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国  秋

ドキュメント内 『宗教研究』236号(52巻1輯) (ページ 53-60)

分  よ  な 

ものとして理解せしめようとする︒この観点か 5 種の存在性格は︑さらに立入って規定されるの である︒種は共同体  的 統一として︑相互に排他的対立関係に立つ︒ 換 冒 すれば 種的 統一は特殊相対である︒こうした 特殊性を存在論的に 

原理つげるのが︑質料の概念である 0 ここで 質 料 とは︑生命の存在のための自然的物質的条件の 総体を指す︒生の種  にそのことによ 立つ原初的統一 ということを 意 

自己の否定契機 

用いられる語で 

異な位置を占め 

しかしながら 

ら直接態を要請 

たで自らの他者 

る ︒論理の始 元 

いう説明が ︑へ  り ︑自己の前提として直接態を要請せざるを 得 ないのである︒今田辺博士により個の理性的存在 に先 

として種が把握されたことは︑とりもなおさず︑ この要請を満たす直接態として種が名乗りを 上 げた  抹 するであろう︒ここから種は︑論理以前の非 合理的直接 育 という性格規定を受ける︒弁証法は 種を  とすることにより︑絶対媒介の性格に徹し得る であろう︒﹁種の論理﹂とは︑かかる見通しのも とに  ある︒つまりそこでは類 種 個の十全な媒介関係 を 成立せしめる前提として︑種が他二者に先立っ て特 

るものと︑さしあたり理解されよ う ︒ 

そもそもの問題は︑ここで言う直接性の意味 如 何でなくてはならない︒一体︑絶対媒介を標 傍し よ三 元 カ  することは︑論理の自己廃棄に体ならぬであろ ぅ ︒ところが論理媒介がそうした自己廃棄という しか  たる直接態を措定することが︑まさに媒介の 一 様式なのだという主張を︑元来弁証法は含むの であ  たる直接 態は ︑一切の媒介の自己止揚であり︑ そ の 意味で媒介自身に よ り媒介された直接態であ ると 

| ゲル以来弁証法家の定式となっている︒田辺 博 モも例外でなく︑種の直接性をあくまで媒介さ ね た  い う ︑基本的要求を掲げる︒この要求の徹底は不 回避的に一つのアポリアへと導く︒およそ一切 が 媒介されてあらぬの     ばならぬ以上︑媒介︵論理︶そのものもまた︑ 自 らの他者たる直接 態 によって媒介されるのでな くてはならない︒ さ 

もないとそれ自身一つの無媒介直接 態に 堕してし まう ことになろ う ︒かくて論理は媒介を絶対的 に 貫こ う とするまさ  というのも周知の如く弁証法は︑何物をも直接 態 として許容せず︑一切を他に よ る 被 媒介の関係 において把握すると 

騒 

的 統一は︑それに全面的に依存する︒つまり 種 族 共同体は一定の土地を占有し︑そこにおける 自 然 資源を独占的に利  用 することによって存立し得るのであり︑そ う じた自然条件共有の超世代的指標たる血縁が ︑個 の 成員性を先天的に  決定づける︒これに よ り種は既往的空間性に固 定 された排他的自然統一でありながら︑個の現存 在 にとっては倫理性  と 自然的 愛 とがそこに由来する原初的統合として ︑基体たる意義を有するのである︒そこから 先 程の論理的考察にた  ち 帰るならば・特殊相対としての種の統一は ︑ ぬめ 根源的統合の質料における自己 外 化として 与 えられるものと解さ  れる︒類はそれ自身としては理念的絶対性である が ︑質料に自己を外化するというしかたで︑ 自 己 否定的に現実世界  の 相対的統合としての種を措定する︒この意味で 種は類の自己否定性に よ り媒介された直接態な のである︒ 

次に 種 との関係において理解される個の存在性 格は如何なるものか︒既に触れられている如く ︑ 個の生存は種によ  って先天的に規定される︒解釈学的 境位 としては ︑そのことは︑現存在が血縁地縁的統一の既往 的 空間性のうちへと  投げ入れられた者として自己を見出している 状 況 ︑所謂 被投性 として解されるであろう︒それを 論理的に根拠づける  ものは︑血と 王 との全面的繋縛のうちにある 個 の 既往 的 持続性としての身体である︒換言すれば 身体存在たることに  おいて︑個は種の限定拘束 下 にひき渡されてある 者として自己を見出している︒この意味で身体 は 種の質料的基体性  哲 0 個における対自化と看 徴 される︒身体の宿 @2‑ す 根本性向としての所謂 我性は︑ 種の排他的 利 己 性の対自化されたもの 学 

ぬに 

外ならない︒それはまた積極的に個の自由 意志を誘発して︑ 種的 統一そのものを 纂奪 せん とする権力意志の形に顕 古本 

  

