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漢訳経典に説かれる毘沙門天と唐以来の毘沙門天図像

第五章 第 75 龕の多聞天像

3 唐以来の毘沙門天図像と西夏の多聞天図

3.1 漢訳経典に説かれる毘沙門天と唐以来の毘沙門天図像

毘沙門天という名は漢訳経典における音訳で,梵文原語は

Vaiśravaṇa

である。意訳とし て,唐の義浄が訳出した『金光明最勝王経』「四天王品」には「多聞天王」,金剛智が訳出 した『吽迦陀野儀軌』には「多聞宝蔵」,不空が訳出した『北方毘沙門多聞宝蔵天王神妙陀 羅尼別行儀軌』には「毘沙門多聞宝蔵天王」等が見られる。なお,チベット仏教において

rnam thos sras

または

rnam thos kyi bu

と呼ばれ,「多聞子」を意味する。

毘沙門天はもともと四天王の一員の北方天王であり,古く『長阿含経』第二十四「天王

品」において説かれる。四天王を説く経典として,ほかに『金光明経』や『金光明最勝王 経』の「四天王品」が主としてあげられる。およそ

8

世紀前半に,不空が密教経典を多量 訳出し,その中には毘沙門天を主尊とする経典や儀軌も多く含まれる。四天王から独立し,

独自の信仰を大いに集めていたのは北方天王の毘沙門天のみである。8 世紀頃から,ホー タンや吐蕃および,敦煌を中心とした地域で隆盛を迎えていた。

不空が訳した『毘沙門天王経』では,冒頭に「爾時毘沙門天王,在於佛前合掌,曰佛言 世尊,我為未来諸有情等利益安楽,豊饒財宝,護持国界故,説自真言。」とあるように,毘 沙門天の功徳として,守護神,財宝をもたらすこと,鎮護国家などが主としてあげられる。

その後の文において,毘沙門天が信者に財宝を賜う性格が中心に説かれる。

不空が訳出した毘沙門天経典は,上述した『毘沙門天王経』のほかに,『北方毘沙門天王 隨軍護法儀軌』,『北方毘沙門天王隨軍護法真言』,『毘沙門儀軌』,『北方毘沙門多聞宝蔵天 王神妙陀羅尼別行儀軌』などがある。『隨軍護法儀軌』の冒頭に,

「爾時那吒太子,手捧戟,以悪眼見四方白佛言,我是北方天王吠室羅摩那闍第三王子 其第二之孫,…我護持佛法,欲摂縛悪人或起不善之心,我昼夜守護国王大臣及百官僚,

相與殺害打陵,如是之輩者,我等那吒以金剛杖刺其眼及其心,…」

とあるように,毘沙門天の孫輩の語を託して,仏法を守護する以外に,国王や百官を守護 するなど現世利益を説く。特に最後に,「昔五国大乱,有八個月経月行多法遂無法験,行此 法降伏五国五萬軍自平安故,是名隨軍護法」おいう一節があるように,軍隊,あるいは戦 争に対する影響力を説く。『隨軍護法真言』においても,もっぱら毘沙門天が鎮護国家の功 徳を説くものである。その中に,毘沙門天のイメージに関して,以下のように述べるもの がある。

「於白氎(=疊)上画一毘沙門神,七寶荘厳衣甲,左手執戟矟,右手托腰上,其神脚 下作二夜叉鬼,身並作黒色,其毘沙門面,作甚可畏形悪眼視一切鬼神勢,其塔奉釈迦 牟尼佛,教汝若領天兵守界擁護国土,…」

漢伝仏教における着甲冑,持戟,托宝塔,夜叉鬼を踏む毘沙門天の図像は,ここに根拠を 求められるだろう。なお,般若斫羯囉が訳出した『摩訶吠室囉末那野提婆喝囉闍陀羅尼儀 軌』画像品第一では,同じようなことが訳されている。

「…画天王,身著七寶金剛荘厳甲冑,其左手執三叉戟,右手托腰又一本手捧塔,其脚 下踏三夜叉鬼,中央名地天,亦名歓喜天,左邊名尼藍婆,右邊名毘藍婆,其天王面作 可畏,猛形怒目満開,其右邊画五太子及両部夜叉羅刹眷属,左邊画五行道天女及妻等

眷属。」

京都の教王護国寺には,唐の

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世紀頃の木造兜跋毘沙門天立像が現存している(図

5-1)

。 脛まで長さの甲冑を身に着け,頭上に高くて,三面からなる宝冠をいただく。甲冑の表面 には「人」字形模様が積み重なっている。右手に三叉戟を持ち,左手の掌を上に向け,持 物は失われているが,当初は,宝塔をかかげていたことが想定される。足の下に三人の人 物を踏んでいる。両側にあるのは,鬼面の夜叉で,尼藍婆と毘藍婆にあたる。中央にある のは女性の上半身であり,上述した経典にいう「地天」あるいは「歓喜天」にあたられる。

中国四川省の石窟造像には,同じような毘沙門天像が数例確認できる。唐の

10

世紀作と比 定される楽山市夾江千仏崖第

159

号龕にある毘沙門天像1は,右手が体の横で拳を握り,持 物は失われているが,三叉戟であっただろう。左手は方形のものを持つしぐさであり,そ の方形のものは宝塔の基壇であると思われる。甲冑の様式は前述の教王護国寺所蔵の毘沙 門天像と異なっているが,高くそびえて,三面からなる宝冠はやはり同系統のものである。

