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――『ベンドシニスター』

はじめに

フョードルにとっての古き良きロシアに重なり合う不在の父に夢のなかで再会すること の意味を本論第一章『賜物』論で考察し、つづいてアングロ・サクソン的なものを選択す ることによってロシア的なものを排除したセバスチャンがやがてはロシア的なものと再会 することの意味を本論第二章『セバスチャン・ナイト』論において議論してきた。いずれ も父と「再会」するという共通項を持ちながらも、『セバスチャン・ナイト』における父た るロシアは、V. やセバスチャンがそこを振り返りつつ遠く離れてゆかざるをえないものと して描かれているということもすでに触れたとおりである。そのうえで、本章で扱うナボ コフのディストピア小説『ベンドシニスター』 (1947) は、「父としての旅立ち」に挫折する 物語として読みうる作品である。「父としての旅立ち」という語句が示しているように、本 作において問題となっているのは、主人公の父というよりも、父としての主人公である。

ゾラン・クズマノヴィチはこの点について別の観点から述べている。

『賜物』においては、父の不在がフョードルの関心を占めていたのに対して、『ロリ ータ』を含むほかの多くの作品においては、ナボコフが最大の苦痛と見なすことに なる子どもの死が問題となっている。(Kuzmanovich 2005, 22-23)

すなわち、本論の観点から言い直すなら、主人公の父から父としての主人公へと問題が移 行しているのである。言うなれば、『セバスチャン・ナイト』において父たるロシアから遠 く離れてゆかざるをえないことを悟った亡命者が、本作において父として旅立とうとして いるのである。では本作にはどのような父が描かれているのだろうか。具体的な議論に入 る前に、本節では『ベンドシニスター』の執筆背景を確認しておく。

本作は、ナボコフが「アメリカで書いた最初の小説」 (vii) である。つまり、英語という 言語で最初に書いた長編小説は『セバスチャン・ナイトの真実の生涯』だが、アメリカと いう場所で書いた最初の小説は本作なのである。アメリカの作家として本格的にキャリア をスタートさせた記念碑的な作品であるとも言える。だが執筆は遅々として進まなかった。

執筆に約4年 (1942年末- 1946年5月) の歳月が費やされていることからもそのことが窺え

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る。遅筆の主たる理由は、この時期のナボコフが、ハーバード大学比較動物学博物館の指 定研究員として、文学よりも鱗翅類の研究に多くの時間を割いていたからである。また、

翻訳や講義用原稿や雑誌記事を「すべて英語、英語だけ」1で執筆していたことも創作を遅 らせる原因にもなった。ここでは、戦時中に作品がすでに構想されていたということを確 認しておきたい。つまり、第二次世界大戦の刻印が本作に押されていたとしても何ら不思 議はないのである。

ナボコフによれば、「ベンドシニスター」とは、「左側から引かれた紋章の筋や帯を意味 する」 (viii)。だがそれだけではなく、「タイトルに関するこの選択には、屈折によってかき 乱された輪郭や、存在という鏡に映った歪み、人生が取る間違った変化、左向きのひねく れた世界を示すという狙いがあった」 (viii) という。すなわち、「歪んだ」 “Bend” 「悪意」

“Sinister” を暗示しようとしたのである。ではここで言う「歪んだ悪意」とは具体的に何を

指すのか。

ここで言う「歪んだ悪意」とは、ボリシェヴィズムやナチズムの合金であるとひとまず 言いうる。『ベンドシニスター』の序文においてナボコフが次のように言っていることから もそれは明らかである。

われわれ全員が知っている、かつ私の人生にも振りかかった、白痴や卑劣な体制に よって直接的に引き起こされた、鏡のなかのある反映を見分けることができるのは 疑いない。つまり、圧政や拷問、ファシストやボリシェヴィキ、俗物的な思想家と 独裁的な悪漢などの世界を。間違いなく、また、もしもこうした不人気な模範が私 の目の前に存在しなければ、この作品のなかに、レーニンの演説を少々、ソヴィエ ト体制をたくさん、ナチのいかさまの効率性をたっぷりと混ぜ合わせることなどで きはしなかった。(ix)

読まれるように、「レーニンの演説を少々、ソヴィエト体制をたくさん、ナチのいかさまの 効率性をたっぷりと混ぜ合わせ」たのが『ベンドシニスター』なのである。すなわち、「圧 政や拷問、ファシストやボリシェヴィキ、俗物的な思想家と独裁的な悪漢など」の「不人 気な模範が私の目の前に存在し」ていたがゆえに、本書は書かれたのである。

しかし、『ベンドシニスター』は全体主義や独裁政権だけではなく、独裁的なものをも批

1 Selected Letters, 36.

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判の射程に組み込んでいる。この作品の英訳版を出版する準備に取り掛かっていたナボコ フの妻ヴェーラによる編集者宛の書簡における次のような発言からもそのことは明らかで ある。

この書物に実際に現れている独裁政権は架空のものですが、a) ナチズム、b) 共産主 義、c) 非独裁政権におけるあらゆる独裁的な傾向にとりわけ顕著に見られる諸特徴 を入念に示しております。2 (Selected Letters, 80)

