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観  念

ドキュメント内 『宗教研究』236号(52巻1輯) (ページ 63-76)

論 

的 

自 

に 曝される そ 

こうして今や 

実践の否定転換 

働きの様式が自 

いる点でも︑ 面 

起しているのが 

しかたで転換を 

﹁絶対自力 即他 

無は ︑この自力 

余儀なくされる 

として経験され 

﹁絶対自力 即他  してかかる転換を行ぜしめる カ としての絶対 無は すなわち愛として経験されるのである︒ 

無期 愛と 性格 づ げられる絶対無 さ Ⅰ種の論理 当 初における絶対否定的無 と 比較してみよう︒両者 とも  構造に現在の統一を与える類の根源的統合の働 きとして解されていることに変わりはない︒また その 

己の否定 態 11種の直接 態 

︑相対有を介し 

ての所謂否定の否定としての絶対否定性と把握さ れて 

者の間に一貫性が認められる︒しかし両者の現 成 に対応する主体の行信的態度には︑根本的転倒 の生 

知られる︒種の論理は当初あくまで絶対合理主 義の立場であり︑主体の倫理的行為が種の類化と い︐ヮ 

成就することに よ り絶対否定的全体が現成する ものと考えられた︒それ 故 その作用の超越他力 ま︑ ル 

力 ﹂の信の対象として︑いわば︑自力遂行の背 面 に要請されたにとどまる︒これに対し無 即愛の 絶対 

理性が倫理的現実における苦闘のうちで絶対 批 判に 曝され︑かの信念に完全に行き詰って自己 断 滅を  ところに端的な超越他力性において現成し︑ 主 体の死を生死を超えた生へと復活せしめる絶対 転 換刃 

る ︒従って絶対 無は ﹁絶対他力即自力﹂として 行信されると言われる︒この立場 よ り見れば 当 初 め 

力 ﹂の行信は︑実践の否定転換性を理性がなお 観念的に把握していたことから︑倫理行為にそれ 目 

哲学を繊悟道それは哲学的理性の超越的 否 定 転換刃に働かれることの自覚として︑もはや﹁ 哲学ならぬ哲学﹂ た 

方 をとってきた︒それ 故 あらためて種の論理の再  る超 望観 学 であると舌口われるとして建設すべ 

構成という形で問題をとり上げるまでもなく︑  きことを提議するにあった︒具体的には︑それ 

類種個が 各々如何な  は 種の論理における 

類種 個の三者媒介関係を峨 悔 転換の自覚から 再 構成するとい分課題を指し示していよう︒しかし 此 小論では︑上述の  五年という中断期間にもかかわらず敢えて絶対 批 判 ︑ 俄 悔を種の論理そのものの必然的展開とし て 示そうとするやり  るあり方︑働きとして把握されることと相即して 繊悔 転換の自覚が成立してきたのか︑既にお ょ その解明は試みられ 

ている︒すなわち類は無期愛の超越的転換 力 ︑個 は死 ・復活というしかたで転換の媒介契機とな ることが知られた︒ 

ただ種については︑なお考察すべ き 点を残して ぃ る ︒というのも種は自然的生の根源たる直接 態 として 繊悔 行の否定  契機となるわけだが︑ 俄 悔の絶対転換性に基づき ︑ 他の二契機の示す転換 動 性と相即的に種にも また否定転換された  あり方というものが︑考えられねばならぬは ず だからである︒ 

質料的有の原理に基づいて自然的 主 における 個 社会存在を規定する種の基体性が︑ 峨悔 により 生 じられるのであ  ること︑ 梅説 を要すまい︒しかしそれは︑決し て繊悔が 個を社会から離脱せしめるということ を 意味するのではな  い ︒ 織悔 はあくまで具体的行であって・倫理的 現 実に よ る媒介を離れることなく︑それ自身社会 的 実践の性格を固持  する︒そこで個が 無即 愛の転換 力 に働かれて 生 死を超えた生に復活せしめられるという場合︑ そ のことが 行 的に証さ  れる場としての社会が考えられねばならない︒ そ れは復活せる個が絶対無の超越的 変 に対する感 謝 報恩としての 愛他  な 行証する社会空間であり︑無期愛の絶対還相に 協力奉仕せんとする個の相対還相としての相互 教化において成り 丈  つ 空間的連帯性である︒その有性は絶対無の空性 に 媒介されたものとして仮であり︑絶対還相の 媒介としての方便 せ 