足元に三人の半身像が見られる。両側にあるのは鬼面で,中央にあるのは普通の人間のよ うなイメージである。経典の中に説かれる地天(歓喜天),尼藍婆と毘藍婆の三人にあたら れる。ほかに,資中重龍山石窟や大足石窟にも,類似した毘沙門天立像(図

5-2

)が現存 している。彫刻以外に,絵画や敦煌石窟にある壁画にも,このタイプの毘沙門天の図像が 数的に最も多いことから,9-10世紀頃では,鎧を着け三叉戟と仏塔を持ち,堂々と立つイ メージは毘沙門天の最も典型的な図像であると推論される。

『毘沙門儀軌』において,毘沙門天が国家を鎮護する伝説を詳細に記載している。

「北方大毘沙門天王,唐天寶元戴壬午歳,大石康五国圍安西城,其年二月十一日,有 表請兵救援,聖人告一行禅師曰,和尚,安西被大石康□□□□□□国圍城,有表請兵,

安西去京一萬二千里,兵程八箇月然到其安西。即無朕之。所有。一行曰陛下何不請北 方毘沙門天王神兵應援。聖人云朕如何請得,一行曰喚取胡僧大廣智即請得。有勅喚得 大廣智到内云,聖人所喚臣僧者,豈不縁安西城被五国圍城,聖人云是,大廣智曰,陛 下執香炉入道場,與陛下請北方天王神兵救。急入道場請,真言未二七遍,聖人忽見有 神人二三百人,帯甲於道場前立,聖人問僧曰此是何人,大廣智曰,此是北方毘沙門天 王第二子独健,領天兵救援安西故来辞。聖人設食発遣。至其年四月日,安西表到云,

去二月十一日已後午前,去城東北三十里,有雲霧斗闇,霧中有人,身長一丈,約三五 百人盡著金甲,至酉後鼓角大鳴,聲震三百里,地動山崩,停住三日,五国大懼,盡退

1 『世界美術大全集 東洋編5 五代・北宋・遼・西夏』挿図135p.175

軍,抽兵諸営墜中。並是金鼠咬弓弩絃,及器械損断盡不堪用,有老弱去不得者,臣所 管兵欲損之,空中云,放去不須殺。尋聲反顧城北門楼上有大光明,毘沙門天王見身於 楼上,其天王神様,謹隨表進上者。…」

すなわち,唐の天寶年間,安西が大石康五国に攻められ,帝が胡僧(西域,あるいはチベ ットから来た僧)大廣智に尋ね,道場を設け,毘沙門天王神兵を請して安西を救援させた ことを述べた。このことは,もちろん鎮護国家のイメージに基づくと思われるが,さらに,

毘沙門天がまるで「戦神」のように崇められていた事情を説いている。

『宋高僧伝』巻一「不空」の条において類似の内容が記されている。注意すべきなのは,

最後に「帝覧奏謝空(不空),因勅諸道城楼置天王像(毘沙門天王像),此其始也。」と述べ られていることである。当時,毘沙門天は鎮護国家の守護神である以上に,敵軍を打ち負 かし勝利を約束する「戦神」として大いに信仰され,城楼において毘沙門天を祀る状況を 示す。党燕妮や張永安等による敦煌文書に関する研究1によって,敦煌においても,城楼に 毘沙門天像を描く,あるいは毘沙門天を祀る天王堂,または天王堂寺を建立することが行 われていたことがわかる。さらに,民間においても,毘沙門天を主尊とする「賽天王」と いう祭りが盛んに行われていたことも明らかになった。

『毘沙門儀軌』の最後に,八大天王の名が示されている。「摩尼跋陀羅,布嚕娜跋陀羅,

半只迦,娑多祁里,醯摩嚩多,毘灑迦,阿陀嚩迦,半灑攞」とあるが,名前が意訳されて いるだけで,詳しい記述が見られない。実は,漢訳の毘沙門天関連経典の中では,毘沙門 天とその眷属の八大夜叉を詳しく説くものはない。

唐五代宋では一貫して壁画から彫刻や版画まで豊富で多様な毘沙門天に関する美術作品 が残されている。基本的に,経典に基づく着甲冑,持戟,托宝塔,夜叉鬼を踏むイメージ は最も典型的な毘沙門天図像として認められる。そのような図像の背後にある信仰は主に 鎮護国家,戦神的性格を強調するものである。それと違って,「行道天王図」と呼ばれる作 品がある。大英博物館所蔵の,唐の

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世紀頃の「行道天王図」(図

5-3

2では,主尊である 毘沙門天は上述の作例と同じく甲冑を着け,武器の三叉戟と宝塔を持っているが,正面を 向いて立つのではなく,側面に向いて歩き出そうとする様子である。そして,単独像では なく,毘沙門天の傍らに天部と夜叉の眷属

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人を伴わせている。さらに,彼らは供物ある いは棒,剣などの武器を手に持ち,一番後ろの夜叉は鮮やかな旗を挙げている。これより

1 党燕妮「毘沙門天王信仰在敦煌的流伝」。張永安「敦煌毘沙門天王図像及其信仰概述」

2 ロデリック・ウィットフィールド編集『西域美術 大英博物館スタイン・コレクション 敦煌絵画Ⅱ』講談社,1982,原色 図版16,解説p.318-320。