はじめに
これまでの議論からも明らかなように、ナボコフの長編小説における成人男性の主人公 たちは、あたかも父親になったり父親であったりする資格が剥奪されているかのような生 を運命づけられている。前章で取り上げた『ロリータ』の主人公ハンバート・ハンバート もまたしかりである。ハンバートはロリータを性的な対象としてしかほとんど見ようとし ない。それゆえ、ロリータの養父であるにもかかわらず、彼は父親としての役割を引き受 けようとはせず、ただひたすら彼女を性的に搾取しつづける。そのうえで、彼女に対する 罪の意識を感じつつも、押し殺しつづけるのである。だが時ならぬロリータの失踪劇がハ ンバートに再帰的なまなざしを導入する。そして彼は鉱山町で働く炭鉱夫の姿のうちに、
自分がそうあるべきであった理想的な父親像を見出すかのような叙述を行うのである。
だが、ナボコフの長編小説における父としての資格が剥奪されているかのような成人男 性の主人公たちは、つねに一定で停滞しているというわけではない。この点もすでに何度 か指摘しているが、いまいちど振り返っておこう。ごく大雑把に言って、本論第一章の『賜 物』から『ロリータ』へと向かうにつれて、父親としての役割を引き受けるという問題が 前景化しているのである。換言すれば、いかにして理想的な父親でありうるか、あるいは ありえたかという問題に成人男性の主人公たちは向き合わざるをえない事態が描かれてい るのである。ナボコフの自伝とて例外ではない。亡命先のアメリカにおいて家族が幸福に 暮らすことが期待されつつ、本自伝は閉じられているからである。では本章で扱う『プニ ン』はどうか。これまでの議論を考慮に入れたとき、本作はどのような布置に収まるだろ うか。これが本章の問いである。
議論を予告的に示しておくと、『プニン』における成人男性の主人公である亡命ロシア人 プニンは、少年ヴィクターの父親としての役割を引き受ける。しかもたんなる父親ではな い。つまり、実の子でもなければ、正当な養子でもない他人の子どもヴィクターの父親と いう役割をプニンは引き受けるのである。本章の結論部においてこのことの意味を問わね ばなるまい。だが結論を先回りして言えば、『プニン』において父を引き受けることは、い わば歴史への回帰を表している。
より具体的に言うと次のようになる。プニンは、虐殺された元恋人であるユダヤ系ロシ ア人ミーラを「決して思い出さないよう自分自身に言い聞かせ」 (134) つつ、この十年間を
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過ごしている。プニンがミーラを思い出そうとしない理由は、「ミーラの死のような出来事 が起こりうる世界では生きつづけることはできないからである」 (135)。つまり、プニンは、
「苦痛の歴史」 (168) としての「人間の歴史」 (168) から目を背けようとする。しかし、物 語の結末部において、プニンは「長年、温めてきた新しくて素晴らしい授業」 (168) を実行 に移そうとする。この「新しくて素晴らしい授業」とは、「苦痛の歴史」としての「人間の 歴史」を扱うものにほかならない。すなわち、物語の結末部において、プニンは歴史と向 き合おうとするのである。プニンのこの歩み出しが、少年ヴィクターとの関係にまつわる ものであることを指摘することができれば、歴史に回帰する父としてのプニンの様態を明 らかにすることができるだろう。
議論は次の手順で進められる。まず、本節において『プニン』の出版までの経緯やあら すじなど、議論の下地となる背景知識に触れる。次に、第1節では、亡命ロシア人プニンが アメリカにおいて置かれている社会的な関係について考察する。第2節では、プニンを公私 にわたって知悉していると思しき語り手について考察する。第3節ではプニンの私的な関係 を中心に考察する。
まず、本作が執筆され出版されるにいたる経過を素描したい。『プニン』は、ナボコフが
『ロリータ』を執筆していた1950年か翌年頃に構想されている。ナボコフは自分の長編小 説を雑誌に連載して発表することはほとんどなかったが、本作はその大部分が雑誌『ニュ ーヨーカー』に連載されたナボコフ唯一の長編小説である。雑誌連載した主な理由は、原 稿料を得て生活費の足しにしたいという経済的なものだった。連載時期は1953年11月から 1955年11月までの2年間にわたっている。完成版の書物の第1章・3章・4章・6章にあた る部分が掲載された。書物にまとめられて出版されたのは1957年である。
1954年2月の時点では、10章構成になる予定であった1が、最終的には7章構成に収まっ ている。雑誌掲載の如何に関わらず、7章すべてにタイトルが付されている。詳細は以下の とおりである。第1章「プニン」、第2章「プニンはずっと独身であったわけではない」、第 3章「プニンの日」、第4章「ヴィクター、プニンに会う」、第5章「松の木のしたのプニン」、 第6章「プニン、パーティを開く」、第7章「私はプニンを知っている」。完成版では、これ らのタイトルが取り外され、たんにアラビア数字が表記されているのみである。各章は、
