はじめに
六つの章からなる本論において、最初に取り上げる作品が『賜物』1 (ロシア語の原題 Dar 、 英語版タイトル The Gift 、雑誌初出 1937-38年、原書単行本 1952年、英訳版 1963年) であ る。ナボコフがロシア語で最後に書いたこの長編小説は、ロシア語時代の集大成とも言え る質量を誇っている。本作がロシア語で書かれたナボコフ作品のうちでもっとも大著であ り、完成までにほぼ5年の歳月が費やされていることからもそのことは明らかである。また、
ベルリンにおける亡命ロシア人を描いた本作を考察することによって、のちの章で扱うこ とになる作品――アメリカにおける亡命ロシア人を描いた『プニン』など――をより相対 的に捉える視点を与えてもくれるはずである。
本章では、『賜物』において父子の再会はいかにして果たされるのかを明らかにする。言 い換えるなら、本作最終章において主人公フョードルが夢のなかで父と再会するという挿 話はどのような物語上の布置におさまるものであるかを明らかにすることが本章の目的で ある。亡命ロシア人フョードルが行方不明の父コンスタンと夢のなかで再会を果たすのは、
彼がチェルヌィシェフスキーの伝記を上梓したのちである。チェルヌィシェフスキーは、
本国内外のロシア人によって神聖視されている人物である。つまりどのような政治信条を 抱いているにせよ、ロシア人であれば誰でも敬意を抱かずにはおれない人物としてチェル ヌィシェフスキーは描かれているのである。このようなチェルヌィシェフスキーを批判す ることによって、本国内外のロシア人に共通する身振りを退け、フョードルは自らを孤高 にして正統なロシア人として浮上させるのである。言い換えるなら、正統なロシアを見出 すことと、父との再会を果たすことは、足並みを揃えつつ描かれているのである。つまり、
父との再会は、失われたロシアをふたたび見出すことを意味するのである。では失われた ロシアは、ベルリンという異国においてどのように立ち現われうるのか。言い換えるなら、
1 筆者の言語的な事由により、『賜物』はロシア語原文ではなく英訳版を底本とする。英訳版を底本として 論じることが可能である理由を以下に示す。『賜物』の英訳版は、ナボコフの「責任」 (The Gift, Foreword) 訳 である。自作の翻訳に際して、ナボコフは、逐語訳を旨としていた (Strong Opinions, 296)。また、ナボコフに よる自作の翻訳を研究したジェイン・グレイソンによれば、改作と呼びうるほど自由に翻訳されたものは 相対的にかなり少数であり、『賜物』もやはり大きな変更点はないという (Grayson, 9)。それゆえ、英訳版 には、原文との意味の隔たりや、経年による作者自身の変化の反映は大きなものではないと考えられる。
また、英訳版を用いて論じることは、まれなことではない。なお、『賜物』の序文からの引用の頁番号を記 していないのは、本文に頁番号が割り振られていないためである。‘Foreword” とのみ記されたほかの注に 関しても同様である。
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過去や現在や未来は、フョードルにおいてどのように結ばれうるのか。すなわち、『賜物』
における父との再会を考察することは、フョードルの時間意識を考察することと関わって もいるはずである。過去や現在や未来がふたたび意義深く交わり合ってこそ、失われたロ シアはベルリンという異国において見出されうるはずだからである。本章はこの点を巡り、
物語の進行に即して議論を進めていくことになるだろうが、本節では、『賜物』の執筆の背 景および亡命者の時間意識を確認することにしたい。
『賜物』は作家としてのアイデンティティが揺らぐさなかに執筆されている。それとい うのも、ナチスの台頭に伴う亡命ロシア人のコミュニティの荒廃によって、作家は読者を 失いかけていたからである。つまり、ロシア語で書く作家というアイデンティティを支え るはずの読者が減少することによって、アイデンティティの基盤がぐらつき始めていたの である。本作の執筆開始時点においてすでにこうした徴候が垣間見える。『賜物』執筆の準 備を開始したのとほぼ同時期に当たる1933年1月、アドルフ・ヒトラーがドイツの首相に 就任しているからである。ヒトラーは就任後間もなく、ゲルマン民族至上主義の旗印のも と、ユダヤ人排斥・反共産主義を喧伝している。ナボコフの妻ヴェーラはユダヤ系ロシア 人であったがゆえに、とりわけ危険が迫っていたと言える。言い換えるなら、亡命ロシア 人のコミュニティが徐々に荒廃してゆくさなかに『賜物』は執筆されたのだとも言える。