(64)  問 うた ︒その主旨は・ おょ そ理性に よ る一切の 自力的試みの 犠悔に 帰着せざるを得ぬ所以を明示 し ︑この認識の上に ㎝ 

﹁  俄悔道  としての哲学﹂提唱に際し︑田辺博士に  とって決定的な導きとなった宗教思想は︑親鸞  の 他力念仏門であ  群  った︒  俄悔  転換の行道の自覚は︑一貫して  親  鸞の教えに信頼するという形で推し進められた  のである︒しかるにそれ  艶  以降博士は急速にキリスト教への傾斜を強め  てゆく︒このことの必然性を︑われわれは困難  なく理解できると思う︒ 

  

れる限り︑前章における種の転換  動  性に見られ  る 如く︑  俄  悟道は種族  倫 

%   理の否定転換︑社会解放と相即するのであから田辺博士は・キリスト教を最も歴史的 

    

実践と不可分である︒こらした社会変革の歴程 ぬ  史的  動  性を明確に示している世界宗教といえば  キリスト教である︒ここ 

65  ㏄ ) 

Ⅱ " / Ⅹ  界 としての意義をもつ︒種の転換されたあり方 とは︑これに 

る 種の転換 動 性が︑直接 態 ・方便世界として把握 される︒ 直  方便世界の相互教化 愛 他の霊的協同性へと転換 昇華されるの  種 のこうした転換 動性は ・ 繊 悔の宗教的社会 革 新 としての  性を打破し︑これを超越的 愛 に根底 づ げられた 人類的協同 へ  に 死して絶対無の愛に生死を超えて復活せしめら れる個は ︑  に 参与せしめられる︒この行道をたのまず反復す る 限りにお 

