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西夏の多聞天信仰と作例

第五章 第 75 龕の多聞天像

3 唐以来の毘沙門天図像と西夏の多聞天図

3.2 西夏の多聞天信仰と作例

現在,ロシアに所蔵されている黒水城出土の西夏時代の文物の中に,多聞天図が多数見 られる。護法四天王の一人として,如来や菩薩の傍らに侍する図像もあるし,主尊として 単独に描かれる図像もある。なお,漢伝仏教系の着甲冑,持戟,托宝塔というイメージも 見られるし,それと異なり,持傘幢,持吐宝獣,騎獅のイメージも見られる。非常に豊富 な多聞天の図像を示す。およそ

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世紀におけるチベット仏教の多聞天図像は典型的 な漢伝仏教系の着甲冑,持戟,托宝塔というイメージから,飛来峰第

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龕を代表とする持 傘幢・吐宝獣・騎獅の多聞天図像へ変容する過程を考察するための重要な作例を残してい る。

エルミタージュ美術館に所蔵されている,番号

X2382

の多聞天と八大馬王曼荼羅図(図

5-6)

2は黒水城から出土した西夏時代の多聞天の絵画のひとつである。主尊である多聞天 の図像は飛来峰第

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龕の多聞天と非常に似ている様式をしている。画面の中央に描かれ,

黄色身で,青身の獅子に跨る。黄色宝冠をいただき,鎧を身に着けている。宝冠の様子は,

従来の漢伝仏教系の毘沙門天図像に見るものと同系統であると思われる。条帛をまとい,

体の両側で舞い上がっている。右手を胸に挙げ,傘幢の竿を持つ。左手は腰のところで,

1ロデリック・ウィットフィールド編集『西域美術 大英博物館スタイン・コレクション 敦煌絵画Ⅱ』講談社,1982,原色 図版15,解説p.318。

2 陳育寧,湯暁芳編『西夏芸術史』上海三聯書店,図版2.52,p.97。謝継勝『西夏蔵伝絵画:黒水城出土西夏唐卡研究』河北 教育出版社,2002,図版62,pp.145-153。

肌や宝冠の色よりやや濃い褐色の小獣の首をしっかりとつかんでいる。小獣は口から白色 の宝珠を吐いている。飛来峰第

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龕多聞天像と,同一系統の図像であることは疑いないだ ろう。特に,獅子の表現であるが,青身にたてがみと尻尾が緑色で描かれている。たてが みと尻尾の毛先のところに,蔓草紋のような巻いた模様が表現されており,飛来峰第

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龕の獅子像に見るたてがみと尻尾の表現と驚くほど似ている。なお,獅子の首をややひね って威風堂々と立っている姿も,やはり第

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龕の獅子像と非常に似た雰囲気が伝わってい る。このように,

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世紀末頃に遡るチベットにおける同類図像が現存していないことに対 して,表現上の多くの類似点が西夏の作品に認められることからも,飛来峰第

75

龕の多聞 天像と西夏に流行していた多聞天図像とが密接にかかわっていることはたしかであろう。

本図は単独像でなく,主尊多聞天の周りに,眷属が多勢描かれている。まず,主尊を囲 んでいるのは白馬に騎乗する八人の夜叉であり,八大馬王とも呼ばれる。右手の持物はそ れぞれ異なるが,いずれも左手は吐宝獣を持っている。頭光や身体の色も異なっている。

多聞天の頭上に位置するのは,白身のマーニバドラ(

Mānibhadra

)であり,それから時計 回りの順に,緑身のパーンチカ(

Pāñcika

),青身のクベーラ(

Kubera

),白身のムリドゥク ンダリン(

Mṛdukuṇḍalin

),黄身のプールナバドラ(

Pūrṇabhadra

),茶色身のサンジャヤ

Sañjaya

),褐色身のジャンバラ(

Jambhala

),青身のアータヴァカ(

Āṭavaka

)がある。彼 らの周りにさらに侍従がいる。画面の一番上の中央に,濃い青色の身体をし,獣皮の短裙 をつけている忿怒尊が表現されている。左手は胸に羂索を持ち,右手を挙げ,金剛杵を持 つ。足元に白身の象頭人身ものを踏んでいる。後ろに赤色の逆

