在天が降伏されづくした 時世尊は  大悲の心をもち大自在天始めその 替 属の二十六 を潅頂 し ︑金剛  名 を授け︑大悲を秘めた 葱 怒の智の働 き ︵聖なる否み ︶をもっ  て 真理の世界なるマンダラに引き入れる︒ここに外食 剛部 諸天  の マンダラが形成される︒ 一 たび真理の光を心に受 け し 大部 諸  尊は世尊の聖なる否みを自らの否みとし自我を破 懐克 伏しゆく  種子たる︵す口 宙 ︶要三︶を唱え︑ここに平等一如の三 味耶 の 世  界を体得し︑自我否定を通じ仏陀の世界に転入しゆく ︵ す引す ︶  なる種子をもってマンダラ中央の主尊の位置に転換さ れる︵ 三  世輪 マンダラ︶︒以下塵玉裳 喜 の 恋怒 十六大菩薩の代 りに天部  諸尊 仁 よる 恋怒 ︵自我の否定降伏︶が説かれ︑マンダ ラ 開門の 

口 万に魔王諸天が位置し四部の尊は外金剛部二十 大 で マンダラ  隆三世マンダラ 

八田幸雄 

02   

金剛界マンダラの哲学的考察︵三︶ 

  

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