的 自覚は︑社会革新への参加を離れてはあり 得 な Ⅰ トと 舌ロわれ  外 ならない︒そこで類の無 即愛 ・個の死・復活 に 対応す 

接態 における血縁地縁的共同性が︑絶対 無 の 媒 介 により 

である︒ 

性格を明示している︒つまり 働 偕行は種族的 共 同の排他  と 媒介するという建設性を有する︒自己と種族 との罪業 

この転換 力 への感謝報恩というしかたで必然に 

@ しの建設  いて︑個は宗教的実存たり得る︒その意味で実存 かり古本数 

るのである︒ 

種の論理と世界宗教の  哲学 

宗教は自然成長的種族宗教の段階を克服した 倫 理 宗教としての特性を明確に備えるに至ったと 言 ︐え ・ よあノひ 

無論普遍 と種 とを区別したということは︑預言 者の活動の一面をなすにすぎない︒こうして区別 され引き離された 

両者を和解させることに生涯を捧げたという 点 

しかない︒しかし苦言口を呈し困難な道を説く者に  むしろ預言者的実存の本領は認められる 

︑ 民が素直に耳を傾げるはずもない︒和解の成 立 どころか 預 舌口者 自  であろう︒種族の既 ‑7 ︶ 

在 的状況が罪悪である以上︑預言者 は 展人に悔 改めを勧め︑神の恩寵を期待するというしかたで 双方の宥和をはかる 

身 ︑民に忌避され孤絶の境に追い込まれる︒ 預吾 一口者的実存に固有の悲劇性とは︑それである︒ こ うした境遇の中で彼 

がなお 民 との連帯と神の召命との双方に対し 誠 

こうした エ レミヤ︑第二イザヤという発展の延長  実 たらんとするならば︑彼は種族の罪を一身にひ 

線上に イヱス の実存は位置づけられる︒しかし  ぎ 受 け ︑自ら率先し 

前 二者は預言者で  て 神の前に 戯 悔を行じ︑種族のためとりなしをは かる外ないであろう︒預言者的実存の自覚の徹 底 が連帯 戯悔賄 罪の 

行 に体ならないとされる所以である︒そのこと を 明確に証した預言ロ者として︑田辺博士は ェレ︑︑︑ ヤを 評価する︒彼が 

さながら死人の生を生きたと伝えられること︑ そ してその自覚の根本がバビロン捕囚という種族 の 悲運にあたって 自 

ら 首に擁を負ったという行為に象徴される徹底 した連帯 俄悔 であった点に︑博士は自らの 俄 悟道 と 軌を一にするもの 

を 見出すのである 0 この エ レミヤの自覚は︑第一 一イザヤに受け継がれる︒ここではさらに神の側 からの恩寵による 救 

済 という観念が加わることにより︑この事業の ために用いられて種族を代表して 繊悔婿罪 を行 ず る ﹁神の悩める 僕 ﹂ 

という実存把握が成立した︒それはまさに預言者 絢実存の自覚態の頂点と目されるのである︒ 

あり︑イエスは世界宗教の師主である︒彼の実 存は ︑上述の如く﹁神の悩める 僕 ﹂をもって一応 の 完成に達した預 

音的実存を克服するという性格において理解さ れねばなるまい︒それは如何なる点に認められ るか︒論理的に言え 

ば︑ 既に田辺博士自身明にしたように・個が 蛾 悔を行ずるということ自体︑実は超越的他力によ り催 起されているの 

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るわけである︒ 

しかし田辺博士の論理的把握がそうであるにせ よ ︑実際においてイェスの説いた神の国が・黙示 文学的終末観の伝  統 に規定された超現世的内容のものであったこ とも否定できない︒終末観が神話的宇宙表象にと どまっている限り︑ 

神の国が上述の如き実存的意義をもつと は 言う ナ ﹂とができない︒ここで田辺博士は・終末観を宗 教 的実存の自覚へと 

媒介する可能性を ィヱス の福音そのものの内に立 証するという課題︑換言すれば ィヱス における 終末観の非神話化を  でなくてはならない︒絶対が相対をあくまで媒介 として用い︑その根原票 に 纏綿されたあり方を 新しい生へと復活 せ 8 

しめるという働きに裏づけられることによって ︑ 戯 聴は転換救済の意味をもち得たのであった︒ 預言者の場合︑未だの   この 俄 悔を行ぜしめられるという自覚に徹するも︑︑︑︑︑︑︑ のではない︒というのも絶対が義の神として 直 接的 有性において 相  対 に対時している限り︑相対はその前で 俄悔を 自力主体的に行な う外 ないのである︒ 俄悔 がその 超越的転換性におい  神の普遍的 義 としての性格は︑類 約愛 へと止揚  れるのでなくてはならない︒神の本質をそのよ う  て 真に自覚されるためには︑絶対は自己否定的に 

される︒彼の説く神の国の福音における 悔 改めと  真の絶対性に徹するものとして︑つまり愛の絶 なものとして知る実存形態こそ・イェスなので ある︒彼において︑  対 無性として信じら は︑ 神の超越的 愛に  よ り 催 起される 俄 悔の謂であって ︑ ﹁その神の愛 の 絶対転換が絶望的なる自己を赦罪救済する 超 越 性を讃仰し感謝し︑ 

もって神への愛を懐くと同時に︑それを表現し報 思 するために︑必然神に協力して・他の人間に 対する神の愛に参加  する︒隣人愛これである︒かくて神の愛と神へ の愛と ︑しかしてこの隣人愛とが︑私のいは ゆ る 愛の三一性を形 造  る ︒これが神の国の原理に体ならない︒﹂と言わ︵ 8 ︶ れる︒ここにわれわれは︑ 俄悔行 における転換 救済の積極面として  前に還相の語で表現されたものが︑今やイェス の 福音における神の国の建設原理としての愛の一一 三性に一層具体的な  形を見出しているのを知る︒神の国は復活せる 個 の麦地絢実践により う ち立てられる方便世界的 協同として理解され 

ドキュメント内 『宗教研究』236号(52巻1輯) (ページ 63-76)

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