こうしたなかでナボコフは英語作家に転身する道を模索し始める。すなわち、アイデン ティティの変容を自ら選択する道を考慮し始めるのである。1933年4月29日、亡命ロシア 人の批評家グレープ・ストルーヴェ宛の書簡において、「私の年来の夢は英語で書いた本を 出版することです」2とナボコフが書き綴っていることからもそのことは分かる。
しかしながら、ロシアの作家になることを学生時代に誓ったナボコフにとって、英語作 家への転身は容易なことではない。それゆえ、散文の執筆言語としてのロシア語を捨て去 り、英語を選択することは、アイデンティティを根幹から揺るがすような事態を選択する ことにほかならないのである。すなわち、ナボコフにとって執筆言語の切り替えは、自己 矛盾に自らを追いやることに等しいとも言える。
もちろん、フローベールのように、たとえ作家が望むほどに裕福ではなくとも、年金に よって生涯生計を立てることが容易であった作家であれば、自作を出版することなど度外 視してひたすら文体の彫琢に打ち込むという選択肢もありうるだろう。だが、読者がいな
2 「私が置かれている状況は悲惨で、ありていに言って、ここ数ヶ月、ますます悪くなる一方です。フラ ンスの出版社が私の小説を出版する話は、ずるずると先延ばしになっています。 [省略] 私の年来の夢は英 語で書いた本を出版することです」(cited by Boyd 1990, 401)。
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いという事態はナボコフにとって致命的であったように思われる。作家業に伴うわずかな 原稿料や講演料もまた生活費の不可欠な一部をなしていたからである。それゆえ、ナボコ フが貴族階級の生活をしていたのは、あくまでも生涯における最初の17年ほどだったとい うことは強調されてしかるべきだろう。作家としてのナボコフはあくまでも労働者だった からである。そのため、ロシア語で書きつづけるという選択肢は取りにくくなっていたと 考えられる。ただでさえ苦しい家計をさらに圧迫するに違いない、望みの希薄な選択肢を あえて選ぶのは困難だからである。
この時期のナボコフは、作家としてだけでなく、成人男性としてのアイデンティティの 変容をも経験しつつあった。1934年5月10日、ナボコフ夫妻は一人息子ドミトリーを授か っているからである。すなわち、ナボコフは夫としてだけでなく父としてのアイデンティ ティを得ることになるのである。子供の将来を案じたはずのナボコフ夫妻にとって、政情 が不安定なベルリンを脱け出し、より安全な場所に移住することは、さらに切迫した問題 になりつつあったとも言える。言い換えるなら、息子の誕生によって、ナチズムに対する ナボコフの不安と怒りは助長されつつあったと言ってもよい。それゆえ、ヒトラー政権を 批判してもいるディストピア小説『断頭台への招待』の執筆がドミトリーの誕生と足並み を揃えているのは偶然ではあるまい3。
英語作家への転身の可能性を考慮に入れていたナボコフが、英語圏における職を本格的 に探し始めるのは息子の誕生から2 年経ってからのことである。すなわち、1936年9月、
ドイツ在住の全ロシア人亡命者の登録を亡命者管理局長であるビスクプスキイが開始する という事件がナボコフを動かすこととなるのである。実際に、翌年の1937年1月18日、ナ ボコフは、ベルリンを発ってパリへ向かっている。そして同年12月、かの地において『賜 物』の最終章に着手し、その翌年の1月に本作を完成させる。以来、ナボコフは、散文によ る小説の執筆言語を英語に限定し、ロシア語を用いなくなるのである。
では、政治的にも、社会的にも、言語的にも、地理的にも、ナボコフにとっていわば転 換期と呼びうる時期に書かれた『賜物』において、主人公の亡命ロシア人はどのように描 かれているのだろうか。後続する三つの節においてこの点を詳述することになるが、それ に先立って、亡命者の時間感覚について触れておく。
3ドミトリーの誕生のわずか一ヶ月半後にあたる1934年6月24日、ナボコフは『賜物』の第4章の執筆を 一時中断し、『断頭台への招待』を執筆し始めている。『断頭台への招待』については本論第四章でさらに 詳しく述べる機会があるだろう。