第五章 父の発見――『ロリータ』
3. 見出された父
ハンバートのもとを離れ、ロリータはどこへ行ったのだろうか。もちろんクィルティの もとである。そのことは2人が再会した場面において明らかになる。先述したとおり、クィ ルティはハンバートとほぼ同年齢の著名な劇作家である。ラムズデールに住んでいた頃の ロリータの部屋にクィルティのポスターが貼られていたことからも、彼女がクィルティに 憧れていたのが分かる。クィルティと別れ、別の男性と結婚してもなお、ロリータにとっ てクィルティは、「これまでに夢中になった唯一の人」 (272) であり、「天才」 (275) であり、
「すごい人」 (275) であり、「めっちゃ面白い」 (275) 人である。映画女優を夢見るロリー タにとって、クィルティは夢の世界の住人なのである。つまりロリータに対してハンバー トがオブセッションを抱えているのと同様に、クィルティに対してロリータはオブセッシ ョンを抱えているのである。しかし、結局、クィルティに追い出されたロリータは、その あと2年間ほどレストランなどで皿洗いをして生計を立て、そこでディックと出会うことに なる。ではディックとはどのような人物なのだろうか。そこにはロリータのどのような選 択が反映されているのだろうか。
まず確認しておきたいのは、ロリータとディックとの生活が、クィルティのように上流 階級的でもなければ、ラムズデールにおけるロリータの少女時代のように中産階級的でも なく、はっきりと労働者階級的であるという点である。彼女が住んでいる町は、「ニューヨ ーク市から800マイルほど離れたところにある小さな工業都市」 (267) であり、「陰気な一 角に、害虫だらけの野菜園、掘立小屋、灰色の小雨、褐色の泥、もくもくと煙を吐くいく つかの煙突」 (269) がその光景を形作っていることからもそのことは明らかである。ロリー タの姿にも生活の変容が刻まれている。3年ぶりに再会したロリータは「すぐにわかるくら い大きくお腹が膨れてい」 (269) て、「頭は前より小さく見え [省略]、そばかすだらけの青 白い頬はへこんでおり、剥き出しになった脛や腕の日焼けは失せて産毛が覗いている」
(269) 。また、彼女は「茶色い袖なしのドレスにフェルト製のたるんだスリッパを身に着け
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ている」 (269)。母親と2人で生活していたときや、ハンバートと一緒にいたときに比べて、
ロリータの顔はやつれきっており、その生活はやはり明らかに貧しいものになっている。
すなわち、本章第1節で見たような、「理想の消費者」としてのロリータの面影はもはやな い。以前の生活とは異なり、部屋には映画雑誌もレコード・プレーヤーもなく、あるのは
「ロッキングチェアと長椅子 (夜10時以降は彼らのベッド)」 (270) のみであることからも そのことは明らかである。
それにもかかわらず、第二次世界大戦の傷痍軍人であるディックとの生活は幸福である とロリータは考えている。ディックに対するロリータの思いが語られている唯一の文章に それは読まれる。
彼女は、言ったとおり、話しつづけていた。いまやくつろいでしゃべっていた。わ たしが夢中になったことがあるのはあのひと [クィルティ] だけ。ディックは?ああ、
ディックはいいひとよ、いっしょにいるととても幸せだし、でもそれとは別の話。
(272)
ロリータが夢中になった唯一の人間がクィルティであったのに対して、ディックはそれと は別の形で愛すべき「いいひと」であると彼女は言っている。言い換えるなら、ロリータ にとってディックは、「夢中」になることはなくとも「いっしょにいるととても幸せ」にな ることのできる「いいひと」なのである。
ロリータはディックで妥協したわけではない。「酒と薬ばっかり」(276) で「セックス に関しては完全に異常」 (276) なクィルティの性的な要求に対して、「愛してるからそんな ことしたくない」 (276) と言い放った挙句にロリータは追い出されるという事態の推移から もそのことは明らかである。あるいはハンバートから何とかして脱け出しえたという物語 の展開を挙げてもよい。つまり、彼女は「愛」の問題に関して妥協することはないのであ る。
そのうえで、ディックは、ハンバートとは対照的な人物として描かれている。他者の苦 痛に対する両者の振る舞いにもそのことは明らかである。先述したように、ハンバートは 他者の苦痛に何の関心も示さない。彼は自らのオブセッションやそれを言語化するときに のみ鋭敏な感性を示すからである。しかし、ディックは他者の苦痛に敏感な人物である。
そのことは同じく第二次世界大戦の傷痍軍人である隣人のビルの手助けをするために電線
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工事を行う人物としてディックが初めてテクストに姿を現すという事態にも明らかである。
すなわち、太ったビルには片腕がなく、そのうえ、残った腕の指も残り少ない。それゆえ、
ビルには困難な手仕事をディックが引き受けているのであり、その振る舞いにはビルに対 する配慮が見受けられるのである。