独立した作品としても読むことができ、なおかつ、一見したところ物語性が希薄なため、
同じ登場人物が現れる短篇集と捉える批評家もいた。しかしナボコフはこれに反論してい
1 Selected Letters, 143.
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る2。本作はあくまでも長編小説として書かれたものであると作家は主張するのである。本 論もこの立場を取っている。それというのも、本作のあらすじを次のようにまとめること ができるからである。
『プニン』のテーマをあえて一言でいうと、アメリカへの同化を望む亡命ロシア人プニ ンの悪戦苦闘である。もう少し詳しく見てみよう。本作の主な舞台は、1940 年代半ばから 1950 年におけるアメリカ東部ニューヨーク州に位置するウェインデルという架空の町であ る。主人公のティモフェイ・プニンは、1898 年にロシアにおいて医者の息子として生まれ る。初恋の相手ミーラと蜜月関係を結ぶものの、内戦によって2人は引き裂かれる。やがて プニンは白軍に入隊してボリシェヴィキと戦ったのちに、ヨーロッパへ亡命し、第二次世 界大戦を機にアメリカへ逃れる。彼はヨーロッパ時代に亡命ロシア人の精神科医リーザ(愛 称)という女性と結婚し、やがて妻の不倫が原因となって離婚してからは独身のままであ る。彼はウェインデル大学で9年間、非常勤の助教授としてロシア語を教えることによって 生計を立てている。プニンはいまだにアメリカでの生活に馴染めているとはいいがたい。
彼の英語力は乏しく、アメリカの物質的な豊かさに驚きと困惑の入り混じった思いを抱い ているからである。もうすぐパーマネントの職が得られるはずだと踏んだプニンは、物語 の後半部において自宅を購入することに決め、アメリカに定住しようとするも、結局、後 任の人物――本作の語り手――に職を奪われる形になってしまい、新天地を求めて出発す るところで幕が閉じる。ひとまず以上のように梗概をまとめることができる。
あらすじからも分かるように、『プニン』は、ナボコフの長編小説のなかでは、相対的に 穏当な作品であると言えるだろう。つまり、性的逸脱や暴力的な描写が全面的に展開して はいないという意味で穏当なのである。実際、物語の主要な部分を占めるプニンのアメリ カ生活においては、1人の死者も出ることはない。当初の計画では、結末部においてプニン は死ぬ予定であったものの、決定稿では生き延びつづけるからである3。ゲンナジー・バラ ブタルロも指摘しているように、ナボコフの作家としての全キャリアにおいてこうした長 編小説はほかにない4。
先行研究を大まかに分けると二つの類型がある。一つは、語りの戦略に関する議論であ る。もう一つは、作品に施されたパターンについて論じたものである。言い換えると、ど
2 Selected Letters, 143.
3 Selected Letters, 143.
4 Barabtarlo, 600.
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のような語りの工夫が凝らされているのか、語り手は何者なのか、そこから何を導き出す ことができるのか、というタイプの議論が一方にある。他方で、本作に繰り返し現れるさ まざまな事物は何を意味するのかというタイプの議論がある。本論は、しいて言えば、語 りの戦略に関する議論にやや重心が傾いていると言えなくもない。それというのも、実子 でもなければ正当な養子でもない少年ヴィクターの、いわば無償の父たる亡命ロシア人プ ニンが結末部において見せる歴史への回帰の身振りは、語られる主体から語る主体への移 行を示唆しているからである。すなわち、主流社会によって語られる亡命者から、自ら歴 史を語ろうとする亡命者への変化が見受けられるのである。まずはアメリカ社会において プニンが置かれている状況を詳らかにしなければならない。
1. 嘲笑と同情
本節では、アメリカにおけるプニンの立ち位置を考察する。プニンにとってアメリカと はどのような場所なのだろうか、また、アメリカ社会はプニンに対してどのように振る舞 い、プニンはどのようにそれに応答しているのだろうか。
多くの批評家が指摘しているように、プニンは喜劇的な人物として描かれている面があ る。ここでいう「喜劇的な人物」とは、読者の笑いを誘うような間の抜けた失敗を繰り返 す人物を指す。たとえば、作品の出だしを取り上げてみたい。クレモナという町での講演 会に向かうべく、プニンは鉄道車両に乗車している。
その初老の乗客は、情け容赦なく走りつづける鉄道車両の北側の窓に面した席に座 っていて、隣も空席、前面の2席も空席だったが、彼こそはティモフェイ・プニン教 授にほかならない。 (7)
この一節では、周りにほとんど誰もいない車両にプニンが座っている光景が描かれている。
この作品を初めて読む読者には、なぜこの鉄道が「情け容赦なく」走りつづけているのか は分からない。しかし、再読する読者にはそれが分かる。すなわち、こののちに明らかに されるように、プニンは間違った列車に乗っているのである。つまり、列車が先へ先へと 進むほど、プニンは取り返しのつかない失敗に近づいていくという意味で、「情け容赦な」
いのである。
こうした失態をプニンが犯すのは、彼がぼんやりとした性格の持ち主だからではない。