  理しかし個は決して一方的に種の限定を蒙っ  て 存在するのではない︒近世観念論哲学の成果 に 立脚する田辺博士にと    橿 喘 て って 個は初めて︑個体︵ ︑ 個は本質的に理性存在者であり︑白 個的 主体︶と呼ばれ     

全的自覚を指針とし︑最高善の実現を追求する 道 徳 的行為である︒それは種の直接態を否定転換 して 種的 共同を類的  統合の普遍的道義性に立脚せしめるという︑ 種 の 類化作用として特徴 づ げられる︒種の直接態 な 否定契機とする論理  の 絶対媒介性とは︑かかる行為の発動に即して 現 われる類 種 個の三者相互媒介の動性をいりに 外 ならない︒ 今 その 媒  今関係を整理してみるならば︑類は種の直接 態 へと自己 外 化し︑ 種的 統一の内に産出されたもの としての個の生を有  らしめるが︑個は個体たることにおいて直接態 な 否定し︑種を類のもとへと高める︒その意味で 個体は 

︑ 

類の降下と  種の向上との両方向の転換動力である︒この 転 換性は ﹁基体 即 主体﹂の語によっても特徴 づ げら れている︒この転換  を通して類は︑自己の否定 態 たる種の直接態 な媒 介 契機としてそれをさらに否定するという︑ 否 定の否定すなわち 絶  対 否定のしかたで自らを実現することになる︒ 

︐ 

﹂こから田辺博士は類を絶対否定的全体性と把握 し ︑その作用性が個  0 行為において経験される事態を︑普遍の絶対 否 定 的無 と 呼ぶのである︒ 

そこで︑こうした類の絶対否定性の側から見るな らば︑個体の転換性はその実現のための媒介 と して使役されてい  るという関係に立つはずである︒﹁絶対はこれ︵ Ⅱ個の主体作用︶に於て自己の脱落を自己に 回 収し︑ 個の主体を通  じて自己自身に帰るのである︒時間の内容として 直接に現われる種が絶対の内に於ける絶対自身 の 脱落の途であると  すれば︑個は絶対の自己 内 遣帰を表はす﹂と ごロⅠ 3 

︶  @ 

われているとおり︑種の直接態を否定契機とする 個体の行為は︑徹底  して理性的︑自力的なるものでありながら︑同時 に 絶対否定的知の自己実現作用によって 催 起さ れ裏づ げられている  ものと 担 えられる︒ここから当然︑行為における 主体は有限微弱の身でありながら 己 れが真摯に 行為する限り︑絶対        

これを次の如く述べている︒ 

(56)  56 

種  し ︑必要に応じてはその拡張をはかるのでなく てほ ならない︒ 種 的基体の根本的存在性格はそれ 散斑狂的自同的持続  種的 統一は土地占有恒 よ る排他的空間統一とし て 存立を得るのであるから︑種族共同体は常に 既 得の空間性を固守 

(57) 

世界宗教の 

     

  

﹁而してこの絶対自力 即 他力の信︑即ち如何なる 否定的媒介としての歴史的環境とい へ ども基体 即 主体の実践的な  る 否定的媒介に於て︑自己の死期生なる転換の媒 介に 化せられ︑その統一に於て全体が実現せら れるといふ 信︑は  辮証 法の内にそれを貫く信に外ならない︒若し 之 をしも宗教的信仰に体ならないといふならば︑ 辮証 法的論理とい  へ ども宗教的信仰と相即するといふ べ ぎであら う     にもかかわらず︑この時期つまり種の論理の建設 難 における田辺哲学を宗教哲学と性格づけるこ とは︑われわれに  はできない︒何故というに︑ここでの博士の行信 的 自覚は︑到底宗教固有の領域に触れるものと は 考えられぬからで  ある︒その所謂宗教的 信は ︑絶対媒介の論理が 自己の他者として非合理的直接態を要請し︑しか もまた︑これを否定  契機として自己の貫徹を要請するという︑いわ ば 絶対合理主義の含む二重の要請から引き出され ている︒その意味で  それは︑理性的自力倫理の付随者たるにすぎない ︒この点で博士は︑実践理性の要請として宗教 的 信を根拠づけると  いう ヵ ント主義の立場を未だ脱していないと 言︐ え よ う ︒しかし種の論理そのものは︑その媒介性 の 徹底において︑ か  かる立場を根底から覆す必然性を蔵していた︒ そ の点を次に解明してみよう︒そうすることによ り︑ 後の働悟道哲学 

における自力倫理の徹底否定としての他力救済 

& 示教的境地の行信証が・実は種の論理の当然の 

帰着 処 であった事情 

群 る︑ 明らかになってくると思う︒ 

ドキュメント内 『宗教研究』236号(52巻1輯) (ページ 53-60)

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