それだけではなく、ハンバートとディックとのやり取りにおいても、両者の対照性がき わだっている。これから見るように、ハンバート自身もそのことを認めていることからも そのことは明らかである。ビールを飲みに家に入ってきたディックとビルは、一とおりハ ンバートに挨拶をし終えると、ビルの指から出血しているのにロリータが気づき、治療の ために彼女はビルを台所へ連れて行く。ハンバートがロリータの実父であると思い込んで いるディックは緊張して口を開くことができない。2人のあいだに流れる沈黙を破るのはハ ンバートである。
「それで」と私は言った。「君はカナダに行くんだね?」
台所で、ビルが何か言ったかしたせいで、ドリーが笑っている声がした。
「それで」と私は大声を出した。「君はカナダに行くんだね?カナダじゃなくて」―
―私はもう1度大きい声を出した――「もちろんアラスカだ」
彼はグラスを手にしながら、賢者のような表情でうなずき、それから答えた。「た ぶん、[ビールの] 缶の切り口で怪我したんですよ。イタリアで右腕をなくしたんで す」(274-275)
ロリータが「特別な大声」 (273) で話しかけねばならないほど第二次世界大戦において聴覚 を損傷したディックはハンバートのセリフを的確に把握できてはいない。あるいはまた、
ハンバートの英語の発音に訛りがあることが、ディックの聞き間違いを引き起こしたのか もしれない12。すなわち、秋草俊一郎が指摘しているように、ハンバートもビルの指を案じ ているはずだとディックは思いなしているのである13。おそらく、ディックは、「カナダ」
“Canada” を 「缶」“can”、 「アラスカ」“Alaska” を 「あらぁ」“alas” という悲嘆を表す語
彙と聞き違えている。言い換えるなら、ディックの的外れな返答に見られるのは、他者の 苦痛に対する共感である。繰り返しになるが、これはハンバートにほとんど欠如した感情
12 ハンバートの英語に訛りがあることについては、たとえば次を参照。Lolita, 273.
13 秋草, 189-190.
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である。ハンバートは、「不干渉という精神衛生をつねに好む」 (287) からである。大工仕 事をする彼の手もまた、ハンバートの手と対比的なものとして描かれている。それだけで はなく、ハンバート自身もその対照性に気がついてもいる。自分の「よこしまな哀れな手」
(274) は、「あまりにも多くの身体をあまりにもひどく傷つけてきた」 (274) のに対して、デ
ィックの「指の爪は黒く、割れているが、指骨、手根骨全体、頑丈で均整のとれた手首は、
私のものよりずっと、ずっと、すばらしい」 (274) と語られていることからもそのことは明 らかである。
では他者と協同して生きうる人物として描かれているディックをロリータが選択すると いうことは本作においてどのような事態を示しているのだろうか。それは良き父を見出す 身振りであるとひとまず言うことができる。言うなれば、ロリータが失踪したとき初めて ハンバートが感じる「孤独」 (258) とは対置さるべき連帯感によって結ばれた共同体におけ る父である。物語結末部における鉱山町の描写は、この意味での共同体を讃美するものと して読むことができる。
読者よ!私が聞いたのは子どもたちの遊び声のメロディにほかならず、ただそれだ けで、空気はどこまでも澄み渡っていたので、溶け合わさった声の蒸気のうちに、
壮大にして微小な、遠くして魔法のように近く、率直にして神々しいほど謎めいて いる――ときおり聞こえてくるのは、まるで解き放たれたかのように、まばゆい笑 い声が明瞭にわっと湧きおこる音や、バットの音や、おもちゃのワゴンのがたごと いう音だったが、それらはみなあまりにも遠くて、軽くエッチングで描かれた通り のどんな動きも目で見分けることができなかった。私が立っている高い斜面から、
その音楽的な震動を、背景をなしているある種の控えめなささやき声とともに個々 の叫び声のまたたきを耳にしていてようやく分かったのは、絶望的なまでに痛まし いのは私のそばにロリータがいないことではなく、この和音に彼女の声が混じって いないことだった。14 (307-308)
14 ここに描かれている鉱山町は、ナボコフが1951年7月頃、コロラド州南西部のテルライドで目にした 光景がもとになっている。つまりナボコフが経験したアメリカなのである。1951年9月初旬にエドマンド・
ウィルソン宛に送られた書簡のなかでこのときの様子が述べられている。「サン・ミゲル山地 (コロラド州 南西部およびその一帯) とイエローストーン公園付近での経験を話したかどうか定かでない。私はテルラ イドに行った (恐ろしい道のりだったが――果てしなく魅力的で、古めかしく、まったく観光客がいない 鉱山町で、気立てが良く魅力的なひとでいっぱい――9000から10000フィートはあるそこからハイキング をすると、町やトタン屋根や自意識過剰なポプラの樹が、巨大な花崗岩でできた山々へと連なる行き止ま りになっている谷の平らな底部におもちゃのように横たわっていて、聞こえるものと言えば、町の通りで