いま問題にしたいのは、ヴェーラが三番目に挙げている「非独裁政権におけるあらゆる独 裁的な傾向」という文言である。ブライアン・ボイドによれば、ナボコフはソヴィエト文 学とアメリカの大衆文化には相通ずるものがあると考えている3。すなわち、政府の意向を 汲み取るソヴィエト文学と消費者のニーズを汲み取る大衆文化に類似性を見出しているの である。画一的な政治的イデオロギーと地球規模での均質化に発展しうる資本の論理に類 似性を読み取っているのだと言ってもよい。

それだけではなく、ナボコフは、毛嫌いしていたフロイト4の精神分析をボリシェヴィキ に引きつけて糾弾してもいる。実際に、あるインタビューにおいてナボコフは次のように 発言している。「精神分析はボリシェヴィキ的なものを有しています――つまり内面の監視 というわけです。[省略] 象徴は個人の夢を殺し、そのもの自体を殺してしまうのです」5。 また、自伝において、フロイトの精神分析を「性的神話の警察国家」 (300) と呼んで批判し ている点にも、ナボコフが精神分析と全体主義をオーバーラップさせているのが分かる。

ナボコフから見たボリシェヴィキやナチズムだけではなく、ソ連文学や大衆文化や精神分

2 この手紙の日づけは1948114日である。『ベンドシニスター』のドイツおよびオーストリア語訳の 翻訳および出版のためのオプションを合衆国政府が取得することを申し入れたジョゼフ・I・グリーン大佐 への返信である。この手紙に見られるように、ヴェーラは、しばしばナボコフの代筆を行っている。

3 Boyd 1991, 96.

4 ジークムント・フロイト (1856-1939) は、精神分析の始祖。無意識の発見者としても知られる。フロイト によれば、意識の外部に存在し、しかも意識に影響を与えている無意識は、性衝動、すなわちリビドーに よって支配されている。そのうえで、幼少期における性的抑圧が神経症として回帰するのだという。ナボ コフはフロイトのこうした汎性論を徹底的に糾弾している。自伝の第1章の冒頭付近で彼は次のように書 いていることからもそのことが分かる。「性的象徴をむやみに探しまわる (シェイクスピアの作品にベーコ ン説を裏づける隻句を探しまわるようなものだ) フロイトの汚らわしくて、むさくるしい、根本的に中世 的な世界を私は断固として拒否する」 (20)。ベーコン説とは、イギリスの作家であるウィリアム・シェイ クスピア (1564-1616) の正体は、実はイギリスの哲学者フランシス・ベーコン (1561-1626) であるとするも の。フロイトの理論が決定論であることが、ナボコフの嫌悪感の主たる理由であることは先述したとおり である (Durantaye, 120)。

5 Interview with Anne Guérin, 27.

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析といった、出来合いの物語や一般論に特異なものを回収してしまう営みに対する批判を も射程に入れつつ本作は書かれたのである。

出来合いの物語や一般論が統括する独裁国家を描いた『ベンドシニスター』のもう一つ の特徴は、主人公があくまで特異な個性を保持しつづけようとする1人の父親であるという 点である。ナボコフの長編小説における男性の主人公のうち、生ける実子を持つ父親とし て登場する者は『ベンドシニスター』のほかにはひとりとして存在しない6。この希少性ゆ えに、『ベンドシニスター』における父としての主人公の存在は、たんなる一家族の男性と して見過ごされてはならないのである。『ベンドシニスター』における父子の問題の重要性 についてナボコフ自身も序文において言及している。「デイヴィッドとその父親に関するペ ージのためにこそこの書物は書かれたのであり、またそのためにこそ読まれるべきなので

ある」 (x)。もちろん、作者の注文どおりに作品を読むべき理由など存在しない。だが、父

子の描写のためにこそ本書は書かれたのであり、またそうした描写のためにこそ読まれる べきなのだとまで作者に言わしめている本作の父子関係はとうてい看過しえないのである。

これまでの文脈に即して言えば、本書は、独裁政権の問題と父の問題が合わさった作品 なのである。すなわち、革命によって様変わりした祖国において、父たる主人公はいかに 振る舞うべきかという問題が描かれてもいるのである。議論を先回りして言えば、独裁政 権に成り果てた祖国を抜け出し、古き良き祖国と同じ民主的な国家へと亡命することが企 図されることになる。そのとき、主人公はこの旅立ちを「亡命」ではなく「帰還」と呼ぶ ことになるだろう。すなわち、空間的な同一性ではなく、政治制度の同一性によって「祖 国」という概念が主人公によって把握されているのである。その意味で、ここに企図され た旅立ちは、新たな空間に祖国を重ね書きしようとする身振りにほかならない。『ベンドシ ニスター』における父とは、こうした意味での旅立ちを迫られた存在なのである。この旅 立ちは最終的に挫折することになるのだが、それについてはいまはこれ以上、触れずにお く。

議論は次の3段階に沿って進められる。まず、父としての主人公クルークについて考察す る。具体的には、クルークの父性の中核を成す亡くなった妻と結末部で虐殺される息子デ イヴィッドに対するクルークの態度を考察することによって、本書のテーマが「熱烈な優 しさが蒙りやすい苦痛」であることを明らかにする。次に、独裁国家および作者たる「私」

について考察する。両者を同じ節のなかで論じるのにはわけがある。それというのも、本

6 しかし、『青白い炎』におけるジョン・シェイドのように、子を失った親は登場する。

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