U

字形の身光がある。チベ ット仏教の大黒天であると思われる。

本図にあらわれる多聞天と八大馬王との図像は,漢訳経典では典拠をなかなか見出せな い。上述したように,『毘沙門儀軌』の最後に,八大天王の名前を,「摩尼跋陀羅,布嚕娜 跋陀羅,半只迦,娑多祁里,醯摩嚩多,毘灑迦,阿陀嚩迦,半灑攞」と意訳されているだ けで,詳しい記述が見られないが,『俄蔵敦煌文献』の中に収録されている西夏時期の『多 聞天陀羅尼儀軌』「多聞天施食儀軌」1において,以下のようなより詳細な記述が発見され た。チベット語経典から訳されたものであると思われている。

「…当尊天王黄色,一面二臂,右手執七宝幢,左手鼠狼袋,乗七獅子,請在蓮花心中。

八施碍各乗白馬,住八葉上:東面椶捺(施碍),黄色,右手執宝珠。南面円満施碍,赤 黄色,右手執浄瓶。西面宝珠施碍,白色,右手火焔珠。北面馬主施碍,黒色。右手執

1 陳瑋「西夏天王信仰研究」『西夏学』第9輯,2013p.199

鈎。東南角尽知施碍,赤色,右手執刀。西南角参巴抜你施碍,青黒色,右手執槍。西 北角五尖施碍,黄白色,右手執宝楼。東北角喞弥布怛里施碍,白色,右手執傍牌。八 施碍左手尽執鼠狼袋,吐七宝,乗白馬,各随侍従,毎一億,各執種種器械。…」

主尊の多聞天に関して,「黄色,一面二臂,右手執七宝幢,左手鼠狼袋,乗七獅子」のイメ ージは本作品の多聞天図と似ているが,八大馬王に関しては,訳名がわかりにくく,位置 や,身色と持物などにおいて必ずしも一致しない。

東千仏洞第

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窟後室甬道にも,毘沙門天王と八大馬王のマンダラが

1

点現存している。

持物や身色にして上図と多少相違しているが,八馬王に対応する方位が確認できる。北は クベーラ(

Kubera

,漢訳金毘羅),西北はパーンチカ(

Pāñcika

,漢訳般支迦,または五娯夜 叉),西はマーニバドラ(

Mānibhadra

,漢訳宝賢,または善宝),西南はアータヴァカ(

Āṭavaka

, 漢訳阿咤縛迦),南はプールナバドラ(

Pūrṇabhadra

,漢訳満賢),東南はサンジャヤ(

Sañjaya

, 漢訳散支夜叉),東はジャンバラ(

Jambhala

,漢訳宝蔵神),東北はムリドゥクンダリン

Mṛdukuṇḍalin

,漢訳妙聚夜叉)である。

ほかに,エルミタージュ美術館には毘沙門天王と八大馬王の曼荼羅図がもう

1

点現存し ているという1。これはチベット仏教において発展した図像で,およそ

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世紀後半に,モ ンゴル族が統一国家を建立したことを背景に,漢伝仏教の地域にも伝わった。飛来峰第

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龕の多聞天像は,それよりも早い作例として見られる。その後,元の

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世紀から明・清ま で一貫して継承されてきた。故宮梵華楼には,清の乾隆年間に制作された多聞天と八大馬 王壁画が現存している。主尊の多聞天とその眷属の八大馬王が左手に持っているのは,上 述した黒水城出土の多聞天図にあるような黄身の吐宝獣のイメージでなく,灰色の鼠であ る。しかも,各尊格がその首をつかんでいるのでなく,掌に托しているしぐさをとってい る。これも,後世におけるもうひとつの変化として捉えられよう。

西夏時代の多聞天図によって,持傘幢,持吐宝獣,騎獅という典型的なチベット仏教系 の多聞天図像の成立時期が,

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世紀まで遡ることとなった。しかし,このような図像が成 立する原因やきっかけに関しては多くが未解決である。

謝継勝は「楡林窟第

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窟天王像与吐蕃天王図像」において,毘沙門天の持物で,宝塔の 代わりに鼠が登場するのは主にホータンに「神鼠」信仰が流行していたことの影響を受け たと述べている。筆者は,持物に吐宝獣があらわれたことについて,インド後期密教から 受容された宝蔵神,すなわちジャンバラの図像から影響を受けて,両者の図像に融合が発

1 謝継勝『西夏蔵伝絵画:黒水城出土西夏唐卡研究』河北教育出版社,2002p.153

生した可能性も少なくないと考えている。